百人一瞬
小林康夫
第87回 工藤丈輝(一九六七― )清水靖晃(一九五四― )
今回は特別で二人登場。舞踏家とサキソフォニスト、お二人のクロスオーヴァーを観客として見届けた昂奮を書き留めておく。
たった一晩、工藤さんと清水さんが共演するとなれば、なんとしても観に行かなければならない。なにしろ、お二人は、山田せつ子さん(本連載第13回)とともに、東大の最終講義のあとで行ったダンス・パフォーマンスに共演してくださっているのだから。あのときは、三〇分という上演時間だけが決まっていてあとはそれぞれの自由。わたしはフルに動かせる身体などもっていないので、冒頭、舞台に座りこんでアウグスティヌス『告白録』の皮装の古書を開いて仏語の文章を読み上げ「時間稼ぎ」をしたのを思い出す。その友人たちがどんな出来事を呼び寄せるのか?
座・高円寺のホール中央には、ボクシング・リングのような木の平台が組まれていて、その上には多数のコードがついたPC二台が置かれているだけ。そこに黒い帽子を被った外国人があがってきて、開演。途端にノイズのような多様な音が響きはじめる。そして、ああ、懐かしい! 客席の後ろから、薄茶色の衣装をまとった白塗りの工藤さん出現。反対側からは、おっ、元気そうだな! テナーサックスを抱えた黒服の清水さん。
しかし、予想に反して清水さんは曲を吹くのではなく、自身の声まで使って音のセリーを出す。その音を、その外国人カール・ストーンさんがPC操作をしてさまざまに変容させ、時間・空間全体を撹乱する。そのカオス的時空のなかを、工藤さんが、いつものように痙攣する鬼神の身体となって駆け回り、最後には地面に叩きつけられるかのように昏倒する。
そうした痙攣する時空に巻き込まれながら、客席にいるわたしのなかに浮かびあがったのが、ああ、言葉よ、コトバよ、来ておくれ! という激しい渇望だったろうか。ノイズに満ちたカオス、それでもわたしは、鬼となって崩れ落ちるのではなく、そこから〈黄泉がえり〉たいなあ、と。
それが起こる。工藤さんが昏倒から立ち上がると、なんと顔がすっかり変わっていまや女性的な優雅な顔立ちに見える。若返っている。それとともに、清水さんのサックスから、そう、あのバッハのゴルトベルク変奏曲の一節が吹き出される。鬼神が天使へ再生する。わたしの眼から一滴の涙が溢れ出す。
もちろん、それで終わるのではない。「天使」は再び地上に降りて、しかし今度は「鬼神」ではなく、「人間」となって、最後は人間としての「死」を静かに死んで行くのだった。
工藤さん清水さんに会いたくて駆けつけたので、上演の趣旨を頭に入れていなかったのだが、パンフレットを読んでみると、工藤さんは「動悸と呼吸、血の廻りによる、再生の試み」と書きつけているではないか。それを知らず、しかしわたしは確かに「再生」の劇を見届けましたよ、とシャーマン・工藤さんに言いたいかな。
あとで楽屋を訪れて少し話をしたが、リハーサルなどないぶっつけ本番の「即興劇」だったようで、まったく異なる二つの存在のあいだに起こるその「一瞬のクロスオーヴァー」に、わたしもまた密かに「交差」させていただいた激しい夜であった。
工藤さん清水さんとは、東大最終講義以前にもそれぞれ、わたしが理事をつとめていた軽井沢のセゾン現代美術館の展覧会イベントに出演していただいている。拙著『存在のカタストロフィー』(未來社)の「ブルー・カタストロフィー」の章にその記述もある。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)
