キャロル・ギリガン インタビュー(聞き手=川本隆史・山辺恵理子・米典子)
<不逞不遜で大胆な《声》>
京都賞受賞・『人間の声で』(風行社)刊行を記念して
アメリカの心理学者キャロル・ギリガンの問題作『もうひとつの声で』(風行社)の新訳に携わったトリオ(山辺恵理子さん、米典子さんと川本隆史)でもって、新著『人間の声で』(風行社)共訳の仕上げにかかっていた二〇二五年六月二〇日、第四〇回京都賞(「思想・芸術部門」)が彼女に授与されるとの第一報が届く。稲盛財団が運営する同賞ホームページには、授賞の理由説明がいち早く告知されていた――「人びとの関係性を重視する「ケア」の観点を女性の道徳観として劣位に置く従来の心理学理論が、人格形成のモデルを狭隘にしている点を批判し、「正義の倫理」と「ケアの倫理」との編み合わせを展望することで、ケアに関わるグローバルな課題に取り組む新たな学問的基礎を築いた」云々。
一一月一〇日の授賞式(国立京都国際会館)に招待された私たちは、祝賀パーティの会場において刷り上がったばかりの『人間の声で』を当人に手渡ししている。嬉しいことに、翌日の受賞記念講演「飛び込んで聴く」(The Audacity of Listening)は、同書のキーワードの《audacity》の訳語をめぐる著者と訳者との意見交換から説き起こされ、スピーチの結語でもこれに言及くださった。そんな心配り(=ケア!)に励まされた私たちは、本紙編集部の春日亮さんの要請を受けて、京都賞受賞および訳書の反響の広がりを見据えた著者インタビューを企画する。キャロルさんの受諾と日程調整を経ての本年三月六日、Zoomを介した面談(日本時間午前八時より二時間)が実現したのである。
以下にその記録を公開する。事前に訳者三名で練り上げた質問事項と回答とを基軸としながらも、相前後する当人の関連発言や引用・情報を適宜織り込むなど、大幅な再構成を施している。基本的には三名の《声》を合わせた問いかけのかたちを採っているが、必要に応じて質問者の個人名も挙示した。なお文責はすべて川本が負うことをお断りしておく。(川本隆史)
――《声》を題名に掲げるキャロルさんの単著二冊を、三人力を合わせて日本語の世界に移すという栄を担いました。足かけ五年半にわたる私たちの協働作業は、苦労を補って余りある喜びを与えてくれました。訳書が上梓されてからは、予想以上の好評をもって日本の読書界に迎えられています。本日はニューヨーク、東京、広島をつないで互いの《声》を交換しながら、キャロルさんの真摯な探究と多彩な表現の世界へと踏み込んでいきたいと思います。
すでに何度も尋ねられた質問でしょうけど、今回の京都賞の選定にあたりご研究のどんなところが評価されたとお考えでしょうか。まずはそのあたりから語り始めてください。
ギリガン 京都賞を授与するにあたって選考委員会が評価くださったのは、私の研究の実践面への寄与と理論的手法との二つだと受けとめています。第一に、私たちの社会や文化が現在陥っている苦境を打開しグローバルな実践課題に立ち向かう際に、『もうひとつの声で』が首唱した「ケアの倫理」が貢献しうるとの見通しです。
第二に「ケアの倫理」の捉え返しが、《リスニング》(身を入れて聴くこと)、後ほど詳説する《ラディカル・リスニング》という手法の開発へとつながり、それを活用してこれまで女性や女子たちの《声》が誤って解釈され貶められてきた問題状況を正そうとしてきた、こうした努力も認めてもらえました。
――一番目のポイントについては、稲盛財団がまとめたキャロルさんの「業績」最終段落がこれを裏づけてくれましょう。すなわち「ギリガンの「ケアの倫理」の発想は、「主体の自律」や「原則の普遍性」などを中核概念とする西洋近代の倫理学に異議を申し立てるだけでなく、教育学、社会学、看護学、さらには社会政策といった諸分野の取り組みに新たな視点を持ち込むもので、女性の地位向上や高齢者や障害者の福祉といったグローバルな社会課題に対応するための新たな学問的基礎ともなった」との言明がそれです。
