2026/10/09号 8面

映画時評・10月(伊藤洋司)

映画時評 10月 伊藤洋司 ソフィー・ロムヴァリ『Blue Heron/ブルーヘロン』  映画の冒頭で、大人になったサーシャが語る。「私は幼少期をあまり覚えていない。断片的に蘇る記憶も信用できるのか怪しい」そうして彼女は歳の離れた兄について語り出す。時間の表現が混乱し始める。大人のサーシャが語る声に八歳のサーシャの笑い声が重なる。カメラが捉えるカナダのバンクーバー島の眺めは大人のサーシャが見たもののようでいて、いつの間にか一九九〇年代の島の眺めに変わっている。これは単なる回想の導入ではない。サーシャは映画監督として自分の幼少期に関する映画を撮っているのだ。ソフィー・ロムヴァリの『Blue Heron/ブルーヘロン』の終盤で現在と過去がより露骨に混ざり合う時、観客は語りの形式を適切に把握するだろう。  物語に関して、『Blue Heron』はカンドゥンの『リンカリンカ~あの夏の先』とよく似ている。どちらも、女性の映画監督が幼少期のつらい経験を自ら映画にする物語を語っている。二人とも撮影によって心の傷を乗り越えようとしており、その過程で記憶の曖昧さに直面する。一見、幼少期の場面は回想のようでいて、実はそんなに単純な語りでないことが、映画が進むと明らかになることまで同じだ。ただし、『リンカリンカ』では、過去の事実と記憶のずれを認識するまでの過程が主に問われ、『Blue Heron』ではこのずれが出発点となる。映画の冒頭でサーシャが記憶の不完全性について語るのがその証しだ。サーシャは映画を撮ることで、兄に関する記憶を積極的に解釈し直す。その過程が重要なのだ。  映画のなかで一番重視される出来事は、実は兄の様々な問題行動ではなく、兄をよそに預ける結果となる社会福祉局の女性の家庭訪問である。彼女は任意養育委託を勧め、母親は反発するものの最後には受け入れる。サーシャはテレビを見ていたが、気になって両親とその女性の会話をドア越しに盗み聞きする。その内容を理解できた訳ではないが、深刻さには気づいた筈だ。だからこそ、その記憶は少女にとりついたのだ。家族のもとから離れた結果、兄がどうなったか、映画は直接的には語らない。事実がどうだったかは重要ではないし、サーシャ自身も正確には分からない。重要なのは、大人になった彼女が映画を撮ることでこの記憶と決着をつけることだ。  母親が電話で誰かに任意養育委託を決断したと話している。庭で遊ぶサーシャにその声は届く由もない。あおり気味に逆光で捉えられたサーシャのクロースアップが素晴らしい。すると、時間が突然現在に飛び、大人になったサーシャがスマホの電話で母親と話をしている。まるで彼女が若き日の母親の電話の話し相手であるかのような編集だ。サーシャはその後、専門家を集め、カメラを回しつつ彼らの話を聞く。そのなかの一人の男性が、任意養育委託は有効なこともあれば問題を起こすこともあり、見極めは難しいと語る。そして再び、社会福祉局の家庭訪問の場面が描かれる。ただし、内容が変化している。例えば、一度目では八歳のサーシャはテレビでカバのドキュメンタリーを見ていたが、今回は何やら子供向けの番組を見ている。もっと大きな違いはここでは明かせない。だが重要なのは、映画撮影によるこうした積極的な記憶の再解釈によって、サーシャが過去の自分と、そして結局は自分自身と和解していることである。  今月は他に、『八つ墓村』『ハート・オブ・ビースト』などが面白かった。また未公開だが、ソフィー・ロムヴァリの短篇『まだ処理中』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)