2026/02/13号 5面

沈黙をあなたに

沈黙をあなたに マリオ・バルガス=リョサ著 立林 良一  本作は昨年四月に八十九歳で亡くなったペルーのノーベル賞作家、マリオ・バルガス=リョサが二〇二三年に刊行した彼の二十作目にして最後の長篇小説である。  物語はトーニョ・アスピルクエータを主人公として語られていく。征服者であるスペイン人がもたらしたヨーロッパの音楽をベースに、アフリカ系からの影響が加わって独自の発展をとげたバルス・ぺルアーノに代表されるクリオーリョ音楽は、ペルーの国民音楽ともいえるもので、トーニョはその分野で右に出るものはいない専門家と目されている。その彼がある晩足を運んだ演奏会で、それまでまったく耳にしたことのなかったラロ・モルフィーノという名のギタリストの演奏を聴き、他の聴衆とともに魂を揺さぶられるような感動に声を奪われた。音楽の力によって聴衆の心をひとつに結び合わせた、この無名の天才的ギタリストの名を広く世に知らしめたいと専門誌に絶賛する記事を書いたのだが、その数カ月後、思いもかけずラロが死んだと知らされ言葉を失ってしまう。  この全三十七章からなる長篇は、ラロの名を後世に残さねばならないという思いに駆られたトーニョが、彼についての本を書くための調査を進めていく過程を描いた奇数章と、その本の内容が記された偶数章が交互しながら進んでいく。当初はラロという人物が本の主題になるはずであったが、調査を進めていくうちに、ペルーにおいてクリオーリョ音楽が持つ国民音楽としての重要性を明らかにすることに重点が移り、様々な要素を取り込んで内容がふくらんでいく。  調査によってペルー北部の地方都市チクラーヨ近郊でのラロの驚くべき出自とその後の幼年時代が、他者とうまく関係を持てない彼の性格を形成したことが明らかになるが、その彼がギターで演奏したバルス・ぺルアーノがあらゆる階層の人々の心をわしづかみにしたことから、トーニョはバルス・ぺルアーノこそがすべてのペルー国民の心をひとつに結びつける力を持つと確信するにいたる。『ラロ・モルフィーノと静かなる革命』という著書のタイトルには、貧民階級の中から生まれながら中流から貴族階級にまで広がっていったバルス・ぺルアーノこそが、様々な人種、階層に分断されたペルー社会をひとつに統合する革命的力を持つのだというトーニョの思いが込められている。  家庭生活を犠牲にして執筆に没頭し、何度も書き直しを重ねた末にようやく完成した原稿は、小さな書店主が出版を引き受けてくれることになった。初版二千部は、一方で大風呂敷を広げたトンデモ本との評価を受けながらも完売し、批判を封じるべく増補した二刷り四千部は大成功を収めて、トーニョはサン・マルコス大学の「ペルー事情」講座の教授に迎えられるまでになる。しかし彼はそれに満足せず、何かにとりつかれたように著書の改訂に取り組み、大幅に加筆された第三版が世に出ると、彼の運命は再び変転することになるのだ。  この小説の時代背景となる一九九〇年代、大統領選挙でフジモリに敗れたバルガス=リョサはスペイン国籍を取得し、祖国とは距離を置いていた。この最後の長篇も二〇二二年にスペインで第一稿を書き終えたと述べている。ヨーロッパでの生活が長くなりながらも、この小説を通して見えてくるのは、幼い頃から耳にしていたバルス・ぺルアーノを始めとするクリオーリョ音楽に感性を揺さぶられずにはいられない、ペルー人としての彼の自己認識の再確認である。  若い頃、キューバ革命に共感し、戦いによって理想の社会を実現することこそが取るべき唯一の道と信じていた彼は、カストロ政権が独裁化するのを目にして、大きく方向転換することになる。バルス・ぺルアーノが革命を起こすと信じて著作を際限なくバージョンアップしていこうとするトーニョの滑稽ともいえる姿からは、一つの価値観を無批判に絶対視することの危うさを読み取ることができる。  タイトルの「沈黙をあなたに」は、作中でラロが、想いを寄せるセシリアとの別れ際に発した言葉「僕の沈黙をあなたに差し上げる」から来ているが、一九六〇年代に始まる世界的ラテンアメリカ文学〈ブーム〉の代表作家として、長年にわたって数多くの作品で私たち読者を楽しませてくれたバルガス=リョサからの最後のメッセージのようにも感じられる。この小説の後にどこまでも続く沈黙を、彼の冥福を祈って静かに受けとめたい。(柳原孝敦訳)(たてばやし・りょういち=同志社大学講師・ラテンアメリカ文学)  ★マリオ・バルガス=リョサ(一九三六―二〇二五)=ペルーのアレキパ生まれの作家。二〇一〇年ノーベル文学賞を受賞。著書に『緑の家』『世界終末戦争』『密林の語り部』『楽園への道』『ケルト人の夢』『激動の時代』など。

書籍

書籍名 沈黙をあなたに
ISBN13 9784087735321
ISBN10 408773532X