1959/01/01号

日本文化の座標 アジアと西欧へ開かれた特異な窓 対談=堀田善衛×桑原武夫

日本文化の座標 アジアと西欧へ開かれた特異な窓 対談=堀田善衛×桑原武夫
最後十四年目を迎えた今年は、一昨年来、論環をにきわしてきた日本文化論があらたな応用を期待されている年でもある。そこで本紙ではかねてからこの問題に深い関心を示している桑原武夫(京大人文科学研究所教授・フランス文学学専攻)と堀田養衛(作家)の両氏に、日本文化の座標、油路などをめぐって、いろいろ話し合ってもらった。桑原氏は昨夏、京大登山隊長としてチョコゴリザ違征を行い、また堀田氏は昨秋タシケントのA・A作家会議の準備員として、いずれもアシア各地の空気に親しく触れてきたばかりの人である。その"新しい眼と心"をもって眺めた日本文化観を聴くことにしよう。(編集部) <ふわっと-民族統一 理屈ぬきで話の判る国> 桑原 サマルカンドには行ったんですか。 堀田 あれはいいところですよ。東京、デリー、カイロ、モスクワ、北京という、この五点で結ばれるものの、古代と中世の星みたいなところだ。そして中央アジア一帯というのは、アジアの諸民族の集中しているアジアらしいアジアだと思ったですね。 桑原 タシケントなんていうところは、全部回教律ですか。 堀田 全部ではないが回教徒です。けれどもいろいろ聞いてみると、回教というのはそれほどの影響力を、ソビエト内においてはもうないんですよ。精々おじいさんがうちの中で、ブツブツ、コーランを言っている程度で、まあ若い人には全然ないようですよ。二千万ぐらい回教徒がいるということでしたが、ソビエトでは、たとえばそれの政治的影響力はほとんどないということでした。そのかわり、つまり回教の遺蹟、たとえばサマルカンドのいろいろな古い建物ですね、そういうものは大切に保存されていますよ。 桑原 そうすると、中国における回教徒とソ連における回教徒とは、ちょっと違いますね。中国のほうは、もう少し回教徒に力もあり、中国の今のレジームにまだ完全にとけこんでいないという感じがある。 編集部 レジームが人間を変えるということも考えられますが、やっぱりアジアの基本的な性格は共通だという考え方もあると思うんですが……。 桑原 アジアのベーシック・パーソナリティが一つだとは、簡単にいえないんじゃないかな。ぼくはパキスタンと山地のバルチスタンに行なっただけだから、よく知らないけれども……。 堀田 ぼくも行ってるところがほんの少しです。だけど、まあわかるみたいな気になれないことはない、こういうものだろうとね。大体、中央アジアに行ってみてはじめてわかったんだけれど、トルコと蒙古というのはとても近いんですね。つまりトルキスタンというように、トルコ、ペルシヤ、アラブ、ギリシャ、それから蒙古、それから中国、それからインドですね、そういうようなものというのは、中央アジアの平原の中で一緒になっていますよ。文化的にも一緒に。 ところで、おもしろい古典劇というのは、大体異民族交渉がドラマツルギーの基本なんですね。どこやらの王様がどこやらのお嫁さんをもらって、習慣が違っておかしなことが起ったり、悲劇が起ったり、これが演劇というものの一番基礎だったと思うんです。だから文化概念というものも、異民族交渉のおもしろさ、おかしさ、刺激、そういうものから出ているわけでしょう。 だから日本においても、文化というものは、東方や西方との異民族交渉から起るいろんなドラマが、文化というものだったわけですがね、それをあまり異民族交渉としては受取らなかったんだな、西洋との接触というものをね。ひたすらに高い文化、真似るべきもの、というふうに受けとった。 桑原 異民族交渉というのが日本で本当にちゃんとあったのは奈良朝のころだけですからね。あのへんはちょっとおもしろいんだ。しかし、あれからあとは大きな民族移動はないしね。 堀田 外へ出て行くこともあまりなかった。だからまあ民族統一ということがいいこととして、民族統一というのは、とうに済んじゃっているわけでね。 桑原 よその国が血みどろな何かをやって片付けたことを、日本は大体、もう相当古代にやっているわけでね。スターリンがいっている民族形成の定義の要素の大部分は、日本では徳川期にすんでいる。国土の統一も、言語統一も、風俗の統一もできている。 