<新たな「宇宙技芸」を発明するために>
対談=原島大輔×伊勢康平
ユク・ホイ著『ポストヨーロッパ』(岩波書店)刊行を機に
いま世界的に注目される、香港出身の哲学者ユク・ホイ氏の新刊『ポストヨーロッパ』(岩波書店)が、原島大輔氏の訳で出版された。惑星を覆う技術文明の行き詰まりと「哲学の終わり」を打破するには、私たちの思考や存在を規定するテクノロジーを省察し、非ヨーロッパ的な思考や技術との緊張関係から「思考の個体化」を成し遂げる必要があると論じた書だ。
本書の刊行を機に、訳者の原島氏と、既刊『中国における技術への問い』(ゲンロン)などを邦訳した伊勢康平氏に対談をお願いし、ホイ氏の思想の内実と射程について議論していただいた。(編集部)
原島 まずはユク・ホイさんの経歴についてお話しします。彼は香港大学でコンピュータ工学の学士号を取得しますが、大学院はロンドン大学ゴールドスミスに移り、ベルナール・スティグレールのもとで博士論文を書いて哲学の博士号を取得、そしてロイファナ大学リューネブルクで哲学の大学教授資格を取得します。現在はオランダのエラスムス大学ロッテルダムの哲学教授を務めています。
伊勢 なお、ホイさんは2020年ごろから数年ほど、香港城市大学で教鞭をとっていました。そこからオランダへ移ったのちに、本書『ポストヨーロッパ』の原著は書かれています。
原島 この経歴から私が思うのは、彼はヨーロッパ思想のメインストリームで仕事をする意志が強いのだろうということです。カルチュラル・スタディーズ、批判理論、構造主義とポスト構造主義を含めたフランス思想、これらの潮流を経たうえで、現代思想の最前線を開拓している。ホイさんの著作と向きあう心構えとして、これらを押えておくと理解が捗るでしょう。
それから、ホイさんはハイデガーの強い影響下にある哲学者です。しばしば指摘されることですが、戦後ハイデガーの思想を継承したのはドイツではなくフランスでした。例えばそれはジャック・デリダです。その弟子にスティグレールがいる。そしてホイさんは、さらにその弟子にあたります。
伊勢 いわゆるフランス現代思想が、ハイデガーの持つ政治的な危うさをうまく取り除きながら継承した、そしてそれをホイさんが取り込んだという側面はあるでしょうね。
しかしその一方で、ホイさんの思想は一種の東洋哲学としても理解される必要があると考えています。というのも、20世紀に現代新儒家が登場して以降、中国の哲学者は一貫して同時代の西洋哲学を踏まえながら伝統思想の再構築に取り組んできたからです。
その意味では、ホイさんがヨーロッパの文脈から中国的なものを論じ直しているのは、実は現代における真っ当な東洋哲学の実践ではないかと感じます。日本では京都学派がすたれて以降、井筒俊彦などの例外を除き、このような姿勢は主流ではなくなっているかもしれませんが。
原島 ホイさんのような仕方で思想の多様性を引き受けて継承することが、これからますます真っ当な思想として受け止められる――これが将来の思想にとって一条の光になるのではないかと強く思います。
伊勢 ところで、ホイさんの著書の基本的なスタンスは、問いとフレームワークを提示することにあると言えます。私たちが直面している状況をたくみに整理して、乗り越えるべき問いを示す。けれども具体的な回答は記述せず、〝これはわれわれの課題である〟といった仕方で本が閉じられる。だから時々読者からは、「じゃあどうすればいいのか、と思ったら本が終わって落胆した」という感想を伝えられます。
しかし、ユクさんが発見し、私たちに提示してくれている問いは非常に大きなものなので、わかりやすい答えがないのは仕方ない気もします。彼の著書は、読者がそれぞれの関心や日々の取り組みと関連付けながら、うまく使えるところを見つけて自ら活用していくことを求めるものなのかもしれません。
原島 今おっしゃったような感想には私もよく接します。しかしそもそも、何らかの答えを求めて思想書に接するのは非常に危ない。思想書は、啓示を受けて預言者が書いたテキストではありません。著者が読者と同じように世界の中に生きて思考をしたその結果がテキストに表れている。生きた思考を記した本の中に、読者を打つ問いがあれば、その人は応答を迫られる。こうした連鎖を通して思想は受け継がれていくのです。その意味でホイさんの著書には、問いかける魅力というものが強烈に宿っているように思います。
