水上 文インタビュー
(聞き手=堀川 夢)
<クィアの経験を「言葉」にすること>
『クィアのカナダ旅行記』(柏書房)刊行を機に
わたしたちはここにいる、わたしたちはクィアだ――でも、どうしたら伝わるだろう?
文筆家の水上文さんが『クィアのカナダ旅行記』(柏書房)を上梓した。日本で生きるクィアの一人として、二度のカナダ滞在を通じて考えたことを綴った水上さん初のエッセイ集である。刊行を機に、ライターの堀川夢さんに聞き手をお願いし、水上さんにお話を伺った。 (編集部)
堀川 初の単著の刊行、おめでとうございます。本書はカナダへの旅行記であり、水上さん個人の体験記でもあります。最初に、企画背景についてお伺いします。
水上 この本は2部構成で、第1部では初めてカナダ・トロントを訪れた2023年6月の滞在を、第2部では2024年4月のカナダ再訪の記録をまとめています。第1部は2023年11月の東京文学フリマで出したZINEがベースになっていて、そのZINEを担当編集さんが買ってくれたんです。そのことを覚えていたので、再訪する前にZINEの続きのようなものが書けるかもしれないと連絡したところ、書籍化のご提案をいただきました。
2023年に初めてカナダを訪れた際は、北米最大規模のプライド・パレード「トロント・プライド」に参加することが目的でした。カナダのプライド月間を体験したいとも思ってました。詳しくは本書の「プロローグ」に書いていますが、LGBT理解増進法が成立した2023年6月前後の日本は、本当に酷い状態だった。そのため、約20年前に同性婚ができるようになり、LGBTQの権利保障や法整備が日本よりもずっと進んでいるカナダの社会を自分の目で確かめたかったんです。日本で生きるクィアの一人として、日本とカナダの違いを知りたいと考えていました。
2024年4月にカナダを再訪したのは、カナダに住んでいる日本人で、ノンバイナリーでトランスマスクのパートナーであるタマに会うためでした。私達は国際遠距離クィアカップルなんです。タマとウィニペグに行ったり、カップルセラピーを受けたり、パレスチナ連帯キャンプを訪ねたりしました。その中で考えたことを言葉にするうちに、自然と思い浮かんできた過去の話や経験を織り交ぜて記しています。
堀川 本の中でも何度か言及されているように、まさに「個人的なことは政治的で、政治的なことは個人的である」を体現した一冊だと思います。そのため素敵な旅の記録でもあって、バーやブリュワリー、ビールの描写がとても魅力的でした。カナダのクィアが集まる飲み屋と、日本の新宿二丁目などクィアが集まる場には、どんな共通点や違いがあるのでしょうか。
水上 私がカナダで訪れたバーやブリュワリーは、特にクィア向けの場所というわけではありませんでした。誰でも行けるごく普通の場所に、クィアもいる。それは、カナダではクィアが「いる」ことが日本よりも前提として共有されているためだと思います。
対して日本では、クィアが自分を隠さず、日常の中で安心して過ごせる場所は限られている。そのため、新宿二丁目のような場所が存在する必要があります。日本において、自分のセクシャリティをオープンにして日常生活を過ごせているクィアは極わずかです。普段、見える形で過ごせないからこそ、二丁目のような、自分が自分として存在できる場所や仲間と出会える空間を切実に必要としている。それは前提となっている社会の違いであって、与えられた条件の中で、どうサバイブするかという問題だと思います。
堀川 水上さんの文章は非常にバランス感覚に優れている印象があります。ニュートラルに書こうとしても、書き手の視点や立場はどうしても出てしまうものだと思いますが、水上さんは本書でも、何かを過剰に称賛したり強く批判したりしません。執筆にあたって、意識していたことはありますか。
水上 理想化しすぎないことですかね。カナダには学べる点がたくさんあるけれど、理想郷ではありません。パートナーであるタマから、移民として暮らす中で人種差別を受けた話も聞いている。理想的な面ばかり描いてしまうと、その社会で大変な思いをしている人……たとえば人種差別にあっている人や、不当な扱いを受けている先住民の苦しみ、抑圧が見えなくなってしまう。そういう語り口にはしたくないと思っていました。
また、海外の話をするとき、日本は遅れていると語られがちです。実際、法整備などカナダを見習うべき部分は様々にあると思いますが、日本でもクィアの権利保障のために闘ってきた人たちがいることを軽んじたくない。私がこうして本を出したり話したりできるのは、上の世代の積み重ねがあるからです。序盤ではカナダの「先進性」に驚く描写が多いですが、旅を通じて改めて日本のこれまでの蓄積に気づかされていく過程が含まれるのも、この本の面白さのひとつだと思います。