二つ目の《リスニング》の意義については、ご自分の学びの基本姿勢と問題意識の核心を端的に打ち明けられた『抵抗への参加』(晃洋書房)の序が手がかりとなるでしょう。「私は身を入れて聴くひとりの女性である(I am a woman who listens)。私の考究は《声》にかかわる複数の疑問から始まった。誰が誰に向かって声を発しているのか? どのような身体から語りだされているのか? どんな関係性の物語を述べ伝えているのか? どのような社会的・文化的な枠組みにおいて語られているのか?」とあります。
ギリガン その通りです。私の仕事の基盤・動機づけをなしているのは、《声》を会話の中に持ち込み、《ケア》という営みが意味するものを解き明かすことにほかなりません。皆さんが訳された『人間の声で』の献辞は、「会話の下に隠れる声に耳を傾けることを私に教えてくれたわが母、メイベル・カーマイネ・フリードマンの想い出に」向けられています。この文言も、私のモティベーションを表わすものと申せましょう。
――ユダヤ系移民の子として一九〇〇年に生まれたお母さまは、生来の芸術家肌でいらしたそうで、若くして文芸雑誌や室内装飾のお仕事に就かれたのち、大学に入り直して幼稚園や心理療法の現場で働かれました。ハンガリーから移住したユダヤ人を両親とする同い年の父上ウィリアム・エドワード・フリードマンさんも、苦学して弁護士資格を取得しておられます。そうしたご両親の一人娘のキャロルさんなのですが、三歳になる一九三九年の夏に母子そろって先進的な研修合宿へ参加されていますね。
ギリガン 母自身の職業上の関心からだったのか、子育ての指針を見つけようとする模索だったのか、もはやその真相は分かりません。いずれにせよ母メイベルは、精神分析家のクララ・トンプソンが主宰する研修会の場に私を連れて行ったのです。子どもを保育者に預けた親たちが精神分析や幼児の心理発達に関する手ほどきを受け、夜も親子が別棟に寝泊まりするというプログラムでした。でも幼い私にとって母親が傍にいない夜は耐え難く、泣きわめき続けました。涙ながらの私の《声》の抗議が功を奏して当初の定めが緩和され、私だけでなくほかの子どもたちにも母親の添い寝が許されたんです。健全な抗議や抵抗の《声》が望ましい変革を引き起こしました。この幼少期の原体験が、服従を拒み不正義に抵抗する子どもや若者たちの調査研究(一九八〇年代初頭から続けてきたプロジェクト)のなかで想起されることになります。
――ここからはキャロルさんの著述活動の流れにそって、順次うかがっていくといたしましょう。版元のハーバード大学出版局が「革命を起こした小さな本」との賛辞を奉っているロングセラー『もうひとつの声で』、これを真っ先に取り上げます。『人間の声で』の序によりますと、一九八四年刊行の単行本のもとをなす論文「もう一つの声で――自己および道徳性に関する女性たちの構想」は、一九七五年に書き上げられ、その原稿が大学院の教え子やその友人たちの間で「地下出版物」のように秘かに回覧されたんだそうですね。
ギリガン はい。このエッセイは学位や業績づくりの一手ではなく、ただ自分自身のため、自らの内なる《声》に応答すべく書き綴ったものでした。この作品が生まれる前史を少し振り返っておきましょうか。
一九六四年にハーバード大学の社会心理学の博士号を取得した私でしたが、三人の子育てに追われる傍ら、公民権運動やベトナム反戦活動にも打ち込むようになって、「冷たさ」を感じさせるばかりの心理学のフィールドからいったん「退出」しています。でも一九七一年より同大学教育学部大学院の助教を務めるようになったのを足がかりに、ローレンス・コールバーグの指導の下で青年期のアイデンティティ形成および実生活上の道徳的ジレンマへの対処を主題とする発達心理学の研究をスタートさせたのです。そこで自分の活動家歴とも直結するテーマである、ベトナム戦争の兵役拒絶者たち(=「市民的不服従」当事者)の参与観察に着手しました。ところがしばらくしてパリ和平協定(七三年一月二七日)が結ばれ、当の戦争が終結へと向かったため、調査の継続が困難となりました。