伊勢 ホイさん自身も「問いを提起することが、哲学者として一番大事なことだと思っている」という主旨の発言をしています。他方でホイさんが展開する議論は、技術や芸術といった実際に手を動かして制作する分野にかかわるものが少なくありません。翻訳者の実感としても、彼の著作はものや作品をつくる人たちにも確かに届いているように思います。
原島 私の周りだと、エンジニアやデザイナー、アーティストで、ホイさんの仕事に触発されている方々が何人もいます。技術というものを根本的に考え直したり、後で触れる「技術多様性」とはどのようなことか、自分で実践しながら探求したりしているわけです。
ホイさんは、技術哲学の領野で現在進行形で大きな仕事をしている哲学者です。つまり、現代文明のことを深く考えるのであれば、テクノロジーの問いは欠かせないと考える人たちの一人です。しかしながら、実はホイさんは技術哲学の主流派ではありません。彼の思想が明確に、後期ハイデガーの技術論を下敷きにしているからです。
多くの技術哲学は、ハイデガーの技術論のうち、『存在と時間』の道具分析、つまり前期技術論のみ受容して、後期技術論とされる総かり立て体制〔Gestell〕論を中心とした文明論的な「技術への問い」には批判的に向き合います。個別具体的な技術に倫理的な介入をするのが、世のため人のための技術哲学のあり方だと考えるからです。それはもちろん重要なのですが、ホイさんの思想はもっと視野が広い。
伊勢 ホイさんはよく「もはや哲学はテクノロジーに対して倫理しか提供できないかのようである」などと語っています。もちろん、倫理的なものの重要性を認めていないわけではありません。倫理にとどまらない事柄に哲学は取り組むべきだという意味です。そのために必要なのが、テクノロジーと一層根本的に向き合うことに他ならない、と彼は主張する。
技術について論じるにあたり、ホイさんは「故郷喪失」という概念を前面に押し出します。非ヨーロッパの諸地域は、近代に西洋からテクノロジーを押し付けられました。それは単なる道具にとどまらず、私たちの文化や生活、あるいは自然や時間の捉え方の全てを一変させてしまうものでした。
その表れの一つが、〝故郷が失われている〟という実感です。ふるさとの町や村がまったく異なる街並みに変容していく、あるいはテクノロジーが可能にした高速長距離移動によって、生まれ育った地から離れて生活することが容易になる、場合によってはそうせざるを得なくなる。この時に人びとが感じるのが、故郷喪失に他なりません。
ですが、この状況に応答する試みは、ややもすると失われた地域の〝本来性〟を求めることでテクノロジーに対抗するというパターンに陥りかねません。私たちは故郷を喪失したのに、幻想としての故郷を求めてしまうのです。これは『中国における技術への問い』で提起された問題であり、本書『ポストヨーロッパ』では大きなテーマの一つになっています。
これを乗り越えるための重要概念として彼が掲げるのが「技術多様性」です。現代では、文化や人種、あるいはジェンダーなどにおいて、かつて見過ごされていた多様性が発見されるようになりました。にもかかわらずテクノロジーにおいては、誰もが同じ一つの、西洋由来の技術を使い続けている。このことに批判のまなざしを向けるのはやはり妥当であり重要なことです。技術多様性を通じて故郷喪失を乗り越えるというのは、ハイデガーの技術批判を引き受けながらハイデガーを超えていく試みだといえるでしょう。
原島 ハイデガーの文明論が技術哲学で忌避されがちである背景には、彼の抱えている人種主義・民族主義があります。戦間期のナチス加担について終生はっきりと清算しなかったこともあり、後期技術論はその曖昧な自己弁護として非難されることもあります。
だから、どのようにして彼の思想と対決するかが重要な問いになる。今ご説明いただいた「故郷喪失」もハイデガーに由来するものですが、彼の思想をどのように批判的に継承するかという問題も、本書の議論の射程の中に入っています。
