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【特別コラム】水戸地裁判決で、福島の人たちの被害を司法は認めざるを得なかったのです<佐藤嘉幸氏が聞く脱原発シリーズ#7>
――東海第二原発差し止め訴訟共同代表・大石光伸さんインタビュー――
二〇二一年三月一八日、水戸地方裁判所は、東海第二原子力発電所差し止め訴訟において、日本原子力発電に対して、原子炉を運転しないよう命じる判決を言い渡した。今後は高裁での控訴審が控えている。本裁判原告団の共同代表を務める大石光伸氏に、判決の意義と、控訴審に向けての思いについて、お話をうかがった。聞き手は、筑波大学准教授の佐藤嘉幸氏にお願いした。(編集部)
珍しい訴訟形態
佐藤 東海第二原発差し止め訴訟で水戸地裁は、二〇二一年三月一八日に判決を出し、避難計画の不備を理由に東海第二原発の運転差し止めを命じました。東海第二原発は、一九七八年に運転を開始した、運転開始後四〇年以上が経つ老朽原発であり、東日本大震災で被災した原発ですが、原子力規制委員会は二〇一八年に、二〇年の運転期間延長を認可しました。同原発はまた、水戸市を含む三〇キロ圏内に九四万人が居住する、日本一人口密集地帯にある原発であり、東京から一一〇キロと首都圏に最も近い原発でもあります。東日本大震災での被災以来運転を停止しており、その再稼働には多くの疑問が投げかけられています。
今回の水戸地裁判決は、IAEA(国際原子力機関)の深層防護という考えに基づいて、東海第二原発の運転差し止めを命じています。判決は、IAEAの深層防護レベル第一から第四層(原発サイト内で行うべき防護)については「具体的審査基準に不合理な点があるとは認められず、また原子力規制委員会の適合性判断の過程に看過し難い過誤、欠落があるとまでは認められない」として判断を保留しています。しかしその上で、深層防護レベル第五層(避難計画)に関して、原発三〇キロ圏内に一〇〇万人近い人口が密集する地域での原発避難の困難と、避難計画の策定困難を理由として、運転差し止めを命じています。「発電用原子炉施設周辺に放射性物質が異常に放出されるという緊急事態において、数万あるいは数十万人の住民が一定の時間内に避難することはそれ自体相当に困難を伴うものである上、福島第一発電所事故からも明らかなとおり原子力災害は、地震、津波等の自然災害に伴って発生することも当然に想定されなければならず、人口密集地帯の原子力災害における避難が容易ではないことは明らかであることに照らすと、現行法による原子力災害対策をもってすれば、発電用原子炉施設の周辺がいかに人口密集地帯であろうと、実効的な避難計画を策定し深層防護の第五の防護レベルの措置を担保することができるといえるのかについては疑問があるといわなければならない」(判決要旨、八頁)。
大石さんはなぜ共同代表としてこの訴訟に関わられたのでしょうか。福島第一原発事故時の常総生協での経験を含めて、お話しいただけますか。
大石 福島の皆さんほど深刻ではありませんが、私たちも当事者になったという単純な理由です。東京電力福島第一原発から約三二キロの福島県川俣町山木屋の山を開拓した私たちの牧場は、放射能汚染がひどく牛を殺処分して撤退しました。二〇〇キロ近く離れた茨城県・千葉県の私たちの活動エリアも「ホットスポット」になりました。組合員の母乳からも放射能が検出され、大切にしてきた地域の田畑や海が放射能で汚染され、命を育むはずの食べものに命を傷つける放射能が入り込む。これまで信頼を積み重ねてきた消費者と生産者は分断される。組合員も生産者も大変な思いをしました。
二〇一一年六月の総代会で「脱原発」特別決議を行いました。脱原発の決議と言っても、自分たちとして一九九九年の臨界事故でも騒然となった経験がありながら、その後本気で原発を止める活動をしてこなかった、という反省の宣言です。真剣に原発の問題に取り組んで原発を止めていたらこんなことにならなかったかもしれない、自分たちの責任は大きい、もう二度と原発事故を起こさないために組合員・生産者共に努力します、という宣言でした。
常総生協の理事たちで東京の日本原電本社を訪ね、「原発はもうやめてほしい」と話し合いに行きました。返事は「あなた方は電気がなくて生活できますか?よく考えて下さい」というものでした。女性理事たちは大変驚きました。当事者に深刻さもない、対話にもならない。
