滅びゆく惑星で 第23回
増田俊也
若い頃、髪と髭でずいぶんままならぬ思いをした。髪が多すぎて剛毛で、鳥の巣のようにてっぺんが立ってしまう。髭は真っ黒なのが気に入らなかった。伸ばすと泥棒みたいなのである。だから髪は短く刈り、髭は剃るしか、選択肢がなかった。自分の意思で型を選んでいるつもりが、じつは身体のほうに選ばされていたのだ。
ところが近ごろ、まるで反対の悩みになってきた。髪量が減り、白髪が増えてきた。髭も白くなってきた。一時期、髪も髭も伸ばしていたのだが、数学者の秋山仁先生の偽物みたいになったのでやめた。かといって若い頃のような短髪にすると、老齢のヒグマのようになってしまう。どう刈っても、どう伸ばしても、いまひとつ決まらない。若いときとは逆の意味で、やはり身体に選ばされている。
十代のころ読んだ極真空手の大山倍達先生の本を思い出す。若き日の大山先生が、年輩の政治家に叱られる場面があった。「君は若いのに老成しすぎている。若者には若者らしさが、老人には老人らしさが必要だ」。読んだときは、正直よく意味がわからなかった。早く大人びることは、むしろ褒められるべきことだと思っていた。
だが六十代になったいま、あの言葉の意味がようやくわかる。つまり人間には、その齢にふさわしい姿かたちというものがあり、それを無理に先取りしたり、逆にいつまでも引きずったりするのは、どこか不自然で、見ている者を落ち着かなくさせる、ということなのだ。若者が老人のように枯れた顔をしているのも、老人が若者のように力んでいるのも、同じ居心地の悪さを人に与える。年相応というのは、古くさい道徳のようでいて、じつは生き物としての自然に近いことだったのである。
髪と髭は、その不自然さが最も正直に出てしまう場所なのだろう。若い私の黒々とした剛毛は、どう刈り込んでも、暑苦しいほどの生命の過剰を隠せなかった。いまの私の髪や髭は、どう伸ばしても、忍び寄る衰えを取り繕えない。髪というものは、その齢に持たされたものを、否応なく頭の上に掲げてしまう。隠そうとした分だけ、かえって齢が露わになる。
結局、人は自分の齢を、そうそう裏切れないようにできている。若いうちは若さが、年老いては老いが、本人の意思とは関わりなく、身体の表面に滲み出てくる。それに逆らおうとすればするほど、偽物めいて、滑稽になっていく。
ならば、せめて逆らうのはやめようと思う。老齢のヒグマで結構ではないか。若い頃、ほとばしる筋肉と汗を持て余したように、いまはこの冬枯れの身体を素直に抱いて歩くまでである。それが若き日の大山先生が政治家に言われた「君は若いのに老成しすぎている」なのだと、この齢になってようやく腑に落ちている。(ますだ・としなり=小説家)