原島 さて、私見では、ホイさんのこれまでの仕事の肯綮は、三つの重要概念を提出したところにあります。一つは「技術多様性」、一つは「宇宙技芸」、そしてもう一つが「思考の個体化」です。
伊勢 「宇宙技芸」は、私たちは技術をどう理解すべきか、という枠組みを含んだ概念ですね。今私たちはほとんど単一の、西洋の自然科学によって規定されるテクノロジーを用いて生活しています。しかし、かつて世界の各地域には有形無形の様々な技術が、つまり「技術多様性」がありました。それらの技術は、用いられる道具の形状や機能も異なっていましたが、それ以上に、どのような自然や時間の理解、あるいは世界観のもとで生み出され、活用されていたかという根本的な次元において多様だったわけです。
このような技術多様性を十分に理解するためには、それぞれの技術が本来持っている自然観や宇宙観との結びつきを把握することが必要になってきます。そのような広い枠組みで技術を捉える概念が宇宙技芸です。例えば中国における宇宙技芸の代表が暦です。暦の制定は王朝を運営する上で最重要の技術の一つでした。そこでは、天体の観測や時間の管理、そして政治が一体となっています。このような宇宙技芸がかつては各文明に存在していました。ですが今は、近代ヨーロッパの宇宙技芸である科学技術が世界を席巻しています。
原島 この宇宙技芸という概念は、まさしく「技術への問い」と題されたハイデガーの講演に対する応答として考案されたものですよね。ホイさんの二番目の著作が「〝中国における〟技術への問い」と題されたことには、ハイデガーの技術論とは畢竟「〝ヨーロッパにおける〟技術への問い」に他ならない、というメッセージが潜んでいます。
だからホイさんの技術観は、ハイデガーが提出した総かり立て体制としての技術観でもなければ、スティグレールやデリダの言うようなテクノ=ロゴスとしての技術観とも異なる。既存のものとは異なる技術観を持たなければ、現代の技術文明の〝行き詰まり〟は乗り越えられない、という問題意識がホイさんを動機づけています。
〝行き詰まり〟とは何か、という問題に、これまでハイデガー以上に明確な回答を出すことができた人はおそらくいないでしょう。彼は、テクノロジーの本質は総かり立て体制だと論じました。総かり立て体制とは、世界を計算可能な利用対象として、すなわち自然の全てを資源として支配しようとする働きのことです。この世界観は、ハイデガーに言わせれば古代ギリシア以来西洋2500年の思想の究極的な帰結である。この中に人間をも埋め込むのが総かり立て体制であり、ここでは全てが有用性という基準のもとに測られます。
人工知能を例にあげましょう。私たちは素朴に、人工知能の開発如何がテクノロジーの未来を左右するだろうと考えがちです。しかし、総かり立て体制の議論を踏まえるなら、主従は逆です。テクノロジーの発展の流れの中にこそ人工知能がはまり込んでいて、その歴史的運命に流されているだけなのです。それを顕著に示すのが、今の人工知能は古典的なそれと異なり、有用性が設計思想の核心を占めるようになったという変遷です。
古典的な人工知能は、論理によって真理を追究しようとするものでした。しかし、現在の生成AIは、統計に従って〝およそ確からしい〟推測結果を出力するシステムです。あくまで確率的なので間違っているかもしれないけれど、しかし便利に使えるのだからいいだろう、これで経済成長するから、軍事力が強化されるからいいだろう――有用性を重視した知能なわけです。
だから、現在の人工知能の発展がテクノロジーや人間の歴史を左右しているのではなく、その逆なのです。有用性を重視する歴史的運命の中で、なるべくして発展してきている。
伊勢 人工知能の急速な発展に伴って、専門家のあいだでも「生成AIの中で何が起きているのかがわからない」という事態が起きており、問題になっているようですね。どういうわけか結果はうまく出力されており、経験則は積み上がっているのだが、その状況に理論的研究が――つまりは真理の解明が追いついていない。
原島さんが指摘された状況は、ホイさんの所説を別の観点から補足するものだと言えるでしょう。ホイさんは、人工知能とは、かつてサイバネティクスと呼ばれていたものが形を変えて存続したものだと論じています。かつてハイデガーは〝サイバネティクスこそが西洋哲学の帰結であり、完成であり、終わりである〟と言いました。ホイさんの議論はその洞察の延長にあります。
