2026/01/16号 5面

歴史学は世界を変えることができるか

歴史学は世界を変えることができるか 松沢 裕作著 白石 純太郎 文芸評論家・エッセイストとして活動している中で、歴史学というアカデミズムの世界に足を踏み入れることは、あまりない。しかし、「最後の文芸評論家」福田和也が、多くの歴史評伝を書いたことからもわかるように、文芸と歴史というのは近い位置にある。福田の言葉を借りれば文を扱う以上、それは日本語を扱うという作業になる。それゆえ、文士は歴史への視座を失ってしまえば、根無草になってしまうと言うのだ。全く首肯すべき理論である。  本書でも引用されている、文芸評論家というカテゴリーでは把握できない偉大な文筆家、ヴァルター・ベンヤミンの『歴史の概念について』と言う本を見よう。パウル・クレーの描く天使は、現在の破局を大きな目でじっと見つめている。しかし、進歩と名付けられる強風が彼を襲う。そして時代という荒波の中に、天使は埋もれてしまう。もう一つ、本書で挙げられているE・H・カーの『歴史とは何か』を引用するのも良いかもしれない。歴史とは、現在と過去との対話であり、過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになる。また現在は過去の光に照らされて初めて十分理解できるようになる。人の現在の社会に対する制御力を増やせるようにすること、これが歴史学の二重の働きである。これがカーの考えたことである。  ベンヤミンもカーも、危機の時代にあって歴史にその理由と解決策を見ようと努力した。そして、果たして私たちが今生きている時代が、危機の時代でないと誰がいうことができるであろうか。本書は、その時代精神を汲み取り、歴史学の役割を照射する一冊である。  本書は、論文と講演の二本柱で構成されている。まず、本書の基調テーマは「立方体の外」に出ることである。私たちの社会が液体に浸された立方体のようなものであるとしよう。歴史家は、その外に立って語ることはできない。私たちはすべからく、立方体の中の住人なのだから。しかし、であるからこそ、立方体の外について考え、外からの視点を仮構することによって、内側の抑圧の構造をまざまざと見ることが可能になる。立方体の外を夢見ること。それは、歴史学の新たなかつ根源的な視点である。と同時に歴史学のアクチュアリティは、言葉を用いた他者への話しかけでもあると著者は言う。他者の言葉への傾聴。それは外に向かって開かれた言葉だ。であるから、歴史学を、著者は自分の人生における立場と、相互に密接に媒介しあったものと位置付ける。誠実な立場である。  そうして著者は、平成という時代を近代における天皇生前退位、上皇誕生という異例の事態と見て、「ポスト平成」という言葉を出し、より長い期間を眺めることによって、平成という時代への判断の可能性を示唆する。自明の時代区分が共有される時代は終わったのだ。しかし、そこから別様の可能性を見ない限り、人間が織りなす関係は崩れてしまう。「近代的」という言葉は、もはや明確ではなく、「連続」と「断絶」を語ることはますます困難になる。それを問うときに、目下問われることはその基準そのものなのではないか、と著者は課題を提示する。  明治期の地方制度を研究テーマとして著者は、近代日本がいかに成立したかについて論を進める。そこで面白いのが「戊辰戦後デモクラシー」という考えを提唱したところにある。戊辰戦争であらゆる身分の人間が徴兵された結果、あらゆる戦後に共通したあり方として、参戦した自分たちの権利を認めろという話になる。そのエネルギーが自由民権運動を産んだに至るという新しい視座だ。と同時に、近代日本は「戦争・立身・ジェンダー」によって展開してきたと見る。戊辰戦争・日清、日露戦争を経た近代日本は、まさに幕末の草莽の人々を思い起こさせるかのように、『坂の上の雲』を目指して立身出世を夢見た。一方、女性におけるそれは、男性と非対称的であった。それは現在も変わらないであろう。それは、現代日本が抱える共通の問題系であることは間違えない。  近代日本の在り方から、過去の多数の実践を、私たちの現実や私たちの願望を想起させ、私たちの現実を組み替えていく、新しい実践へと繫げる可能性を歴史学から見ていくこと。著者は、私たちの今生きている世界には、不条理な抑圧が存在するという。ジェンダー、エスニシティ、戦争、景気変動。私たちの力ではどうすることもできないが、そこに絡め取られてしまうのが不条理の意味である。そのような現状の中で、歴史学こそが世界を変えることを目的にしなければならないと著者は強弁する。抑圧の構造を歴史的に分析して、いかに新自由主義的な不条理な抑圧が、生まれたか。そして、抑圧に抗する実践の水準とは何か。この本を読み終えたとき、歴史学は世界を変えうるか?という問いに対し、読者は思うだろう。イエス!と。(しらいし・じゅんたろう=文芸評論家)  ★まつざわ・ゆうさく=慶應義塾大学教授・日本近代史・史学史。著書に『町村合併から生まれた日本近代』『生きづらい明治社会』『歴史学はこう考える』など。一九七六年生。

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