九月理事会で住民として裁判所に訴えるしかないのではと決定し、広く地域にも呼びかけました。東海第二原発周辺の地元には長く原発反対運動をされてきた皆さん、JCO臨界事故で被曝された皆さん、一九七五年来東海第二運転差止訴訟(一次)をされてきた先輩たちがいましたし、すでに水戸・東海を中心に裁判の検討もされていました。県内外の多くの方が賛同してくれて二〇一二年に茨城を中心に東日本全体で原告二六六名、賛同六〇〇名で原告団を結成し、弁護士さんと一緒に「訴状」を作り七月に提訴しました。生協からは原告五〇名、賛同人一〇〇名の母親・生産者が参加しました。
佐藤 生協が原告団事務局を担って差し止め訴訟を行うという形は珍しいですね。普通は、反原発団体が中心になって訴訟を起こすことが多い。
大石 自分たちの暮らし、地域の環境を大切にするという点では、住民訴訟というのは自然なことだと思います。大事なのは、一人では声を上げにくい人たちが一緒にやることです。生協は最初の呼びかけ団体でもあり、またいろいろな事情を考慮して生協が事務局を引き受け、先輩と共に原告団の共同代表も受けました。生協の組合員・生産者の協同の活動経験と信頼の支えがあるから、一〇年も続けられました。原告や賛同の皆さんも地域で様々な活動をされており、大変意志も強いことは、一〇年にわたって法廷の傍聴席を埋め続けたことで示されています。
争いのない前提事実
佐藤 地域の協同組合運動を背景に、住民運動主体で原告団を組織していく体制を組むことができた。これは全国でも珍しい訴訟形態だと思います。先ほど少し触れられましたが、原告住民も訴状や準備書面作りにも参加されており、原告自ら専門技術的なことも弁論されています。これも珍しいことですね。
大石 弁護士さんにすべてお任せというわけにもいきませんし、主体である住民が自分たちの思いを裁判官に伝えないといけません。それだけでなく、原告や賛同人の中には専門的知識を持つ理工学系や経理系の方もいらっしゃいます。原告世話人を中心に弁護団会議に参加して、準備書面のいくつかを書いています。また、避難できるかどうかとか、この橋は地震の時大丈夫かとか、どの道が大地震のとき液状化したとか、原発のすぐ近くに大型港湾やLNG基地があって原発前が航路になっていることなどは、まさに現地で暮らしている原告こそが地勢的にもいちばん良く知っています。こうしたことを弁護士の皆さんが受け入れてくれて、共に闘う仲間・同志として扱ってくれたということが、訴訟団としての強みだったと思います。
佐藤 二〇一七年に原告が書かれた準備書面(四八)などでは、規制委員会が避難計画を審査せず、避難する当事者である住民が参加する制度もないがゆえに住民が司法に訴えている以上、司法こそが避難計画を直接審査するべきだ、と主張されていました。この主張は今回の水戸地裁判決の構図そのものではないでしょうか。
大石 書面をよく読んで頂いていてありがとうございます。水戸地裁判決を評価する際に、どうしても「避難計画」の話に集中するんですが、次のような「争いのない前提事実」を裁判所が示していることが重要です。そもそも原発は運転するだけで有害な物質を発生させ、一旦事故が起きれば、周辺住民の生命・身体に深刻な被害を与える可能性を本質的に持っている存在である。そして原発事故は、最新の知見をもって対策をしても、一つでも失敗すれば最悪の事態に繫がる。従って、他の科学技術の利用とは根本から違うということです。さらに自然災害は、最新の科学的知見を使っても予測できない。これらを争いのない前提事実としています。予測なんかできないから福島原発事故が起きた。判決がこの前提事実をきちんと示したことが大事だと私は思っています。
住民被害の問題は、最初から裁判所と論争になっていた大きな論点です。二〇一三年の第二回目の期日で裁判所は、「第一から第四層に危険性の存在が認められたら住民被害について弁論を認めてやる」として法廷で原告の被害の弁論を認めなかったため、傍聴席からも抗議の声が上がり法廷が騒然となり、途中で閉廷になってしまいました。後日、裁判長はこの被害論の主張を認めざるを得なくなり、その後は弁護士さんと原告が協力して、福島原発事故で住民がどのような状態に置かれたかを現地調査をしながら具体的な証拠を示し、毎回の期日で主張立証を続け約三〇の書面を提出しました。こうした積み上げによって、裁判官が福島原発事故を重く受け止めた判決を勝ち取ることができたと思います。
そうだとしたら、こんな危険なものを社会に存在させては駄目だと普通は結論づけられる。しかし判決は、福島原発事故の教訓から「深層防護の考え」を持ってきて、第一から第五層の一つでも不十分であれば人格権侵害の具体的危険があるとし、第五層(避難計画)の実効性に欠けるとしたわけです。
