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[特別コラム]山野浩一氏追悼パネル 電子版限定(2)
山野浩一氏追悼パネル 電子版限定(2)
参加者:デーナ・ルイス(翻訳家)、高橋良平(フリー編集者)、大和田始(翻訳家)
司会・本文構成:岡和田晃 文字起こし:柳剛麻澄
SFセミナー2018合宿企画 於:鳳鳴館森川別館【東京】
岡和田 それで話を進めますと、学生運動が行き詰まるなかで、NW-SFにはノンセクトの若者が集まってきたと。そこで出てきたのが、國領昭彦さん、大和田始さんなんかでした。大和田始さんから追悼文をいただきましたので、読み上げたいと思います。
「さらばでござる」(大和田始)
山野浩一さんがたちまちにしてなくなった。終活をきっちり済ませて逝ってしまった。私の人生でただひとり師匠というべき人だった。ただしこの弟子は出来が悪かったけれど。
20才代の10年近く、山野さんの掌の上で転がされ、翻訳家に仕立てられて、何冊かの訳書を出してもらうことができた。ただし私はその後SFを離れたので、恩に報いることがあまりに少なかったのが心残りだ。
山野さんはあらゆることを議論し解明しようとした。数学のような解の出るものから、一般には解などないと思われているようなことまで。山野さんのSFにならぶ業績である競馬の評論でも、血統によって馬の優劣を解明しようと、克明なノートを取っていた。
人間も5年ごとに区切って性格を考えるのが好きだった。血液型人間学、占星術にも関心をもち、将棋や囲碁に熱中した。囲碁の先生とは打ち手の評価をめぐって議論の果てに決裂したこともあった。
SFについても同様で、スペキュレーションの徹底がなっていないとアメリカSFを断罪し、折からの英国ニューウェイヴに活路を求めた。自費をつぎこんで「季刊NW-SF」を発行し、日本SF界に殴り込んだ。革命には成功しなかったが、ラテンアメリカの小説の隆興に日本SFの未来を幻視していたのではないかと思う。近年、樺山三英や岡和田晃の登場を見て、革命の成就を感じていたのは幸いだったと思う。
山野さんはもう、山野さんの書いたものと私たちの記憶の中にしかいない。
岡和田 (会場からの拍手を受けて)、これは日本SF作家クラブの公認ネットマガジン「SF Prologue Wave」に掲載予定です(その後、2017年9月20日号に掲載)。大和田さんは大学を出て、そのままNW-SF社の社員になった方で、山野さんのもとには、当時の履歴書も残っていました。
そして、デーナ・ルイスさんのことも忘れてはなりません。黒田藩プレスが刊行した日本SFの英訳アンソロジー『Speculative Japan』(2007年)に、山野浩一さんの「鳥はいまどこを飛ぶか」の英訳が収められていますが、遺品から別バージョンの「鳥はいまどこを飛ぶか」の英訳原稿もありまして。巽さんと検討したところ、デーナさんの訳だと判明しました。
巽 昨日、デーナ・ルイスさんからメールをいただいて。デーナさんは、もともとデイヴィッド・ルイスさんだったんですが、ジェンダーを変えられまして。今はデーナ。2013年の第2回国際SFシンポジウムでも司会をされていたので、ご存知の方も多いと思うのですが、英訳を通して日本SFの国際化に貢献されたパイオニアです(参考『国際SFシンポジウム全記録』、彩流社、2015年)。先ほど、荒巻さんが「佇むひと」の話をされていましたが、筒井康隆「佇むひと」の英訳版を「オムニ」に送って、筒井康隆が広く知られるようになったのも、デーナさんのお力です。
岡和田 「NW-SF」の9号の「プレリミナリィ・ノート」に、「佇むひと」の英訳は売れたが、「鳥はいまどこを飛ぶか」の英訳は売れなかったと書いてありました。
