2025/02/21号 5面

〈弱さ〉から読み解く韓国現代文学

〈弱さ〉から読み解く韓国現代文学 小山内 園子著 柳沼 雄太  昨今、「韓国文学」は大きなムーヴメントとなり、書店の棚において小さくない一部を占めている光景を目にする。弊店でも韓国文学は入荷するたびに読者の手に渡り、人気の高さに驚嘆するばかりである。近年では徐々に文庫化も進み、今まで以上に読者に届きやすくなり、また、韓国文学の著者、翻訳者、版元、読者が集うK-BOOKフェスティバルなるイベントも盛況のうちに幕を閉じている。  老若男女を問わず幅広い読者層に届く韓国文学の魅力を、翻訳者である著者が十三篇の小説を材に取り〈弱さ〉という縦軸に沿って読み解いたのが本書である。著者の筆致は丁寧かつ精緻であり、小説そのものを丹念にまなざす。そこには著者が韓国文学の訳者でもあるが故の読み方が展開されている。  例えば、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』における故意に登場人物への没入を遮る仕掛けの紹介や、キム・へジン『中央駅』にてホームレスという個人の生活を描くことで逆説的に社会を照射することとなる構造の読み解き、そしてチョン・セラン『シソンから、』における、読点から導かれる連続性の観点など、枚挙に暇がない。  小説に描かれた個人と社会を多角的に見る視座の提示に気が付くことの有意義さは本書の魅力のひとつであるが、何より本書の骨子である〈弱さ〉という縦軸が、韓国文学への理解の深度をより増幅させている。  著者は、本書において〈弱さ〉を「自らの意志とは関係なく、選択肢を奪われている立場」と定義する。韓国は、戦後も朝鮮戦争の勃発や、複数回のクーデターの勃発、そして光州事件などを経て、一九八七年に民主化宣言発表に至った。まさに「自らの意志とは関係なく、選択肢を奪われ」た人々が犠牲となった歴史が存在しており、この歴史を踏まえると、〈弱さ〉は韓国の人々の切実な祈りにも聞こえてこないだろうか。時代を反映する文学という概念に刻まれた〈弱さ〉は、誰かの声となって韓国文学に通底しているのである。  そして、〈弱さ〉をも内包し誰かの声とする韓国文学の「物語自体が持つ力」こそが、昨今におけるムーヴメントの源流であると筆者は考える。事件や出来事に巻き込まれざるを得なかった人々を時代別に描き、主義や主張を提示しているだけではジャーナリズムに留まり、現在のような波及の様相は得られなかったのではないだろうか。「物語自体が持つ力」、それは韓国文学の「ナラティブ」であり、それには個人や社会が抱える主題を顕在化させる力があると考える。著者も言及しているキム・スム『Lの運動靴』での、「戻れなくなった」人々の心模様の在り方、チョ・ナムジュ『私たちが記したもの』における女性たちの接続の方法などは、ナラティブにより読者に届く。著者も「〈弱さ〉から始まる未来を想像する—―あとがきにかえて」にて、「思うぞんぶん想像し、考え、嚙みしめることができる安全な空間が、物語のなかにはあるのではないでしょうか。」と述べる。物語の余地に読者は救われ、この効能は韓国文学を取り巻く構造をより立体的にする。〈弱さ〉を縦軸とするならば、ナラティブは横軸であろう。それらの交点に韓国文学と読者の邂逅があり、本書はその邂逅を生み出す契機としての道標となる。そして格子状に広がりゆく縦軸と横軸は、今後もより多くの読者を邂逅に導くであろう。  韓国文学における〈弱さ〉を、ナラティブにて受け取る。小説を読むことで〈弱さ〉に思いを馳せるとき、テキストの先にある誰かの声に寄り添っているのではないだろうか。それは著者が提示したまなざしの在り方であり、まなざされた韓国文学は光彩となり、より鮮やかに読者にうつる。(やぎぬま・ゆうた=書肆 海と夕焼店主)  ★おさない・そのこ=韓日翻訳家。訳書にク・ビョンモ『破果』チョ・ナムジュ『耳をすませば』『私たちが記したもの』(すんみとの共訳)カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』『失われた賃金を求めて』(すんみとの共訳)など。

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