「深層防護の考え」というのは、核と原発を社会に容認させるためにIAEA(国際原子力機関)が考え出した「理屈」でしょう。つまり、放射能は極めて危険で手に負えないものであるとわかっているがゆえに、深層防護なる理屈を考えざるを得なかった。しかし、無理をして考えているわけですから、矛盾が出てくる。それは単に論理矛盾では収まらず、福島の人たちにあれだけの被害をもたらしてしまった。だから、仮に第一から第四層までが問題ないとしても、福島事故の事実がある以上、それで安全だとは言えない。そこを司法は認めざるを得なかった。このことが大事だと私は思っています。
特に東海第二原発の場合、原発では事故が起きないという安全神話に自らが囚われた。だから、原発周辺の人口規制もしていない。あるいは、近くに県都水戸市があってもお構いなしです。しかし、原発設置の過程では違っていました。首都東京に近いところに原発を作っていいのか。もし事故が起こったら、どのくらいの損害が生じるのかを政府は試算し、国家予算の二倍以上という数字が出されて愕然とした。そこで、その試算を秘密にして原発を動かし始めた。一方で事故が起きないという安全神話をばらまきつつ、自分たちまでそう思うようになってしまった。だから、原発周辺に何の人口規制もしていないし、低人口地帯も設けていない。立地指針なんて関係ないとなった。しかし、福島第一原発事故が起こってしまった。そうなると、深層防護を持ち出すしかなくて、避難計画が重要になった。それだけの話です。
そういう歴史的状況を踏まえるならば、プラントの安全の規制を改正するだけではなく、原子力災害対策特別措置法まで含めて、立法府が法改正をきちんとしないといけなかった。ところが炉規法(核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律)の改正で精一杯だった。結果として、原子力規制委員会は、第一から第四層までの基準を満たしているかどうかだけを審査し、トータルな安全性については知らないとした。つまり、福島第一原発事故を真に教訓とした法律改正をしなかった問題がある。そのことの矛盾が、今回の判決に結び付いているということです。
佐藤 それは非常に面白い視点ですね。深層防護の第一から第五層に関する基準は、もともと自明なものではなく、原発維持のためのIAEAのロジックの中で出てきたものです。第一から第四層までは原発サイト内での安全性の問題であり、事業者が責任を負わねばならない。第五層については、原発サイト外に放射性物質が出たときに、住民がどう避難するかを問題にしている。ところが、第五層については、原子力規制委員会が住民避難計画を審査しないという規則になっている。自己矛盾の最たるものです。原発を運転する以上、施設内の安全に加えて、周辺住民の安全もセットになっているはずです。実際、米国原子力規制委員会は住民避難計画を審査対象としており、避難計画策定が不十分であれば原発の運転は許可されません。ところが日本では、なぜか住民の安全は審査しない。そこまで審査することになれば、日本のような人口密度の高い国では、当然ほとんどの原発を動かせなくなる。規制というよりは、むしろ脱原発に向かってしまう。だから、審査するわけにはいかないわけで、その矛盾が出ている。結局のところ、今回の判決は、原子力ムラの内的論理矛盾を原告側が突いていくことによって導き出された判決である、ということではないでしょうか。
大石 規制委員会は、法に基づいてやっているだけです。だから「適合性基準にあっているか審査するだけ。安全かどうかは地域の住民が判断すること」とわきまえています。繰り返しますが、問題は立法府にある。福島原発事故が起こって、法律的に何をどう改正しないといけないのか。もう少し政治倫理があれば、最初から危険なものは地域社会にあってはならない、という法を作るのが国民の生命・財産を守る立法府、国会の役割です。
佐藤 同感です。
大石 私たち生協も事業をしていますが、最低限の論理は、他人に迷惑をかけないという道徳です。それが前提で共通の願いを実現するため、地域が良くなるように一人一人がお金を集めて協同事業をする。倫理とか道徳とか、古臭い考えかもしれませんが、社会を良くする以前に、人様に迷惑をかけないというのは大事なことです。人の暮らし、例えば農業をすること自体を棄損する行為を、企業の都合でやっていいのか。会社の利益のために原発を動かし、何かあった時に責任を取れるのか。少なくとも今ここに至った日本の社会を見て、そんなことは一般社会通念上許されない。これは科学で考えることではなく、社会倫理の問題だと思います。権力装置が、今の民主主義が、立法府が倫理を持っていない。民衆の方が普通の社会道徳を持っている。こういう社会状況に対しては、ノーを言っていくしかありません。