巽 で、デーナさんはTwitterで山野さんの訃報を知ったと。亡くなって何週間も経ってから知って衝撃を受けている。それで、今回も直前まで、静岡に行ってパネルに出たいと言っていたのですが、実行委員会から許可が降りないならSkype参加でもいいし、それでもダメならば追悼文でもいい、と。
けっきょく彼女は「ニューズウィーク・ジャパン」の仕事をずっとやっていて、それとは別に、今日の7時に納品しなければならない翻訳があるということで、最終的には追悼文をいただきました。午前2時くらいで、何度も書き直されてバージョンが5つくらいになったのでしょうか。その最終版を、以下に翻訳して読み上げたいと思います。
「回想の山野浩一」デーナ・ルイス(巽孝之訳)
世界で最も古い友人のひとりが亡くなったのを知ったのは、ついきのうのことだ。それも、何ともおぞましいことに、ツイッターを通じてだった。彼はもう何週間も前に逝去していたというのに、耳に入っていなかったとは。
あれはわたしがまだまだ生意気な大学生で、日本に再来日した時のある日、神戸駅近くの小さな書店を訪れたことがある。日本にもSFがあるのかどうかを確かめたかったのだ。
1974年。アメリカ合衆国のスモールタウンで暮らす大学生なら、日本にゴジラ以外の SFがあるなんて知るすべもない時代だった。
幸い、その書店には早川書房のSFシリーズ(銀背)が並ぶ小さな書棚があった。そこからいちばん薄い銀背を二冊ほど引き出す。というのも、当時のわたしの日本語能力では薄い本ですら読むのに相当な時間がかかるだろうと考えたからだ。
その本こそは山野浩一による短編集『鳥はいまどこを飛ぶか』(ハヤカワ・SF・シリーズ、1971年)だった。研究社の和英辞典と漢和辞典と首っ引きで、表題作を読み終えた。感動した。
帰国したわたしは、さっそく山野さんに手紙を書いた。すると彼はたちまち、「NW-SF」がぎっしり詰まった大きな段ボール箱を送って来てくれた。「鳥」を英訳してもかまわない、という許可とともに。さっそくタイトルを “Where do the birds fly now?”に決めた。
日本に留学することになった時、わたしは山野さんに連絡を取った。彼はアパートへ招待してくれたが、そこは暗く狭苦しい空間だった。いたるところ本と雑誌がうずたかく積み上げられており、書棚がひしめきあって限界をきたしていた。まさにそんなところで、わたしは山野さんと才気煥発な山田和子さん、そして NW-SFワークショップの面々との初対面を遂げたのである。それから何年ものあいだ、山野さんはわたしの日本における一番の親友にして師匠となった。
それがこんなにもむかしのことになってしまうとは――最初に『鳥はいまどこを飛ぶか』を手にした時にさかのぼるとは。人生とは何と長いものだろう。
そう、人生というのは、とてつもなく長く続く。
そして人生の途上で、人は道を見失ってしまう。
大切なことを、かけがえのないことを、いったい自分の人生の黄金時代が誰のおかげでもたらされたのかすら、よくわからなくなってしまうのだ。
当初はジャーナリズムの世界で、やがて漫画やそのほかの世界で、わたしはどんどん多忙をきわめ、山野さんに会うことがなくなってしまった―—それが何ヶ月も、何年も続く。
最後にお目にかかったのは、2006年にアメリカへ戻りサンフランシスコで仕事をするのが決まった時だった。次に再来日した時にはぜひとも再会したいと告げた覚えがある。
けれども、わたしは連絡を怠った。短期旅行で来日することはあったが、山野さんには連絡しなかった。あまりにも忙し過ぎたのである。
ようやく再び日本で暮らすようになったのは五年前のこと。けれども、わたしはなおも多忙だった。早く山野さんに連絡しなければと気ばかりが焦っていた。
超多忙の内実は、膨大な産業翻訳と楽しくも低俗な漫画翻訳である。日本SFの年刊傑作選を毎年毎年買い込んではいたものの、読みこなす時間などありはしない。