原島 サイバネティクスによって完成されるような西洋形而上学の歴史の担い手は、今や哲学ではなくテクノロジーになっているわけですね。
原島 さて、宇宙技芸という概念が要請される理由をもう一つ上げましょう。それは、所謂シンギュラリティという考え方に関わるものです。単線的な時間がどんどん進んでいった先に、究極的なカタストロフィ、あるいは究極のターニングポイントがあって、それにより何らかの問題が究極的に解決されるだろう、という歴史的想像力です。加速主義は、そうした特異点をいち早く到来させよう、という思想ですね。
この想像力は、ハイデガーや、もとをただせばヘーゲルの弁証法に淵源します。さらに言えば、スティグレールはこのような歴史性がそもそもテクノロジーによって可能になっている、と看破しました。
こうした歴史観、技術観が続く限り、私たちは終末論的な世界理解をはっきりと対象化して批判することができません。歴史性を形成するものとして、技術観を相対化しなければならない。この問題意識に裏打ちされて、「宇宙技芸」概念は登場してきました。
伊勢 ホイさんはそうした宇宙技芸を「必ず再発明しなければならない」と強調します。つまり、第一段階として、かつて世界には様々な宇宙技芸が存在していたことを確認するのですが、決してそこで終わってはならない。自らの地域の特殊性に居直ってしまい、得てして排外的なナショナリズムに転化してしまうからです。
加えて、かりに異なる宇宙技芸を認識したとしても、それをもって現代のテクノロジーを全否定するのはとても現実的な態度ではない。なので第二段階として、宇宙技芸の地域性を現代の条件のもとで新しく作り直すこと、またそれによってこれからのテクノロジーのあり方を変えていくことが必要だというのです。
原島 ハイデガーの場合、現代のテクノロジーの行き詰まりを乗り越えるために、古代ギリシアの「テクネーτέχνη」としての技術観に回帰します。自然が自ずと何かを産出する力を有することを前提とし、それを本領発揮させる技のことです。この考え方には一理ありますが、民族主義への傾倒に結びつくなら非常に危うい。今更同じ過ちを繰り返すわけにはいきません。そこでホイさんは、古代ギリシアのテクネーではない別の技術観を導入しようと試みるのです。だいいち、東アジアや南米、アフリカの人びとが、近代以前にみな一様にギリシア的な技術観を有していたとは考え難いというわけです。
ところでホイさんは、『中国における技術への問い』において、宇宙技芸の予備的な定義をしています。「技術的な活動をつうじた、宇宙の秩序と道徳の秩序の統一」です。現代テクノロジーの世界観にはめ込まれてしまっている人間は、自然や天や神といった、非合理的と呼ばれるものとの結びつきを失っています。宇宙技芸概念には、それらとの結びつきを回復するという意味合いが非常に強く含まれていますよね。それが『芸術と宇宙技芸』(春秋社)においては、「非合理的なものの合理化」として表現されているわけです。
これに関連した私見を述べます。宇宙技芸は再帰的な論理の形をとるとホイさんは規定します。そして、再帰的な論理の形式には少なくとも三つあると論じられます。一つはギリシア悲劇のように、矛盾する対立者が弁証法的に総合されて矛盾が解決する、西洋的なやり方です。一つは、矛盾しているように見える二者が実は矛盾していないことを示す、道家的なやり方。もう一つは、現代のコンピュータで使われている再帰関数です。
しかし最後のものについて、ホイさんに言わせれば、コンピュータの中では計算可能なものと計算不可能なものしか扱われておらず、そもそも計算可能性の土俵に上がらない非合理的なものが埒外に置かれている。それゆえ、自然や天や神との結びつきの回復には至りません。総かり立て体制の範疇における再帰性の論理に過ぎない。