堀川 本書は、「言葉」の限界についてヴィヴィッドな視線があると感じました。普段メインで使っている言語以外に囲まれることで、水上さんは言語自体の通じなさだけでなく、使用する言葉の違いによって差異が浮き彫りになった経験、「日本文学」の範囲などを想起していきます。
同時に、同じ経験を共有していないことによる孤立感や差異も強く感じている。水上さんはクィアのパーティーやタマさんと受けたカップルセラピーをめぐって、それぞれのコミュニケーションスタイルに由来するすれ違いを実感し、「体験を共有しない感覚」を分析しています。
水上 カップルセラピーでは、自分が「日本の女性」、それも女性らしい外見の女性として生きてきたことがいかに様々な場面で影響しているか、気づかされることになりました。
セラピストいわく、私のコミュニケーションスタイルは「文脈依存的で感情を重視している」そうです。自分自身を周囲に合わせながらコミュニケーションする。これは、日本で女性として生きるうえで自然に身についた生き抜く術でもある、と。私はクィアではあるけれど、外見的には「女性らしい女性」で、どこに行っても外見的な理由でその場から浮くことはありません。それでも、子どもの頃からちょっと変わった人という扱いを受けることが多かったので、いわゆる「女の子らしい女の子」のステレオタイプには自分は当てはまらないと思っていたんですね。でも、私のコミュニケーションスタイルには、無意識のうちに「日本で生きてきた女性」としての価値観が反映されていた。セラピストやパートナーから指摘されて、驚くとともに納得もしました。
一方のタマは、カナダ社会でアジア人の移民として生きているうえに、ノンバイナリーでトランスマスクであり、私とは社会的扱われ方に関して、かなり異なった経験をしています。当然、私とはサバイバル方法も違っていて、だから譲れない部分も異なるし、コミュニケーションがうまくいかない時もある。同じ「クィア」でもジェンダー表現やアイデンティティ、社会的扱われ方の違いによってどれほど異なるのか、ということが描かれているのも、興味深いところだと思うので、ぜひ注目して読んでもらえればと思います。
堀川 「違い」については、カナダのトランス・マーチに参加した水上さんの次の記述も心に残りました。「人種、民族、経済階層など、さまざまな「違い」は、時に痛みを伴う不協和音になりうる。それでも見て見ぬふりをせず、「違い」に踏みとどまるのだ、という明確な意思を感じる」(33~34頁)。
また、本書を読むと、カナダと日本のデモは雰囲気がまったく違う印象を受けました。道幅や広場、参加人数の違い以上に、カナダのデモには開けた空間があるように感じます。どうしたらカナダのような「開けた空間」としてのデモを、日本や身近なコミュニティでつくれるでしょうか。
水上 以前私がデモでスピーチした時、そのスピーチがライブ配信されていて、タマも見てくれていたのですが、指摘されたのは「コールが下手」だということ(笑)。確かに、私も含めて、日本のデモではコールやアジテーションがさほど得意ではない人も多いと思います。カナダのデモに参加した時は、スピーカーのアジテーションの上手さに驚かされました。
また、日本のデモに参加していると、時に英語のコールが多すぎると感じることがあります。その場にいる英語話者への配慮や、グローバルな連帯への意識は大切ですが、デモは示威行為ですから、問題意識を共有しない人たちに届けなければいけません。日本には日本語話者がやはり大多数ですし、もっと日本語で上手くコールする方法を練習したいなと個人的に思っています。これはタマのアイデアですが、効果的なコール&レスポンスの言葉を考えたり、練習したりするワークショップなんかが出来るといいな、と。
堀川 この本で一番印象に残ったのが、パレスチナに関しての文章でした。散歩に出かけた公園で、イスラム組織ハマスによってイスラエルから誘拐された人質の解放を求める顔写真ポスターがあちこちに貼られているのを見かけた水上さんは、「FREE PALESTINE」のピンバッジをトートバッグにつけていることに、落ち着かない気分になったと書かれています。
私は昨年ドイツに滞在していたのですが、その間は「FREE PALESTINE」のワッペンを外して過ごしました。自分では変えられない外見や目に見える特徴が理由で、他者が脅威に思えてしまう。そういう恐怖を日々味わう人がいると頭では理解しているつもりでいましたが、初めて、その怖さを身をもって感じました。でも、私の恐怖はパレスチナの人々やより強い形で連帯している人が味わっているものと比べるとちっぽけで、安全圏にいる特権性を突きつけられるようでもありました。