だから黒田藩プレスを経営するエドワード・リプセットがジーン・ヴァントロイヤーとグラニア・デイヴィスの共編により、日本初の世界SF大会Nippon 2007に間に合うよう日本 SFアンソロジー『Speculative Japan』を刊行し、そこに拙訳の「鳥」を入れてくれたことは、ほんとうにうれしく思っている。
とはいうものの、その先に待ち受けていたのは不幸な結末だった。
これだけの歳月を費やしたのちであっても、わたしは何も学習していなかったのだ。たんに忙殺されるばかりの日々だった。
もちろん「山野さんに手紙を書かなければ」という思いが心を離れたことはない。そうだ、来週手紙を書こう。来月電話してみよう。
そこへ飛び込んで来たのが、きのうの訃報である。わたしは日本 SF大会における山野浩一追悼パネルの知らせをツイッターで目にして、日本における最初の師匠にして友人が亡くなってしまったことを知ったのだ。
山野浩一という人が日本SFにどんな意義があったのか、それは定かにはわからない。
山田和子氏が J・G・バラードを日本に定着させるのに大きな貢献があったことは、よくわかっている。NW-SFワークショップのメンバーであった川上弘美氏が、いまやアメリカでは第二の村上春樹になりかけていることも、よくわかっている。
山野さんのアパートで机をぎっしり取り巻いていたワークショップのうちの何名かがすでに鬼籍に入っていることも、よく知っている。そのメンバーが、本日の追悼パネルに出席していることも。
しかし、このわがまま放題の弔辞をしめくくるにあたっては、本日このパネルのためにご来場されたすべての方々に対して、わたしはひとつのアドバイスを捧げたいと思う。
もしも何年も会っていない親友がいるならば、すぐに電話してほしい。
この大会から帰宅したら、すぐにだ。
断じて先延ばしにしてはいけない。
いまはちょっと多忙だからなどと、勝手な自己弁明をしてはいけない。
親友に電話するのだ、いますぐに。
なぜなら、いずれ時間の余裕ができて昔懐かしい親友と旧交を温めようと思った時にはすでに、あなたの親友は永遠に還らぬ人になっているかもしれないのだから」。
会場 (大拍手)。
●2:英語圏に紹介された山野浩一
岡和田 先ほど川上弘美さんの名前が出ましたが、最初に書いたのは、「NW-SF」Vol.15(1980年2月)に「累累」という作品を寄せてデビューしていますね(小川項名義)。私は川上弘美の最高傑作だと思うのですが……。ワークショップで、増田さんはデーナさんとお会いになっていたのですか?
増田 ええ。覚えています。きっかり40年前。
巽 それは3回目の来日くらいですか。75~76年ですか。
増田 だいたい、そのくらいですね。
巽 なんか、デーナさんの前のメールによると、しょっちゅう山野さんのアパートへ泊まっていたとか。
増田 我々も当然、泊まっていましたから。
巽 「ファウンデーション・レビュー・オブ・サイエンス・フィクション(Foundation The Review of Science Ficition)」1984年3月号に山野さんの論考が載っているんですね。「イギリス文学とイギリスSF(English Literature and British Science Fiction)」。海外SFに親しんでいると、あまりピンと来ないかもしれませんが、日本SFにとっては、まだロクな翻訳が流通していなかった時期ですね。
最初の日本SF英訳アンソロジーが出るのが89年ですから、84年には日本SFのことも、海外ではよく理解さていない。そういうときに、山野さんのイギリス文学・イギリスSF論が出て、デイヴィッド・ルイス名義での訳が載っているわけですね。
増田 頼まれたんですね。