そのことを、構造主義やポスト構造主義を踏まえて考えると、次のことが見えてきます。構造人類学では、再帰的な論理でしか捉えられない非合理的なものを、各文明は神話や芸術の形で現実に存在させてきたと考えます。しかし、そうした非合理的なものを、現実に完璧に実現しようとすると、ファシズムのような恐ろしい歪なものに陥ってしまうのです。こうした人類学的な再帰的論理は、ホイさんが取り上げたわけではありませんが、非合理的なものを合理化する宇宙技芸の再帰的論理学に資するところあるように私は思います。
伊勢 ホイさんは、人類学がヨーロッパとは異なる非合理的なものや自然の理解をうまく描き出した点は評価しつつも、技術の問いをなおざりにしてしまう点を問題視しています。そこで固有の地域性を探求したのち、ひるがえってテクノロジーを顧みる。すると、私たちを取り巻くテクノロジーは良くも悪くも惑星的なものになっているから、自ずと惑星規模の問いに繫がっていきます。
その意味で、ホイさんの発想には、地域や民族の固有性に自閉するのを防ぐ現実的な効用もあると言えるでしょう。ローカルな問題を普遍的でアクチュアルな問いにするための一つの有効なやり方が、テクノロジーとの関連の中で問い直すことなのだと思います。
伊勢 さて、では宇宙技芸の再開発はどのようにして実現できるのか。ここに「思考の個体化」という概念が関わってきます。ホイさんの言う「個体化」の概念は、ジルベール・シモンドンに由来するものです。簡単に言うと、あるものが自分とは異質な他者と出会い、差異や対立に直面する――その緊張感の中で、もとの自分とも異質な他者とも違う新しいものに転化するようなプロセスのことです。つまり自分のアイデンティティを墨守してよそ者を撥ね退けるのではなく、また他人に迎合して自分をなくしてしまうのでもなく、もとあった両者のどちらでもないものを作り出すことですね。
原島 個体化は、ポスト構造主義以後のフランス思想における最重要概念として挙げられることも少なくないと思います。そもそもシモンドンの着想は、ホイさんの文脈に即するなら、化学における相転移に由来しています。例えば、飽和状態にある食塩水があるとします。ここでは、食塩が結晶化する方向と水に溶けたままでいようとする方向との緊張状態が生じている。ここにちょっとした刺激が加わると、一気に結晶化が進行します。水に溶けていた状態から結晶化した状態へと相転移するわけです。ここに個体化の基本的な発想があります。
この時ポイントになるのは、この生成変化のモデルが弁証法ではないという点です。これまで、東洋と西洋のあいだで個体化が起こると言われるとき、人々の念頭にあったのは、ヨーロッパを否定する他者として東洋が立ち現れ、両者を総合する形でヨーロッパ文明が進歩するという図式でした。逆もまたしかりです。西洋を乗り越えて東洋が進歩する。京都学派の座談会『世界史的立場と日本』(中央公論社/復刻版・呉PASS出版)が批判されるのもそこです。世界史の弁証法的進歩という発想自体はキープしていて、その担い手をめぐって東洋と西洋が争いをしてしまう。
この歴史観が、世界の歴史の覇権を狙う壮絶な戦争に繫がったのではないか。シンギュラリティの議論も同様です。人々は、精神の自己発展の過程を担うのは人間なのか、それともこれから機械になるのか、このことばかり考えています。
しかし、この歴史観自体がまさにテクノロジーによって支えられていると考えるなら、全く違う景色が見えてきます。技術多様性が彩る多様なコスモロジーの中では、それぞれが引き受ける歴史性も異なる。対立と緊張の中で諸システムが存在しています。各システムが、変化のポテンシャルを常に抱えながら、ある特定の準安定状態から別の準安定状態へと移行していく。このような差異と統合のモデルを用いて、文化の違いや惑星的な統合を考えるのが個体化なのです。シモンドンはこれを化学や心理学、そして技術に適用しましたが、ホイさんは思考に応用できないかと考えます。
宇宙技芸や技術多様性は、技術にフォーカスする仕方で文化文明の差異を浮き彫りにしますが、それは各文化文明の自閉したアイデンティティのためではない。それらのあいだの緊張関係や互換不可能性を明らかにして、新たな思考の個体化の条件を築くためなのだ――このような差異と統合と生成変化の方向性を打ち出すのが個体化なのです。
