- ジャンル:翻訳小説
- 著者/編者: エリック・シャクール
- 評者: 真木由紹
あなたについて知っていること
エリック・シャクール著
真木 由紹
一九六一年、ナセル政権下のエジプトのカイロに裕福な家庭の少年がいる。これが思春期を経て、二十代半ばには父の職業を継ぐ形ですでに診療所を構える。そして間もなく十四年ぶりに再会した旧友と恋に落ちた後、挙式を迎える。
こんな順調なターリクの日々に、ある時、一回り以上年の離れた少年アリーが入り込む。アリーはターリクに自分の母親の病状を診てもらいたいと貧民地区の外れから頼みにやって来たのだ。これを機にターリクは診療というより会話を楽しむような気持でこの貧しい母子と付き合いを始める。新婚生活の夜の時間をほったらかす形で、である。間もなくアリーの母親が亡くなり、葬式が行われ、その日のうちにターリクとアリーは濃密な交錯を迎える。
二人の出自なり、境遇なりの差が激しい時点でも典型を持った恋愛小説と言えよう。ただ、間に横たわっているものは格別障害にはなりえておらず、どちらかと言えば背後に控える噂なる雑音が、彼ら一組の心に騒めきをもたらす。これはターリクの診療所がアリーの地区にあり、あらゆる患者を平等に寄せ集める場所ゆえより強まりを見せる。何気に重要なのはこの病んだ身体の集まるところこそが病んでいない二人を自然に結節する点である。
私個人としては読了の後、振り返って思うに本書は両想いというより激しく片想いの小説である気がしている。実際、ターリクからアリーに対する恋慕の時間に付き合う読書となった。ただし、ゆえに浮かび上がってきた二人の態度差に面白みを感じる現在だ。
立場だけとればターリクこそアリーの上に立っている。なにせ医師である父の地盤において、父と同じくらい信頼を集めて治療にあたっている医師である。この上なく聞こえの良い立場、仰ぎ見られる立場と言える。
ところが口づけの後、日を置かずに迎えるアリーの誕生日までに浮足立つのはターリクであって、見事なまで心の乱れが目立ち始める。この短い時間の経過をあえて、作中の時間に代えて費やされているページ数で言ってみれば〝十七頁分〟となるのだが、その程度の期間のうちにターリクの口から「おれのことが心配で、ハラハラしたよな?」、そんな言葉が現れるようになる。
この言葉の文脈はここでは触れないでおくが、大事なのはターリクがこんな風に確かめなければならない側に回るという事実だ。社会的立場はこの時点で(というより恋愛の只中にあって)無効化され、関係性はアリーを上にしている。そもそもアリーの方が一枚も二枚も上手なのだ。態度一つ、振る舞い一つとっても明らかだ。
それは後に意味合いを変え、例えば「貧しい家の出で、ずいぶんあとになってから読み書きを覚え、にもかかわらず上流階級の慣習やマナーに通じて」いることで医学校の教師を驚かせたりもするのだが、そういったものをアリーは自前で身につけているのだ。つまり、避けられなかった、やらざるをえなかった実地の経験によりアリー自身が形成されており、これが現状に至るべくして至ったターリクと対を成すように小説に存在しているのだ。これを仮に多義的および一義的と言い換えた時、前者は自由のようで自由には非ず、むしろターレクの一本調子の方が自由にある。それゆえ、各々が各々の窮地を迎えた際にアリーには他人の手から選択肢が(恩恵の体で)与えられる一方、ターリクは自ら自分の選択肢を作りだすことができるわけだ。
だいたいこの男はずっと唯我的でいられる幸福な存在なのだ。仕事における振る舞いはまさに医師のものであっても、一個人ではいたって自分を中心に悩む性格なのである。そう考えるとターリクの独りよがりに着目しても面白い読みを促すだろう。
地域から信頼される医師がある瞬間を境に「幸福もまた無傷ではない(谷川俊太郎)」とばかりに共同体的な制裁に苦しみ、家庭内にも居心地の悪さが生じる。そこで外部への逃避を考え始めるわけだが、その選択肢が持ち出されるに至るまで男にどのような心の動きが生じるのか。丹念に辿るのも一興だ。
尚、本著は「あなた」という二人称が採用されている。ここでの「あなた」はターリクにあたるのだが、二人称と形式を同じくするのはまさに手紙である。「わたし」がこれを書いている時、「あなた」はここにいない。「あなた」がこれを読むとき、「わたし」はそこにいない。つまり必ずどちらかが不在と成るメディアだ。無論、場と時を越えて届くこと自体、十分に蠱惑的な形式と言えるわけだが、本著は「わたし」にあたる語り手がそもそも一ページ目から長らく不明を留める。では語っている者は誰か。謎は、ずいぶんと奥まったところに深く息を潜める。(加藤かおり訳)(まき・よしつぐ=作家)
★エリック・シャクール=カナダモントリオール生まれ。金融業界で働く傍ら小説を執筆。エジプト人の両親を持つ。第一作である本書はフェミナ賞とルノードー賞最終候補、「高校生が選ぶフェミナ賞」、フランス書店大賞、フランコフォニー五大陸賞を受賞。一九八三年生。
書籍
| 書籍名 | あなたについて知っていること |
| ISBN13 | 9784087735314 |
| ISBN10 | 4087735311 |