佐藤 福島原発事故にもかかわらず原発が維持されているのは、官僚機構の問題でもあると思います。重大な原発事故が起きたにもかかわらず、政治以上に大きな権限を持っている官僚機構が、今までの方向性を修正することができない。エネルギー基本計画を見ても、原発による電力生産の割合を、二〇三〇年に二〇—二二%にすると言っている。普通の人間の感覚からはおかしいとしか思えない。原発事故がまったくなかったかのように振る舞っている。そういうところに、大石さんの言う倫理のなさが表れている。結局、それを止めるべく大きな官僚機構に対峙できるのは、住民運動しかないと思います。そうしたものが政治を変えていく力になり得るし、そこにしか希望はありません。
住民の命と健康の問題
大石 このシリーズで佐藤さんが福島の生業訴訟の馬奈木厳太郎弁護士にインタビューされた際に(『週刊読書人』二〇二一年五月二八日号)、これは「住民の命と健康の問題」なんだと馬奈木先生はおっしゃっていました。私も同じ意見です。三月一八日の記者会見の時、判決の感想を問われて私はまっさきに、「福島の人たちの思いに報いる判決であり、勝ったというよりはそちらの方が大事」という話をさせて頂きました。損害賠償訴訟の住民の皆さんの訴えには、必ず「もう原発をやめて欲しい」という訴えも入っています。苦しみを味わうのは私たちだけで十分だ、という思いがある。水戸地裁判決はそうした福島事故の重みを受け止めた判決だ、とお話させて頂きました。
これが福島原発事故後の判決、福島の人たちの苦しみを重く受け止めた判決のモデルになる。そのことが大事なんです。一人の命であれ、それを大切にしていく。そのことをどう広めていくか。あくまでも人格権、国民の暮らしを守るべき司法の立場は、危険なものを社会に存在させていいのかどうかを問うものであるはずです。司法は、危険物や危険企業と住民との調停役ではありません。
福島原発事故以前の裁判は、「有害物質が存在すること、事故が起きて放出されること、原告に到達すること、到達したら実際に健康被害が生じること」という全要件が立証されなければ差止めは認められない、という一般の民事訴訟の要件論に囚われていたがゆえに、難しい技術論争になってしまう傾向がありました。
もちろん、核分裂や放射性物質の生成を科学技術で封じ込めることは無理なことで、地震や津波などの不確実な自然現象の中で、危険自体の存在をコントロールできるなどという理屈がいかに無理のあるおかしいものかを常識的に司法判断することは重要です。
しかし、福島事故という国民の歴史経験を経た後の判断は、その前提に水戸地裁判決のような「前提事実」の認識が置かれなければ、歴史事実と国民経験を深く考えない浮ついた司法判断になってしまうでしょう。日本の司法は、国民の人権や暮らしを守る役割を果たせず、社会公正の府としての信頼を失うことになるでしょう。
危険があるかどうかを、人格権との関係で判断する。不安があるんだったら、そういう存在を社会に置いておいていいのかどうかを、司法は判断するべきじゃないか。そんなごく当たり前の社会常識からからの住民の訴えであって、もう一度高裁でも訴えていきたいと思います。
私たちは、今後裁判でどういう結果になろうとも、駄目なものは駄目と言い続けます。ただ、今回の判決はタイミング的にもよかった。社会への影響が大きい。つまり、仮に控訴審でどうなろうと、自治体の避難計画が実効性あるもの、すなわち本当に住民が避難できない限り原発は稼働できないことが、社会的に定着する。佐藤さんの言う官僚が作った国会答弁書でも、「避難計画がきちんとしてなければ燃料装着はできないと」している。これが政府の表向きの答弁であり、梶山経産大臣も小泉環境大臣もそのまま読んでいる。そのことも含めて、水戸地裁判決も最大限利用すればいい。控訴審で一審水戸地裁判決を確定させるように目指しますが、この一審判決を生かして、抵抗し続けます。
佐藤 東海第二原発の事故対策工事の完了と再稼働は二〇二二年一二月に予定されています。それに対する大きな歯止めとして、今回の判決は重要です。同時に、これを住民運動や自治体の対応とリンクさせることを、大石さんは強調されていました。
大石 一審判決で一〇年間にわたって審理した結果が、司法から示された。それを地方の住民がどう受け止めるか。あるいは自治体や県がどう受け止めるか。
茨城県知事は再稼働判断の条件として、①県独自の安全性検証を行う、②実効性ある避難計画を策定する、③県民意見を聞く、の三つを挙げています。