堀田 徳川期以前までにすべて済んでしまっていますよ。その点日本民族は非常に特殊なんじゃないか。現在も民族形成の最中にあるのが、大体世界というものじゃないでしょうかね。 桑原 日本の愛国心とか、あるいはナショナリズムとかいうものがよそと違うのは、そういうことと関係すると思うんだ。たとえばフランスはフランス革命で統一ができた。よその国が大変努力をして作り上げた民族統一が、日本は無意識のうちに、フワッとしているうちにできちゃった。まことに結構だとも考えられるけれども、同時に無意識的にできているところに、大変弱みがあるわけだな。そういう点で、日本というのは非常に特殊的な国だと思うな。 堀田 それは日本語なら日本語一ヵ国語だけでどこに行っても通ずるなんていう国は、そう沢山ないですよ。その点も特殊だな。 桑原 それから王様というものが、大体よそでは異民族が多かったわけだけれどね、日本の皇室は日本人だというのが、大体普通の説ですわね。たとえ異民族で天皇家があったとしても、異民族だと、もうだれも思っていませんから、それで天皇一家というふうに思うんですね。イギリスのノルマン・コンクェストのようによその国から攻めて来たのが王様になるということが、よそにはよくあったけれども。 堀田 あっても、とうにインテグレーション(統合)が終っちゃっている。 桑原 これは大変重要な要素だと思うんですよ。今まで日本の歴史家は、こういう日本の特殊性を十分に強調していない。日本文化の特質を考える場合には、侵略、被侵略がなかったことをもっと重視しなければいけないな。明治になってからは別ですよ、その前には、侵略、被侵略はなかったですね。あまり理屈をいわないでも話がわかる。俳句というのができるわけだ。 <未来のニつのイメージ/"死にたくない"と"生きたい"と> 編集部 そうすると今でも外国に行って、異質の要素のあるところを見聞するということは、日本人にとって大きな意味を持つわけですね。 堀田 そう思っていて、ドサ回りを経てあそこまでやっと到達した。それで、パリにいていろんなことを考えさせられたわけですが、欧州諸国にもわからないことは沢山あるけれども、これはつまり未来へわたってわかって行くようになるであろうという感じを持ちますね。これから時間が経って行くに従って、おれにはわかってくるであろう、今ここでわからないことも⋯⋯。 パリでは、ここでわからないことは、これから時間がかかって、未来に時間が発展して行っても、おれにはやっぱりわからないかもしれない。わかっても納得しないかもしれない、そういう感じを持ちましたね。 桑原 なるほど。イギリスとかフランスというのは、固まっているんだね。自分の形とかそういうものが割合ビシッとしているから。日本なんか、しょっちゅう明治以後なんか動いていましてね、ですから、向うの古典主義なんていうものは、本当はなかなかわかりっこないんです。 堀田 それから、フランスのことも非常にわからなくなりましたけれども、あのパリという街は、見ていてつまり完璧な都市だと思いましたね。森有正に引っぱって行かれて、十一世紀の建物を見せられましたが、大体あの生活は十九世紀から同じことをして暮しているんじゃないでしょうかね。それであれは変えたくないわけですよ。 桑原 そうです。だから堀田さんのテーゼにある「死にたくない」という思想ですね。 堀田 それから、あの街はどうしようという悩みも根本のところではないわけじゃないでしょうか。もしそうだとすると、今の現代の世界で一番妙なことになっているというか、一番はっきりしている問題は、ヨーロッパが未来というものに対して持っているイメージと、後進地域が未来というものについて持っているイメージ、これが一番食い違っているんじゃないでしょうか。 それでヨーロッパというのは、つまりヨーロッパの人たちというのは、未来についてどういうイメージを持っているかということは、ぼくはまったくよくわからないですね。 桑原 それはあなたの言った通りじゃないかな。死にたくないんだから、未来のイメージというのは、現在のイメージを向うに持って行くだけのことでね。ただ現在を未来に残そうとすれば、原型が落ちちゃ困る、社会革命も起っちゃ困るということは考えるでしょうね。