巽 頼まれたのか、はたまた山野さんを尊敬するあまり、英語圏に何か出したいと持ち込んだか(岡和田注:デーナさんに確認をとったところ、「山野先生ご自身に直接頼まれまして、よろこんで英訳いたしました。英訳を先生に送り、先生から英国に送られているはずです。先生は英国に送る前に訂正したりしたかわかりません」とのことでした)。「鳥~」は76~77年に訳していたのに、なかなか日の目を見なかった。それは10年前のワールドコンまで。SF小説も掲載されていたアメリカの科学雑誌「Omni(オムニ)」はデーナが訳した筒井の「佇むひと」を買ったので。あと半村良の小説も訳していたみたいですね(岡和田注:デーナさんに確認をとったところ、これは「ボール箱」で、「Moana Pacific Quarterlyに載り、後にDembnerのJapanese Science Fiction Storiesのアンソロジーに掲載され、『Speculative Japan』に収録されました」)。半村良のことは、山野さん、すごく評価していますね。
増田 「NW-SF」に寄稿してくれましたし(「書評」、「NW-SF」Vol.10)。
巽 この84年というのは象徴的で、日本SFの現物を英語圏の人が知るよりも先に、日本のSF作家がイギリスの文学・SFをどう思っているのか、というのが先に出た。
増田 それは山野さんにとっても本望でしょう。
巽 しかも「ファウンデーション」に載ってね。私が「日本SFの原点と指向」を、カズコ・ベアレンズとダルコ・スーヴィンと一緒に訳した際にも、先にこれが出ていたからというのが大きい。アメリカSF批判をしている日本のSF作家だというので、山野さんにダルコは親近感を覚えたみたいですね。ダルコ・スーヴィンは『SFの変容 ある文学ジャンルの史学と歴史』(国文社、1991年)で著名ですが、本当に、山野さんのことが好きでしたね。
増田 わかります。山野さんは、会ってみればわかりますけど、公明正大で私心のない人でしたから、みんな好きになりますね。
巽 それは野阿梓(作家)も言っていましたね。だから、そういう意味でも、84年の段階で海外に知られたというのはすごい。
●3:「M・C・エッシャーのふしぎの世界」
岡和田 NW-SFワークショップで他に思い入れのあること、ありますか?
増田 「NW-SF」に載ってから、しばらく、ぼく自身が自分で仕事をしたりしていて接触がない時期があったのですが、ある日、電話がかかってきて、「君、翻訳家になりませんか」と。「はい、なります」と答えて。いきなり『334』というのが送られてきたんですけど。生まれてはじめての長編で、あれを送ってくるかと(笑)。
その前にやった『レンズの眼』というのは250枚だったのですけど、僕の生まれてはじめての翻訳ですから、ぜんぶ生まれて初めてをいただいたわけですけどね。翻訳の監修というのは、僕の場合ですけど、野口幸夫くんなんかはまた違ったみたいですが、「OK」か「もうちょっと書き直してくれ」というか、どっちかしかなくて。それでうんうん唸って翻訳して、山野さんに見せたら、よくやった、次、プルーフ版があると渡されたのが、『Unlimited Dream Company(夢幻会社)』が2冊目の長編になります。
岡和田 山野さんは「週刊読書人」で1972年から80年まで8年もの間、SF時評をやっていて(途中から「SF・ファンタジー時評」に改名)、前任者が石川喬司さん。後任が山田和子さんでした。『334』については、年間ベスト級だと褒めていましたね。
増田 あれは、すごく嬉しかったですね。
岡和田 小説もたくさん書いていて、再評価してほしいのは「M.C.エッシャーのふしぎの世界」というシリーズがあり、これは「GORO」という雑誌に連載していたのですが、エッシャーの版権料が高額すぎて単行本に出来なかったと。これは名作だと思います。
巽 これは荒巻義雄さんの『カストロバルバ エッシャー宇宙の探偵局』(『定本荒巻義雄メタSF全集7巻』所収)より早いんですか?