水上 カナダは歴史的にもイスラエルと関係の深い国です。とはいえパレスチナに連帯するデモは、日本より大きな規模で存在している。ドイツのように、親パレスチナの立場をとること自体が強い抑圧に繫がる状況とはまた違うので、日本とは違った緊張感を感じつつも、私はカナダでもピンバッジをつけて過ごしていました。でも、たとえドイツに行ったとしてもつけたまま過ごすかと聞かれると、現時点でははっきり答えられません。
マジョリティに近い立場にいる人が安全性を犠牲にしてでもリスクを取るべきかという問いに対する、「正しい」唯一の回答はないように思います。リスクを冒してでも行動すべき時は確かにあるし、そう判断して動く人たちの存在は本当に大切です。ただ、どんなに強い思いがあってもリスクを取れない人もいる。特に身体的な安全が脅かされるような場面……たとえばバッジをつけることで、路上での暴力の対象になるかもしれない状況では、リスクを取らない選択を責められるべきではない。
社会運動においてはリスクを取ることが称賛されたり、重要視されることはたくさんあります。でも、それは常にその人自身が判断するべきことであって、他者が強要することはできません。ひとつの答えを出すよりも、立場も属性も異なる様々な人が各々の状況を抱えながら参加している、その事実を重視するべきではないかと思っています。
堀川 クィアの個人的な体験が社会的なことと接続する。そうした本が世の中に増えるのは大変嬉しいと、改めて感じました。一方で、SNSをはじめとした最近の言論空間では、「賞賛するか、意見が合わなければキャンセルする」といった二極化が進んでいます。自分とは違う意見だからと切り捨てたり、個人的な経験であっても批判の対象になることがある。書籍を刊行するにあたって、このあたりの葛藤やご苦労があったのではと推察します。
水上 本来、言葉には常に文脈が存在します。その人の生きてきた環境や経験があり、だからこそ出てくる言葉がある。ただSNSではあらゆる文脈が落とされてしまう。そして敵味方の分断ばかりが進んでしまうことの問題を、私自身日々感じています。
けれども、切り捨て方式は、特に数の少ないマイノリティの運動にとってはあまり有効な戦略ではないと思います。性的マイノリティは全体でも人口の約8%で、特にトランスジェンダーの人たちに限ると、約0.3%程度しかいません。言い換えれば、クィアが性的マジョリティと関わることなく日常を送るのは不可能なんです。批判は重要ですが、同時に、なるべく理解してくれる人を増やさなければ、当事者の危険性を高めるばかりになってしまう。だからこそ、私は本のように、時間をかけて向き合わなければならないメディアの重要性が一層増していると思います。
クィアについてのテーマに関心を持たない人や拒絶している人はたくさんいて、そうした人たちに届く言葉がどんどん減っているのは事実です。私自身、書いていて無力感を覚えることも多い。それでも私は、言葉として残ることには、大きな意味があると信じています。今この瞬間には届かなくても、文字として残っていれば、30年後や40年後になって響くかもしれない。現在の世界がどれほど絶望的な状態でも、今すぐではない届き方がありうるというところに、本や文章の可能性がある。だからこそ私は書き続けたいし、後世に残る本を出していきたいです。
堀川 ありがとうございます。最後に、次にカナダに行った時に訪れたい場所や体験したいこと、あるいは考えたいことなどがあればぜひ、お聞きしたいです。
水上 実は、6月終わりからまた行く予定なんです。今回は2ヶ月ほど滞在する予定で。今までの滞在は数週間だったので、本も基本的には観光客としての目線で書いています。2ヶ月も十分な期間ではないけれど、今回は観光客とはまた違った視点や距離感で、カナダと関わりたいと考えています。
プライド月間はもうすぐ終わってしまいますが、トランス・マーチやダイク・マーチ、プライド関連のイベントには参加する予定です。それから、クィア向けの集まりにも足を運んでみたい。この本を書いた時よりも、カナダのクィアカルチャーにもう一歩深く入っていきたいというのが、今回の目標ですね。 (おわり)
★みずかみ・あや=文筆家。主な関心の対象は近現代文学とクィア・フェミニズム批評。企画・編著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』など。一九九二年生。
★ほりかわ・ゆめ=編集者・翻訳者・ライター。
書籍
書籍名 | クィアのカナダ旅行記 |
ISBN13 | 9784760156313 |
ISBN10 | 4760156313 |