そういうことは考えるけど、どう切り替えるということはないですね。 アメリカのほうは新出来の国ですから、これはありますわね。それからアジアの諸国というのは、実現するかしないかは知らんけれども、変えて行こうということがあるわけですから。ぼくはものを変えて行こうという人間のほうが好きなんだ。人間としての冒険があるわけだからね。 ですからそういうことを考えると、われわれが、つまりアジアなんていうところを考える時にですよ、われわれの考え方というものが、西洋人の考え方と違ってくるのがあたりまえだと思うんです。違って来なければおかしいわけですが。 堀田 それから、もう一つ。そういうヨーロッパの先進地域というものと、後進国との違いの問題のなかで、こういうことがありはしないか。 ヨーロッパは、近代文明一般を作り上げてくれるのには、やっぱりずいぶん苦労していると思うんです。近代文明の所産というものの裏には、いろいろ歴史的な因縁が層々と重なってある。だからヨーロッパの人は、つまり自分たちないし自分たちの仲間が作り上げたそういうものを見た場合に、物としてであると同時に、長い苦労と因縁を、その物の背後に見ていると思うんですね。 ところがたとえばトラクターならばトラクターを、アフリカのジャングル、アラビアの沙漠にでも持って行くでしょう。持って行くと、行ったその場で、ヨーロッパの長い間の苦労と因縁が、そこで消えちゃうと思うんです。そして、物それ自体になる。 そうすると、今度は西欧の人たちは、日本人でも、アラビア人でも、背後の苦労や因縁ぬきで使いこなすということが、うまく納得できないんじゃないかと思うんですね。それから納得したくないということもあるんじゃないか。 桑原 それはつまり、自分のおじいさん、ひいおじいさんが作ったものを、スポッと持って行って使っているのは、何かずるいような、軽薄のような、模倣だとか⋯⋯。しかし科学とか科学機械というのは、模倣できるところが特色なんでね。作ったほうが運が悪いんだよ。作った以上、よそに使われるのはあたりまえなんだから。 堀田 現代文明というものは、進歩すればするほど、だれでも使えるようになるようなものだと思うんですね。だれでも原理とか、あるいはいろいろの因縁なんかを知らなくても、運用できるはずなんだ。ラジオだってテレビだって。機関銃だって。 しかもそれが運用できるということが、今度はヨーロッパの人にはおもしろくないだろうと思いますね。 <多元的な思考が必要/アナーキー化に耐えて> 桑原 思想ということになると、これはちょっとそのまま“もの”になりにくいから、そこに問題があるんですがね。西洋の思想が、トラクターのようにアジアの平原を走れるか――というところが問われるわけです。 たとえば、「アジア・ナショナリズム」というようなことを言うでしょう。ところが、ヨーロッパのナショナリズムを研究している学者――たとえばコーンとかヘイズとか、スタンダードになっている人たちでも、アジア・ナショナリズムはよくつかめない。 いつかコーンがアメリカの雑誌に書いているのを見たけれども、彼はナショナリズムそのものは認めているんですよ。フランス革命時のナショナリズムなんか、大変高く評価するわけです。ところが、近頃のアジアのナショナリズムには閉口だ、というんですね。 本当のナショナリズムは、個人の自由――もう少し伸ばして言えば、個人主義という要件がなくてはならない。ところが、アジアのナショナリズムには、個人の自由がないじゃないか、と。こういう議論になるんだけれども、それは無理な話なんですよ。 遅れた国が追いつこうというときに、個人の自由を一番先に掲げていたら、民族全体としてはいつまで経っても伸びない。それを伸ばそうと思えば、何らかの大改革をして、改めていかなければならない。民族として結束して、民族としての地位を上げる――そういう段階が必要になってくると思うんです。だけど、それがどうも西洋人にはわからない。わからないのか、それとも、わからない“ふり”をしているのか。 堀田 個人の自由という基本的な問題でも、基本的だからといって、「個人の自由」というある抽象的で、しかも普遍的な形が現実に存在するかというと――ぼくは、そういうものはないと思いますね。 その民族の生活様式や歴史が、それぞれ必ず入ってくる。