レス・ザン・ワン
ヨシフ・ブロツキー著
笹山 啓
「訳者あとがき」には本書の出版が企画されたのは一九九一年とある。「待望の」という枕詞が何よりふさわしい訳業が、大御所から若手までの力を結集し遂に成った。自身の文章がインスタントに咀嚼されることを望まないであろう詩人にとっては、翻訳という名の精読にかけられたこの長い年月はむしろ当然といったところかもしれない。英露バイリンガル作家のナボコフ、ノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィンなど、同じ時代を生き表面的には似たプロフィールを持つ大作家らに比して、文学史上の重要性は劣らないはずのブロツキーの翻訳紹介はこれまで顕著に少なかった。詩という圧縮された表現形式が、実際以上に「言葉少な」な詩人像を形作ってきた側面はあるだろうが、今回大部のエッセイ集が翻訳され、詩人の率直な言葉に触れる機会が増えたことで、本邦におけるブロツキー受容の新たな一ページが開かれたと言える。
ブロツキーという稀代の詩人を理解するための必読書である本書をひもといた読者は、そこで語られる重要なテーマの一つが「時間」であることに気づく。ブロツキーにとって時間とは詩の本質を成す要素である。彼が敬愛するロシアの詩人アフマートワを論じた「哭きの歌のムーサ」では、「詩の音楽と呼ばれるものは、本来、再構成された時間のこと」(五〇頁)という見解が提示される。ここで言われているのは、音楽というものが厳密に計算された時間的な前後関係を前提とする音の連なりであるように、詩の韻律もまた時間の中で初めてその本来の性質を発揮する(ブロツキー的に言えば「立体的性質を獲得する」[五〇頁])ということだろう。「物語の筋のためだけに書かれる詩篇はないというのは、死亡記事のために生きられる生がないのとまったく同様である」(五〇頁)という言葉に端的に表れるように、詩の本質が時間に置かれるなら、筋書きを要約したところでその詩を真に体験したと見なすことはできず、詩に刻み込まれたのと同じだけの時間を生きる以外に理解の道はない。
概して詩論というものはそれ自体が詩に近づいていくような趣があるが、数字やあらすじに還元できない詩の生命そのものである韻律=時間から詩を切り離し、散文で語り直すという行為が持つ困難さがそこには表れているようでもある。ブロツキーを手に取ろうという読者が、本書で取り上げられるアフマートワやカヴァフィス、モンターレ、マンデリシュターム、ウォルコット、オーデンといった詩人たちの名前に怖気づくことはないのだとしても、五人の訳者が訳文に施した彫琢、そして丁寧な注の数々にもかかわらず、そこで展開される議論はそれぞれ難解である。詩から散文へ、そして英語から日本語へ、二重の「翻訳」を経た詩論を理解しようとすれば、ブロツキーの「時間」感覚を共有し体に馴染ませていく必要がある。
そのためには、ブロツキーにとっての時間が創作論上のテーマに留まらない、言うなれば「生」の問題に直結していたことに注意を向けねばならない。ここでは、本書の原著出版から三年後の一九八九年に発表された戯曲『大理石』において、塔という「空間」に幽閉された二人の男が「キロメートルによって汚されていない、純粋な時間」に解放の可能性を見出したことが想起される。『レス・ザン・ワン』の最後に収録された「一つと半分の部屋で」では、詩人が遠いアメリカの地にあってその最期を看取ることができなかった父母を思い起こすとき、記憶(これもまた時間のテーマに連なるモチーフである)が「暗闇の中で撮影されたフィルム」(五〇九頁)のように不十分なものでしかないことを嘆きながらも、ロシア語とは別の規則、別のリズムを持つ「英語の動詞に二人の動作を描いてもら」(四七三頁)い、父母と過ごした日々をゆっくりと「再構成」していくことで、彼らの自由を束縛したソ連という空間から二人を解放しようとしている。そこで時間は生きて脈打つ温かな存在である。
ブロツキーは、今度は詩人ツヴェターエワの作品を論じる「詩人と散文」という文章において、「読むことは創作に共同参加することだ」という彼女の言葉を引きながら、「詩人が散文という、読者と交流する際の先天的(アプリオリ)に『ノーマル』な形式に目を向ける裏には、速度を緩め、ギヤを切り替え、釈明し、説明しようという動機」(一九九頁)、つまり詩という形式と読者との間に発生しがちな断絶を埋め、読者と共同で表現を完成させたいという意志があるのだと説いている。ブロツキーの詩論が易しくないのは、むしろ読者を詩人にとっての対等な共著者と認め、己の立つ場所に読者らを引き上げようとする誠意からだろう。それでも彼の書く文章が最終的な部分で読者を突き放さないのは、そもそも詩人という存在が、客観的に見てその言語能力がどれほど卓越したものであれ、人間の生そのものを描き切るには自分の言葉はいつも少しだけ足りない、そんな窮乏の感覚を持っている人々だからではないか。詩人として、息子として、亡命者として、犯罪者として、この世界に現れ出るいくつもの自分が、そのどれも常に少し「一」に満たない――「レス・ザン・ワン」――という感覚が、それでもなお言葉によって眼前の世界の鼓動を十全に捉え切ろうとする詩人の活動の根源にあることを、本書はよく伝えている。(加藤光也・沼野充義・斉藤毅・前田和泉・工藤順訳)(ささやま・ひろし=富山大学講師・ロシア文学)
★ヨシフ・ブロツキー(一九四〇―一九九六)=旧ソ連のレニングラード(現サンクト・ぺテルブルク)生まれの詩人。一九七二年に国外移住を強要されアメリカ合衆国に亡命。一九八七年ノーベル文学賞受賞。
書籍
書籍名 | レス・ザン・ワン |
ISBN13 | 9784622097655 |
ISBN10 | 4622097656 |