伊勢 ホイさんは、抽象的な哲学の議論を行なう一方で、米中の貿易摩擦のような現実社会の問題にも言及しています。そのときホイさんが懸念しているのは、惑星上の全員が単一のテクノロジーによって規定されたゲームに巻き込まれていて、ほとんど再起不能になるまで競い合わされているということです。このような状況の果てにはやはり悲惨な未来しか待ち受けていないだろうと、ホイさんは繰り返し指摘しています。
単一のレールに乗って進歩していくモデルは避けなければならない。だからこそ、弁証法のモデルを用いるわけにはいきません。2019年の『現代思想』(青土社)に翻訳が掲載された「啓蒙の終わりの後に、何が始まろうとするのか?」という論文でホイさんは、唯一の目的に向かってすべてが収斂してゆくような時間軸の観念を退けています。方向性を変えること、そして別のモデルを案出すること。個体化の概念には、それを可能にする寛容さがあると思います。
伊勢 『ポストヨーロッパ』は、「故郷喪失」を主題に、思考の個体化について論じた著作です。本書では故郷喪失を経験した哲学者として西谷啓治とハンナ・アーレントが取り上げられ、アジアにおいて思考の個体化に挑んだ人物として西田幾多郎と牟宗三が挙げられました。しかし、そこで書かれなかった重要なことがあります。実は牟宗三もまた故郷喪失の哲学者だったということです。牟は中国大陸の生まれで、当初は論理学や数学、エピステモロジーといった西洋的な学問を中心に研究していました。と同時に、彼は弁証法や階級闘争の概念を批判する論文でデビューして以来、一貫して反共産主義の立場を取りました。だから、1949年に共産党が国民党との戦いに勝利した時、身の危険を感じ、家族を大陸において一人台湾に逃れたのです。
その後、彼は台湾と香港を往復しながら哲学者としての生涯を送るのですが、本書で思考の個体化と呼ばれているような、中国哲学を再構築する仕事を行なったのは亡命後のことでした。ふるさとと妻子を置き去りにしてたどり着いた地で中国哲学と西洋哲学との緊張関係に向き合い、新しい思考を展開した。牟宗三もまた、故郷喪失を経て思考の個体化に着手したわけです。西田がこのような意味での故郷喪失を経験していない人物であるのとは好対照をなしています。
このことにホイさんが触れていないのは、おそらく偶然や不注意ゆえではないと思います。彼は香港出身であり、むろん大陸と台湾と香港の複雑な関係性を肌で感じながら生きてきた人です。しかし彼の哲学は、そうした実存とは異なる次元で、つまり概念の設計や構造の点で、ミクロな地域性を扱うのが少々難しい仕組みになっています。げんに、彼の言う宇宙技芸の地域性は、独特な宇宙論と道徳論と技術思想の三つを有することを前提としており、なかなか条件が厳しい。
そして『ポストヨーロッパ』では、西洋と東洋のあいだの個体化が問題になっている。だから東洋の内部で経験された故郷喪失は扱いづらかったのではないでしょうか。あるいはアーレントとの対比で言えば、牟が亡命をしても言語的な障壁には直面しなかったことも関係しているかもしれません。
原島 興味深いですね。本書は、「いい加減、近代化において閑却されてきた非ヨーロッパとヨーロッパとの実存的な対話をしてみてはどうですか」と呼びかける本ですから、その論点に関わってこない限り、故郷喪失のモチーフは後景に退くのでしょう。
題名にある通り、本書の一番のテーマは「ポストヨーロッパ」です。この言葉をホイさんはチェコの哲学者ヤン・パトチカから借用しています。そのパトチカは、ヨーロッパが第二次大戦後に世界の中心でなくなっている状況をポストヨーロッパと表現しました。あるいは19世紀末から20世紀初頭、ボードレールやフッサールがヨーロッパ精神の危機について警鐘を鳴らし、西洋の没落が論じられたように、100年以上前から状況はある意味でポストヨーロッパでした。しかし、ホイさんのそれはあくまでも、新たな哲学の呼びかけとしてのポストヨーロッパなのです。これはハイデガーの洞察に依拠するものです。つまりサイバネティクスによって完成された「哲学の終わり」の後の哲学を考えるものに他なりません。
だからこそ、この本はどうしてもテクノロジー論でなければなりませんでした。なぜならハイデガーは、ヨーロッパ哲学が終わった後、テクノロジーこそがヨーロッパ精神の発展の基礎になると述べたからです。テクノロジーへの問いに正面から向き合わない限り、ヨーロッパ哲学も今の東洋思想と同様、時代遅れの伝統芸能にしかなり得ないという危機感が根底にあるのです。