だから、ぼくは個人の自由というような基本的な問題も、「基本的でありながら、多元的である」と思います。 つまり、「個人の自由」に関して、絶対的な形があるかといえば、そんなものはない。多元的であるからこそ、おのおのが触れあって、文化や文明が成立してきたわけです。 桑原 ギリシア、ラテンから出てきたヨーロッパ流の考え方で捉えた「個人」というもの、それがインドにない、中国にない、というような言い方は意味をなさない。 堀田 やっぱりギリシア、ラテンから来て、フランス革命を通って成立してきた“個人”の思想というのは、それはひとつのタイプにすぎないと思います。それが悪いというのではなくて、それはそれで非常に良いものだけれども、それを“絶対視”するのは間違いだと思うんです。 桑原 中国の建設というものを、「個人の自由」という物差しだけでは測って評点をつけることはできないと思うんだ。 日本は明治維新をやって、それから科学が進んで、ある程度のところまでは来ている。だから、ヨーロッパ人と同じように考えられる社会的基盤がある。それは事実です。日本では「個人の自由が大事だ」と。 だから、警職法に反対しなければならないというのは、重要なことです。けれども、「警職法に反対しているくせに、個人の自由が乏しい中国を認めるのはおかしい」――と、極端に言えば、そういう議論になってしまってはいけないと思うんです。日本と中国は、そもそも違うんだから。 堀田 いろいろな状況があるということ。つまり、その“差”が、人間の世界には、二千年前から原子力まで存在しているわけです。 一歩あやまればアナーキーになってしまいますが、そういう多様な状況に耐えていく“馬力”が必要だと思う。 単純化すればラクになる。だから、なんでも“一つ”にして、ヨーロッパ至上主義になったり、アメリカ万能主義になったり、ソビエト至上主義になったり――何にでもなりがちだけれども、そういう“イージー”な考えは、やっぱりイージーなんだと思いますね。 <知識人の責任と自覚/ "急ごしらえ"の時期は過ぎた?> 桑原 日本は今だけじゃなく、太古から比較的ヌルマ湯的だったのじゃないですか。きついことが少ないですよ。歴史の上に疾風怒濤が少なくて、サザナミが立っているだけでね。万世一系ということがその証拠です。 堀田 それからまあ、さっきいったようなヨーロッパの人が発明をし、その発明の背後にいろいろと歴史的な閃線やら苦労やらがひそんでいるものが、日本よりも後進地域で使われると「何じゃこれは」と、本当にそれが使い得ているというふうに納得しないという、やっぱり優越感の一つだろうと思うんですが、それがやっぱり日本にも成立していると思いますね。そして日本の近代文明というものは、その点ではぼくはやっぱり相当ヨーロッパとパラレルなところにまで来ていると思いますね。ところが、ヨーロッパと非常に違う点は、ヨーロッパは、たとえばパリという完璧な街に象徴されるように、そういう現状維持だけじゃ非常に困る点のほうが、日本は西欧と比べたら問題なく多すぎる。それからもう一つは、ヨーロッパは彼ら自身の努力もさることながら、それと同時に、それこそ遅れたアジアやアフリカを、非常に判致して現状に達したわけですが、いろんなそういうことも含めてみると、本当にアジア・アフリカ、つまり後進諸国というものと協力――心から協力ができにくい点があると思いますね。その点では日本は、つい近ごろ、つまり明治以後の経験ですから、アジア・アフリカ、いろんな遅れたところと努力できる立場にあると思う。 桑原 話がわかるところがあるはずですね。 堀田 それが西欧と違うわれわれの積極面だと思うんです。例えば日本はヨーロッパ地域であるというのに近い議論が先頃はやりましたけれど、その基本的な違いというのは無視されて、パラレルであるという点だけが唱えられるのは、あれはやっぱり人をあやまらせ、唱える人をもあやまらせる考えだと思うな。それでまあヨーロッパはね、心からの協力ができにくい立場であっても、現状を維持して行くためには、ヨーロッパはよりヨーロッパ的であるよりほかはないので、だからヨーロッパは、これからも非常な努力を続けて、やっぱり文明というものをどんどん発達させて行くだろうと思います。だから、今度の旅で私は、なるほど、死にたくないだけでは決してないということは、どすんとわかりました。 