岡和田 早いですね。『カストロバルバ』は1983年ですが、こちらは76年からの連載ですから。
増田 平たく言うとコンデンスド・ノベルですよね。
岡和田 ええ。連作シリーズなのですが、一作だけ「戦場からの電話」が、『レヴォリューション』(NW-SF社、1983年)に収録されています。いまは、「戦場からの電話」は、中野晴行さんが編集を手がけた『あしたは戦争 巨匠たちの想像力』(ちくま文庫、2016年)で読めます。大学の講義で読ませたところ、都市伝説のようで面白いと好評でした。
このように、エッシャーの絵がなくても面白いシリーズだと思うのですが、山野さんは復刊できるならば、自費で版権料を出してもよいと言っておられ、思い入れがあったようですね。
ところで、山野さんは翻訳家としての増田さんを評して曰く、「増田くんはまったく手がかからなかった」(会場爆笑)。
巽 優等生(笑)。
岡和田 一方、翻訳は前から訳せというのは、國領昭彦さんもバラードの『コンクリートの島』を訳すときに指導されたそうです。1970年代には、山野さんの評論集が出る予定だったので、冬樹社の編集者からの手紙も残っています。『内宇宙からの抒情』というタイトルで、原稿用紙363枚。なぜ出なかったのかは、山野さんご本人も記憶がなかったです。
●4:SFの歴史、リスクの誘惑
岡和田 1984年には、出典不明の謎の「文学大事典」という本に、「スペースオペラとニューウェ-ヴと近未来」という記事が載っています。
一方、同年出た『平凡社大百科事典』の2巻に「SF エスエフ」という項目があり、これはよく読むと、他に見たこともないようなニューウェーヴ中心史観なんですね(会場爆笑)。
そして、サンリオの『SF百科図鑑』(ブライアン・アッシュ編、1978年)も忘れてはなりません。山田和子、國領昭彦、大和田始、野口幸夫と、このパネルで言及された各氏が翻訳に参加しています。
山野さんは、こうした事典の監修など通して、SFの歴史に興味をもっていたということで、生前未発表のSFの歴史の資料も発掘できました。感熱紙の原稿です
会場 感熱紙……(ざわめく)。
岡和田 巽さんの関わった「サイエンス・フィクション・スタディーズ(Science Fiction Studies)」の生原稿もあります。山野さんのお手元には、巽さんからの封筒も残っていたんですね(会場爆笑)。
巽 すごいものが出てきちゃった(笑)。
岡和田 『リスクの誘惑』(慶應義塾大学出版会、2011年)に収録される原稿と、あと巽さんからの手紙。
巽 うちの大学の文学部では総合講座というものをやっていて、私はその共同コーディネータをかれこれ四半世紀ほど務めてるんですね。毎週、違うゲスト講師を内外からお呼びしてお話をしてもらうオムニバスで、本当に知的好奇心のある学生が出てくるのですが、今世紀の初頭に年間のテーマを「リスクの誘惑」と決めた時に、山野さんを講師にお招きしたんです。そのころ「ユートピアの期限」とか「幸福の逆説」といったタイトルで二年間ワンセットでやって、成果を順次、一種の共同研究として単行本化していきました。で、「リスクの誘惑」といったら、やはり山野さんだろうと。山野さんは大学の教壇にのぼることを大変に名誉に思ってくださって、都内に住んでおられたはずですが、慶應に近い清正公前の都ホテルに宿をとられて、前の晩から泊まられて、もう万全の準備体制ですよ。最後の打ち合わせをしたいから、と。私はコーディネータとして接待する側のはずなのに、この時は山野さんが、都ホテルのレストランでご馳走して下さった。同行した女子大生のアシスタントが一番トクしたんじゃないかな。とにかく準備に時間をかけてくだった。よくよく振り返ってみれば、荒巻さんの『白き日旅立てば不死』もギャンブルを繰り返すうちに多元宇宙へさまよいこむ物語ですから、スペキュレイティヴ=投機的なモチーフは思弁小説(スペキュラティヴ・フィクション)とはもともと相性がいいんでしょう。
岡和田 これはまだ、流通在庫がたくさんあると思うので、読んでいただければと。
巽 たくさんあります。
岡和田 サンリオSF文庫がたくさん出ていて、サンリオはいわゆるブラック企業だったと思うんですね。『サンリオ闘争の記録』(マルジュ社、1984年)という本が出ていまして。あまり話題になりませんが、絓秀実(文芸評論家)さんや、野崎正幸(現・古書店「文雅新泉堂」店主)さんなども参加していました。「サンリオは翻訳が悪い」と言われ、「読書人」の時評で反論を寄せていたり(「TH(トーキング・ヘッズ叢書)」No.73、連載「山野浩一とその時代(2)」、2018年1月で詳しく紹介)。
