わが点鬼簿
新連載 〝点鬼簿〟としての回想録
四方田犬彦
年をとるとはどのようなことか。
ボーヴォアールは『老い』のなかで、「知的労働者は他の職域の者に比べて生理的凋落によってそれほど邪魔されない。」と、うれしいことをいってくれちゃってるが、彼女がこう書いたのは62歳のときだ。今のわたしよりも11歳若い。本当にそうだろうかとわたしは思う。年齢を重ねていくと、机に向かったときの基礎体力が落ちていることが如実にわかる。でもしっかりと書かなければならない。だから書き続けるためにはやっぱり理論が必要だとわかる。
若い頃にはよく切れるナイフさえあれば何でも切れると妄信して、世界最強の理論は何なのかと一生懸命探し回ったものだった。だがそんなものはどこにもない。理論の渉猟よりも現実に目の前にある対象の方がはるかに面白いと知った。そう思って蔑ろにしてきた理論をもう一度手元に手繰り寄せようとしているのが、現在のわたしである。昔とった杵柄か。それとも紺屋の白袴か。
わたしはこれから回想録を書こうと思う。
回想録は自伝とは違う。自伝というのはだいたい昔から相場が決まっている。売春婦を母親に持った自分の出自を述べたり、全寮制寄宿舎の寝台で神様と格闘したり、相次ぐ失恋とその克服の物語を記したりすることだ。回想録の対象はもっぱら生きている間に出遭った人たちの印象であり、彼らの興味深い挿話である。ということは、徹底して世俗の他人についての物語である。
回想録は告白とも違う。アウグスティヌスのように、子供の頃、近くの畑でスイカを盗んでしまって神様ごめんなさいということをこまごまと書くことではない。回想録とはより社会的なものであって、生涯にわたって隠し通してきた秘密とやらを、超越的な神様や女神様に向かって懺悔するなどと心得違いを起こしてはいけない。
それでは回想録とはセレブの人たちとの出会いを、いささか得意げに記すことなのだろうか。わたしだってジャッキー・チェンとスキヤキを食べたこともあるし、美智子上皇妃に留学先の大学を案内したこともあるゾ……などということを自慢して書けば、なるほど回想録として面白いと褒められるかもしれない。フランク・ハリスとか、日本の大学の先生の回想録には、有名人の名前をズラリと並べて、どうだい、俺はこれほど偉いんだよと得意げに語る面々もいるだろう。でもそれって手持ちの歩が金に化けるようなもので、なんだか滑稽だよね。
では回想録というのは、どんな風に書けばいいのだろう。
「私は」「私は」「私だったら」と、一人称単数の洪水に見舞われて、たちまち書くのが嫌になってしまったスタンダール。人生の輪郭がようやく摑める年齢になったと思ったら、もう持ち時間がわずかになってしまったといってメソメソしてしまうシャトーブリアン。人に笑われようがどうでもいい、ともかく俺は時代の流行というやつを、何から何までやってのけたぜと啖呵をきるマキシム・デュカン。
これからわたしが書くことになる回想は、おそらく点鬼簿となるだろう。自分が遭ったことのある人で、すでに泉下に移られた人たちについて書くつもりだ。
小林秀雄が書いているように、生者ほどやっかいなものはない。生きている人間は、これからも何をし出すかわからないからだ。だから死んだ人についてだけ書こうと思う。生きている者は不定形だが、死んだ者は生の輪郭がはっきりしているように見えるからだ。
乞う、ご期待!(よもた・いぬひこ=映画誌・比較文学研究家)