伊勢 そして向き合うからには、東洋思想も西洋思想も、科学もテクノロジーもみんな変わらなければならない。そこが「個体化」概念の優れたところです。多様なシステムを想定しながら、そのどれでもない新しい体系を生み出すことを目指している。まあ、それが実際に可能なのかはまだわからないですけど。
伊勢 この点に関連して私自身がいま問題だと思っているのは、東洋思想が「時代遅れの伝統芸能」というより、むしろ科学やテクノロジーがもたらす世界認識を不完全に彩るゆかいなアナロジーとして消費されがちであるということです。量子力学の誕生以降、しばしば現代物理学と東洋思想は似ていると言われてきました。近年ではその手の言説はあまり見なくなりましたが、こんどはデジタルテクノロジーと東洋思想の類似性が語られるようになっています。
ここで問題なのは、そうしたアナロジックな関係がはたして科学やテクノロジーの方向性を変え、東洋思想そのものを再構築しうるのかということです。ホイさんの言葉で言えば、そこに「個体化」が起きるような緊張感のある交わりが存在しているのだろうか。
むろん、これは私を含む東洋思想の担い手の問題です。20世紀以来、様々な思想家が伝統的な東洋思想の再発明に取り組みました。しかし、いま振り返れば、そこでは無限の力動性をもった単一の宇宙論的概念にすべてを取り込むダイナミックな一元論――言うなれば「唯動論」――として東洋思想を特徴づけるような思考のパターンが反復されてきたように思います。これは現代中国の哲学者にもよく見られる現象です。
ただその結果、東洋思想は科学やテクノロジーとの関係を省察することに失敗し、類比を通じた一方的な援用と消費を超えた関係性を提示できずにいる。そこで私は、ホイさんとは反対に宇宙技芸の概念を「すべての宇宙論はあらかじめ技術によって規定されている」ことを示すものとみなし、新しい東洋哲学のための一つの枠組みとして展開したい。少なくとも東アジアに固有の文脈において、これはこれで私たちがなすべき一種の「近代の超克」なのだと考えています。
原島 重要な問題意識だと思います。それに対して私は、戦後における「近代の超克」論は、テクノロジー批判が欠けていたことが決定的に重要だと、本書の翻訳で改めて考え直させられました。ファシズムについては戦後反省されたのに、戦争による圧倒的な破壊をもたらした科学は、変わらず信仰され続けたわけです。原子力や人工知能に対し、本当の意味での批判的な思想を打ち出すことができているのか、という問題です。
また本書には、「遺産の継承」というテーマも常に鳴り響いています。自分が投げ込まれている世界のローカルな遺産を引き受けて、その運命を生きていくという歴史性のモチーフです。しかし、この歴史性もまたヨーロッパ的なものなのではないかという疑念も、本書には表明されています。東アジアにはそうした意味での歴史はなく、特に中国や日本では暦が変われば水に流されてしまう。その中で生きてきた人たちは、遺産を継承していくことをどのように捉えているのか。こうした事柄の東洋西洋の違いを、技術と絡めて深めていくことが求められているのだろうと思います。
伊勢 中国においても、歴史的なものの継承を意識しながら思想を深めることは重要でした。例えば孔子は儒家の祖とされていますが、そもそも彼は周公旦という聖人の遺産の復興を目指して学問を形成しました。また朱子学にも、「道統論」と言って孔子や孟子などの大学者から自分たちへと直結する学問的系譜を編み出す議論があります。
もちろんこうした復興や継承のモチーフが、ヨーロッパ的な歴史性の概念と同じだとは言いませんが、そこに「水に流す」態度とも異なるような別の歴史性を見いだすことは可能かもしれません。
原島 本書でホイさんは、「故郷喪失を肯定せよ」というメッセージを力強く打ち出しています。これはニヒリズムの克服に他なりません。ニヒリズムは、根拠や権威が失われたとき、解放されたと思うかわりに、むしろ慌ててありもしない根拠や権威にすがってしまうことに問題がある。