山野さんはちゃんと監修しているという自負があったからなのでしょうが、訳が悪いという問題があったとしたら、サンリオの「丸投げ体質」によるものではないかという仮説が出てくるわけです。
巽 それは、読まなきゃ。
岡和田 SF史への関心とは別に、馬主をやってオーストラリアへよく出かけられた関係で、オーストラリア文学についても関心が出てきたようで、これは「すばる」に掲載されたオーストラリア文学論ですね。「ゴールデンサマー反夢の風景」(1989年4月号)。河野典生さんの『街の博物誌』(ファラオ企画版)の解説が1991年の7月。英訳の「サイエンス・フィクション・スタディーズ」が94年。
その後、「リスクの誘惑」がありましたが、SFの仕事は途絶えていて。2007年に横浜で開催されたワールドコン(世界SF大会)で「ニューウェーヴ・スペキュレイティヴ・フィクション」パネルに参加されました。グラニア・デイヴィスさんと並んでおられたのが知られていますが……増田さんが司会を頼まれたんですよね。
増田 登壇者のプロフィール紹介とか、ぜんぶ頼まれてね(笑)。グラニアさんというのは、『どんがらがん』(河出文庫、2014年)のアヴラム・デイヴィッドスンの元奥さんだというのが、知られていると思いますが、「NW-SF」にも「敗者には何もやるな」という短編が掲載されています(No.16、1980年9月)。グラニアさんも亡くなってしまいました。このとき、もうひとり関わっていたのがイラストレーターのYOUCHANです。
YOUCHAN (客席から)そうそう、客席にいたんです。すごい偶然!
岡和田 作家の笙野頼子さんと山野浩一さんが、並んで写真を撮っておられて。すごい取り合わせですね。
●5:来場者による山野浩一の思い出
岡和田 それでは会場にいる方々から、思い出をお聞きしたいと思います。森下一仁(SF作家・評論家)さん、どうぞ。
森下一仁 僕は1970年、大学に入った年、後に「NW-SF」で翻訳家デビューする野口幸夫くんと一緒に山野さんのマンションへ行きました。地下鉄方南町駅近くの。在学中は数ヶ月に一回は通っていましたね。
増田 僕とはすれ違って、少しズレていました。
岡和田 安田圭一(SFファンジン「イスカーチェリ」会員)さん、お願いします。
安田圭一 私、EZOCONⅠで山野さんにお会いしまして。山野さんは風呂敷に本を入れて、行商人のように本を売っておられました。「NW-SF」をそこで私も買わせていただき、SF大会が終わった後に支笏湖から札幌まで車で行って、途中でジンギスカンをごちそうになりました。そのかわり、札幌競馬場まで乗せていってくれと(笑)。札幌競馬場で下ろして、さようならと別れました。
岡和田 いやあ、いい話ですね(笑)。小谷真理(SF・ファンタジー評論家)さん。
小谷真理 山野さんは古い意味でのフェミニストで、微妙だなと思うことはありました。ただ、晩年は、私によく話しかけてくれたのは、介護をずっとやってらっしゃったからかと。私もずっと十年くらい介護をしていて、その間、仕事が滞ったこともあったのですが、Facebookに介護のことを書くと、さあっと山野さんが寄ってきて必ず書き込みをくれるんです。最後もFacebookで私が介護のことを書いたのかな、これは会いたいということなのかなと思ったら、先ほどデーナさんの追悼文に、「電話をしろ」という一節がありましたが、すみません、しませんでした。亡くなったあとで考えてしまった。
巽 ジェンダーに関して、『殺人者の空』に採録された「φ」という作品は、立派なジェンダーSF。コンピュータ・ネットワークも融合させた立派な作品と思います。
岡和田 実は、講談社のショートショート専門誌「ショートショートランド」に掲載されるはずがお蔵入りになった、宇山日出臣さんのお詫びの手紙が添えられた「嫌悪の公式」という未発表小説があります。原稿の入っていた封筒を調べると、1983年頃と思われます。「ショートショートランド」には、荒巻さんや光瀬龍さんもお書きになっているんですが、あまりに暗い話なので載らなかったのかなと。原稿用紙に手書きで残っていたものです。
●6:もっと小説を書いてほしかった
岡和田 最後、荒巻さんコメントありますか?
