2026/02/20号 4面

音を帯びる

音を帯びる 井上 航著 柳沢 英輔  本書は、著者がカンボジア北東部の村でクルンと呼ばれる人々と合計二六か月生活をともにしながら、「音を帯びつつ感じる経験」について考察したものである。まず本書のタイトルでもある「音を帯びる」という聞き慣れない言葉が興味を引く。著者によれば、日常の活動との連続性において音の響きのなかで時を過ごすときにおのずと感じられる「気分」や「雰囲気」といった経験に焦点を当てるために、「音を帯びる」という言葉を用いたという。そして、副題にある「参与」という言葉は、本書の主題にもなっているが、「何らかの音に触れると同時に音のその何らかの様態をおのずと帯びてしまうあり方に注目する」という意図がある。またそれはクルンの「実践や行為の記述」だけではなく、著者自身がフィールドでおのずと感じられた「主観的な様態の記述」や「束の間の一回性の経験の記述」を重視するという民族誌の方法に関する態度とも関わっている。  本の内容を見ていこう。序章と第一章では、本書の目的とともに、本研究が対象とする地域、クルンの人々、そして著者がどのような経緯と関心をもってフィールドに入っていったのかが説明される。第二章から第五章にかけては、竹筒の音遊びである「ブング・ブ」や、さまざまな災厄を取り除くために行われる「牛/水牛供犠とゴング演奏」などを事例に、その内容、プロセスを具体的な事例を挙げながら詳述する。また先行研究を引用しながらそれぞれの営みにおいて立ち上り、共有される「気分」や「雰囲気」といった束の間の、言葉にしづらい経験について考察を深め、「音を帯びつつ感じる経験」がどのようなものであるかを描き出そうとしている。  例えば、第二章と三章で取り上げられる「ブング・ブ」は竹筒の両端を一人が手の平で打ち、その直後にもう一人が竹に触れずに両手を合わせて竹筒に空気を送り込むことで演奏する音遊びである。ある儀礼の準備をしている途中で少年たちが地面に落ちている竹筒を拾って突然「ブング・ブ」が始まった。一見すると気まぐれに始まったかに見える「ブング・ブ」だが、その直前に行っていた、大きなポリタンクに入った水を共同で運び、屠られた豚を「エッサエッサと」運んで、竹筒飯のための焚火の上に「えいっと」載せるといった行動のなかに「力動感の同調」と「遊びの様態」のきざしがあったと考察する。  日常生活において「音を聞く」という行為は、意識的に何かを聴くということももちろんあるけれど、実際には無意識のうちに「聞いている」ということの方が多い。そのとき、聞く身体は音に包まれ、音に貫かれ、音と一体となって、まさに「音を帯びている」と言えるような状態にある。本書が対象とするフィールドのように、生活と地続きにある「音の実践」が行われている場に焦点を当てるときに、「音」や「音楽」を対象化して捉えるのではなく、それが「経験される出来事の文脈とともに記述し、その時々の音を帯びる経験の意味を考える」というのは理にかなっているように思われる。それはクルンの人々とともに長く生活し、いろいろな出来事に「参与」するなかで、自分自身の感情の変化とも向き合ってきた著者だからこそ見いだされた視点なのだろう。  この地域と隣接するベトナム中部高原で本書にも登場するゴングについて調査を行ってきた評者にとっては、著者が記述するさまざまな出来事はその類似点や差異も含めて興味深く、長期滞在の苦労も想像することができた。また本書付属のQRコードから視聴できる映像は本文の理解を助ける重要な資料となっていた。本書は、人類学や民族音楽学の学術書ではあるが、論旨は明快で文章も読みやすく、装丁も素敵なので、関連する分野の研究者だけでなく、日常生活と音や音楽、聴取との関係性に関心を持つ方にはぜひ手に取ってみることをお勧めしたい。(やなぎさわ・えいすけ=音文化研究者・フィールド録音作家)  ★いのうえ・こう=京都市立芸術大学芸術資源研究センター客員研究員・和歌山県立医科大学ほか非常勤講師・民族音楽学。

書籍

書籍名 音を帯びる
ISBN13 9784868160694
ISBN10 4868160699