それに鑑みると、故郷喪失は、幻の故郷を取り戻すことで解決すべきものではなく、むしろ私たちにとっての解放として捉え直されます。この故郷喪失肯定の主張が、排外主義の台頭する今日において、どのような意義を持つのか。伊勢さんはどのように読まれましたか。
伊勢 移民と排外主義の時代に彼の議論がもつ意義はとても大きいと思いますが、実はより手前のところに疑問があります。ホイさんは、ニヒリズムを通じてニヒリズムを乗り越えるというニーチェや京都学派の主張を批判しています。無であることそれ自体を肯定的に捉える解決策を彼は警戒している。
そこでホイさんは、矛盾を矛盾として受け入れつつ、それを乗り越えていくような思考の形式を「悲劇者の論理」と言い、対立の解消を通じて矛盾を回避する「道家の論理」と対比させました。偶然の過失を必然に変えて前進するスティグレールの思想は、まさに悲劇者の論理の好例です。
そして『芸術と宇宙技芸』ではこの両者のあいだでの個体化が提唱されたわけですが、故郷喪失を避けられないものとして受け入れたうえで乗り越えようとする態度は、いわば純粋に悲劇者的であり、『芸術と宇宙技芸』の到達点から少々後退しているように見えなくもありません。
原島 確かに、スティグレールやハイデガーが抱いたような、初めから私たちは故郷を喪失していて、それは引き受けねばならない運命であるという発想は、多分に悲劇的なものだという印象はあります。朗らかでない。
伊勢 故郷喪失には二つのレイヤーがあります。現代人の普遍的条件と、現実にふるさとを離れている状態のことです。両者はテクノロジーを介して通じ合っているのでしょうが、同じ言葉の中に異なる現象が畳み込まれており、それが物事を少し複雑にしているように思われます。
原島さんの「訳者解題」で心に残った一文があります。「移民や難民の増加は、私がこの身で経験したのではない戦争の記憶を抱える人々とともに暮らすということでもある」というものです。日本の人々のほとんどはもう戦争を経験していない、という認識がかつてとは異なる意味で正しくなくなっているという意味ですね。
それに比して、テクノロジーによって誰もが故郷喪失者になっているという論点は、明確な事実であるとはいえ、原島さんが指摘したことの重要性をぼやけさせてしまうのかもしれません。
原島 故郷喪失の思想が朗らかでないように感じられるのは、私たちが故郷の回帰と喪失に囚われているからだと思います。そして私たちを囚われの身にするものとしての故郷の観念に囚われているからだと思います。
ホイさんの議論は、囚われからの解放を謳うものです。スティグレールは、私たちが求めるべき個体化のモデルについて、人が他者を愛し、自己を愛することができるような、ひとつの生き方なのだと言っています。裏を返せば、近代人はこれまで他者も自己も愛することができなくなるような仕方で故郷に囚われてきたということです。この囚われの重力を100年以上私たちにかけ続けてきたのが、故郷の回帰と喪失という考えなのでしょう。
『芸術と宇宙技芸』では、愛もまた非合理的なもののひとつだと述べられています。それゆえ、続く『ポストヨーロッパ』で提起された思考の個体化の課題は、故郷喪失的立場からの愛の宇宙技芸の発明として受け止めることもできるように私は思います。
伊勢 『芸術と宇宙技芸』もそうだったのですが、本書もある意味「愛」が裏テーマなのでしょうね。ホイさんご本人もたいへん素敵なお人柄の方です。
原島 本書の読者の中から、故郷喪失と思考の個体化への取り組み、そして近代の超克を本気で志す思想家や技術者が登場してくれるなら、これほど訳者冥利に尽きることはありません。(おわり)
★はらしま・だいすけ=立教大学助教・基礎情報学・表象文化論。共著に『AI時代の「自律性」』『未来社会と「意味」の境界』『基礎情報学のフロンティア』、訳書に『再帰性と偶然性』など。一九八四年生。
★いせ・こうへい=東京大学大学院博士課程在籍・中国近現代思想。論文に「不可能なものから動くものへ」「ユク・ホイと地域性の問題」、訳書に『中国における技術への問い』など。一九九五年生。
書籍
| 書籍名 | ポストヨーロッパ |
| ISBN13 | 9784000617239 |
| ISBN10 | 4000617230 |