荒巻 いやあ、いろいろな意味で鍛えられたよな、お互いにね。皆さん、(パネルの会場の)静岡にX電車は止まったと思いますか? X電車は静岡に止まっているよね(笑)。
「X電車で行こう」実は好きな小説で、機会があれば本格的に長い分析をしてみたいなあと(岡和田注:その後、「SFファンジン」復刊8号、2018年に掲載)。「鳥~」は、これもですね、フォンタナが出てくる場面があって、絵を知っているんだなと。演劇以外にもいろいろな興味があったんだなと、今日は私の知らない山野さんの顔がありました。
巽 『J・G・バラード短編全集3』の解説「内宇宙の造園師」は、荒巻義雄さんの「術の小説論」(1970年、『日本SF論争史』所収)に、山野さんが応答したものと読むことができます。ちゃんと最晩年でも荒巻さんとの間にコール・アンド・レスポンスがある。
岡和田 山野さんは「ミステリーズ」2009年(東京創元社)に寄せたバラードへの追悼文「内宇宙のブラックホールへ」で「悲しまなくていい」と言っていますから、我々も悲しむよりは再評価を進めたいなと。誤解されることも多かったのですが、それは活動領域の広さをも意味しますから。X電車の頃は「旅行マニアは一人旅がお好き?」(「旅」1966年3月号、日本交通公社)という。「X電車」の元ネタの一つらしい論文も見つけましたし。
荒巻 山野さんには、もっと小説書いてほしかったですね、途中でやめちゃったね……。雑文を任されすぎたのかなと。東京にいたからでしょうね。僕なんて地方の孤立したところにいたから、ほかに方法がなくて小説を書いていた。
岡和田 そうですね。唯一の長篇『花と機械とゲシタルト』(1981年、NW-SF社)は、ほとんど書評が出なくて。むしろ、「朝日ジャーナル」で言及されたくらいです。
荒巻 批評というのはたくさん小説を読まないといけないですからね。小説を書くより大変な面もあったんじゃないかな。
岡和田 荒巻さんは作家志向ですが、山野さんは批評家志向の側面があったのではないかと思いますね。そのせいでSF小説の執筆量が落ちたみたいですが。
荒巻 地方にいると雑誌の仕事なんて来なくて、書き下ろしをするしかないしね。便利に使われすぎたんだろうね。なんでも出来たからかな。読み直してみると、彼は小説うまいなと。途中でやめちゃったのは惜しかったなと。
岡和田 後期になればなるほど、作品の密度が上がっていきますからね。
……話は尽きませんが、そろそろ時間です。私がしゃべりすぎた感もありますが、細かく調べているゆえなので、どうぞご容赦ください。いずれにせよ、山野浩一さんの再評価が必要という点については、この場の皆さんの衆目が一致するところと思います(会場拍手)。