①の県独自の安全性検証は、県の東海第二安全性検討ワーキングチーム(WT)で県民意見を集約し、専門家の意見を加えて日本原電に説明を求めて、専門家の検討が行われています。規制委員会の審査とは別に「県独自の考えで検証する」として、より厳しい安全性を検証するとしています。常総生協では、WT会合での検討経過を踏まえて昨年一〇月に、地震動の想定に関する専門委員の指摘に日本原電はきちんと答えていない、という「意見書・質問書」を提出し、技術的なことについてもWTと市民との公開の対話の場を設けることを要請しています。しかし、半年以上たっても、それをWTでどう取り扱うかさえ具体的な回答がもらえていません。②の実効性ある広域避難計画策定と同様に、県民の命と財産を守る県としての力量が問われていると思います。
③の県民意見を聞くという点についても、県民を代表する県議会が昨年、県民から直接請求された県民投票条例案を否決していますが、それに代わる県民意見集約の方法についての案を示していません。県知事が具体案を示すことが必要だと思いますが、県議会・県知事が真摯に県民の声を聞くことをどう具体的に実行されるのかが問われていると思います。
水戸地裁判決は県民の判断、自治体や県や議会の大きな判断材料の一つにならざるを得ません。地方裁判所の判断も一つの判断かもしれませんが、そんなものは無視していいというのは社会常識に欠けます。自治体本来の自治能力、住民・県民への責務を果たせる能力が問われています。
佐藤 最後に、今後の闘いは高裁に移っていきますが、その展望についてお聞かせください。
大石 控訴審は秋以降に審理期日が始まる予定です。日本原電の控訴理由書が出されていますが、控訴理由は、①第一から第四層について重大事故が発生する蓋然性を認めていないにもかかわらず、第五層避難計画に欠けることがあるから原発の運転差し止めを命じる、というのは矛盾した判決である。②避難計画を含む緊急事態対応は検討途上にあり、そうした時点での判断は地方公共団体の広範な政策裁量権を尊重しない判断で、判断時期を見誤った判断であって、運転開始までに図られる充実を無視しており不合理な判決である、と主張しています。
①は深層防護の考えも否定するもので、「事故は起きない」という旧態依然の考えです。更田規制委員長でさえ次のように言っています。「どれだけ対策を尽くしたとしても事故は起きるものとして考えるというのが、防災に対する備えとしての基本であります。プラント側での努力、それから要求の引上げ等に伴ってプラントの安全性は高まっている、しかしながら、どれだけ努力をしても事故は必ず起きるもの、そういった意味で、プラントに対する対策を考えるところと、防災について考えるところというのは、独立して考えるべきものであるというふうに思っています。これが一緒くたになってしまうと、プラントに安全対策を十分に尽くしたので、防災計画はこのぐらいでいいだろうという考えに陥ってしまう危険もあります」(二〇二一年四月八日第二〇四国会衆院原子力問題調査特別委員会参考人答弁)。
日本原電は、原子力の国際基準や、福島事故を経た法改正の趣旨さえも理解していない原子力事業者であることを、自ら示してしまっています。深層防護の考えなど不要と主張しているのであれば、社会常識・国際常識の欠如としか言えません。
②の「避難計画は地方公共団体の広範な政策裁量権」というのは本末転倒です。一審判決が言うように「人の生命、身体に深刻な被害を及ぼすリスクを地域社会にもたらしているのは被告である」という、自らと地域社会の関係性を何ら自覚していないことを自白しているようなものです。どうして住民が避難しなければならないのでしょうか。一企業のために地方公共団体が一〇〇万人もの住民を避難させる計画を作ることが他にあるでしょうか。
そして、本来国民の生命財産を守るべき責務がある国は、自らの責任を放棄して避難計画を地元自治体・住民に押しつけているだけでしょう。原発の無責任体制を象徴しています。押しつけられた自治体・住民はいい迷惑です。リスクがあるならそのリスクを除去するのが普通の判断です。もし「裁量権」があるというのなら、住民を避難させる避難計画など無理だし迷惑だから原電は地域から出て行ってくれ、と言うのも裁量でしょう。これを自治と言います。
「地域社会からの撤退計画」を日本原電が示すことが、地域社会の住民・自治体が安寧になる道です。
原発の本質的危険性を認定し、福島第一原発事故という重い国民経験に基づいた水戸地裁一審判決を確定させるために、引き続き住民の立場で正面から裁判官に訴えていきます。(おわり)