桑原 梅棹君がああいう説を出したということは、日本というものを大変文化的な後進国と見たがる思想が日本にあるわけですね。主として、西洋の学問をしたり西洋で知的な生活をして来た人は、日本は何もかも後進的だと思いたくなる。そういう考えは一度打破しなければいけない。そういう意味で梅棹君のやった仕事というのは大変意味があると思うんですよ。しかし日本がヨーロッパと当たるということでは、もちろんないわけですね。日本が西洋を大変よく理解できる立場にあることも事実だが、しかし同時に、明治維新まではアジア諸国とあまり変らぬ生活をしていたんだからね。ですから自分たちが急ごしらえでやって来たということは、急ごしらえをしようという人の心理はよくわかるわけですからね。それはよくわかるし、もっとわからなければいけないんじゃないかと思う。 堀田 急ごしらえも大事だ、しかし、そろそろ急ごしらえでいい時期が終るということを、つまり日本のインテリ全体が確認できればいいと思いますね。そして急ごしらえの時期は終ったんであって、だから今度は、未来の日本のイメージというものを、何とかつまり日本のインテリ全体が、全力をあげて、これから形成して行くべき時に入るんだと思います。そういう時に一つの、たった一つの判断の基礎、たとえばヨーロッパ、ヨーロッパといってそれで行ければまあ、結局ラクですよ。しかしそいつは、それもやっぱり急ごしらえ用のものであってね、これからそれだけでもって妥当するものではないと思うんですね。何とも整理がつかないというつらさに我慢して行く、我慢力がこれから必要だと思うんだ。 桑原 日本の急ごしらえが終ったかどうかということについては、疑問があるんですがね。まだ急ごしらえを余儀なくされることが、恐らくあるんじゃないかと思いますね。しかし日本の未来のイメージを考えるということは、堀田さんの意見と同感だな。それを考えるのがインテリの任務だと思う。討論してできるようなものではないけれど、それを描き出すという心構えがなければ、だめですね。今何かこのままでいいような気になってしまっているけど、それはもたないな。日本の置かれている地理的な地位とか、資源とかね、人口の多さとか、いろんな日本社会を形成している諸要素を考えれば入れて、日本的革命の方式――誤解を招くならば革新といってもいいですよ――それを考えることが大切ですね。 堀田 ぼくはただの小説家で本当は自分の小説の登場人物の衣食住とか、だれと恋愛してとか、そういうふうなことだけを考えていたいわけですけどね。しかしそういうことの全基礎に、今まで話したような問題が入って来ているわけですから、だからやりきれんなァとよく思うんですけれども、そういうことも考えざるを得ないんでね。考えざるを得ないというよりも、そういうことから、登場人物の衣食住やら恋愛やら何やらが、面倒ないい方をすれば、基本的に規定されてくるという気持ちがしますね。 編集部 ただいままで何かこういうようなヴィジョンがあるからこれこれに反対だということは、あまり出なかったようですが。 堀田 ある人にとっては、ヴィジョンがあったからいろいろと反対をして来た、またある人にとっては反対をしてみてはじめて、これこれしかじかのヴィジョンが必要であるという第一段階に達した。だから、反対ばかりしているというのは、つまり反対の先にどういうものがうまれ、どういうヴィジョンがうまれ得るかと、そこのところまで考えている人が反対論者であればいいけれどそうでもなかったということが、ある種の弱さの表現でもありました。しかしもし日本のインテリの大部分が今まで表現出来なかったものについて、もし全部ウノミにして来ていたら、どういう現在と未来が生じていたか、いるか、これは考えてみればわかると思う。 桑原 もっといろんな考えが、日本に出て来なければいけないと思うんですけどね。書いたり、しゃべったりする専門家みたいな人、これは分化した社会では当然でてくるものだが、何かの問題があって、それについての意見というのが、いわゆる思想業者・文筆業者にかたよりすぎていると思いますね。問題があった時に、大会社の社長の意見とか、サラリーマンの意見とか、技術者の意見とかがもっと出て来なければいけないと思うんですがね。(おわり)