そんな折り、アメリカ連邦最高裁が画期的な「ロウ対ウェイド判決」(同年一月二二日)を下し、人工妊娠中絶の選択が合法化されます。私はこの千載一遇の好機を逃さず、徴兵を拒むかどうかではなく、中絶を選ぶかどうかの意思決定に迫られた当事者女性へと調査対象を切り替えました。その過程で、正義と権利を主張する《声》とは響きを異にする《もうひとつの声》、ケアと責任を果たせと命じる「ケアの倫理」の声が聴こえてきたというのが、事の次第なのです。
――一九七五年から回し読みされた論文は、熱心な読者の勧めを受けて学術専門誌『ハーバード教育評論』に投稿されましたが、査読段階で二度も掲載不可の憂き目にあってらっしゃいますね。一度目には「これが何を論じているのか理解できない」との素っ気ないコメントが付記され、二度目は「これは社会科学ではない」と突き返されたとうかがいました。執筆者のキャロルさん自らが論文題目にある《もうひとつの声》を聴いてくれとしぶとく食い下がったことにより、ようやく同誌の四七巻四号(一九七七年一二月発行)に掲載されます。以後この号は増刷を重ね、同誌の中でも最多の累計発行部数を数えました。
ギリガン 今となって後悔するのは、『もうひとつの声で』のメインタイトルの形容詞(もうひとつの=異なる)とサブタイトルに含めた複数名詞(女性たち)とを短絡する、表層的な読みの拡散を阻止できなかったことです。そのため、本書が「性別二元論」(すべての人間を「男性」vs.「女性」という二つの性別へと割り振る考え方および社会規範)や「性差本質主義」(男女の性差は社会的・文化的に構築されたものではなく、生まれながらに備わる自然本性に基づくとの主張)に与するものだと断ずる曲解が生じたことは否めません。この本は「女性たち」という論題を携えて《異なり=差異》の探査へと参入したものであって、「もうひとつの声」は、ジェンダーではなくあくまでもテーマ(音楽用語でいう「主旋律」)の差異を示唆するのだと主著の「序」の第三段落で注意喚起しておきました。けれども、その趣旨が把握されないまま、男女の道徳発達の違い――つまり、男子は「正義」を目指し、女子は「ケア」に向かって別々の発達経路を進むものだとする臆断――を喧伝する書物であるかのように誤読され、あまつさえ性差を固定し、「バックラッシュ」――一九八〇年代のアメリカに吹き荒れた、女性の権利意識や運動に対する大がかりな「逆襲」――に加担する反動的な文書であるかのように(もっぱらそのタイトルだけが)もてはやされたのです。
――だからこそ主著の一九九三年版に増補された「読者への書簡」において、学生反乱とウーマンリブとがそれぞれ知の基盤および男女・親子関係の再検討を要請していたあの時代のうねりを受けとめつつ本書が書き進められたことを、強くアピールされたのですね。
キャロルさんに一五年遅れて生まれた最年長の訳者である私(川本)にとっては、『抵抗への参加』第三章の一文、「ワシントン大行進〔一九六三年〕とそれに続く公民権法の成立〔一九六四年〕がもたらしたワクワク感を思い出しますし、今でもビートルズの歌を聴くと、あの時代に満ち溢れていた快活な気分や正義への情熱が、二つながら甦ってくるのです」がグッと迫ってきます。
と、自分の歳をばらしたついでに、『もうひとつの声で』本論の最終段落で持ちだされた男女両性の発達観の「マリッジ」(marriage)という一語をめぐる翻訳の苦慮と工夫を聞いてください。
そもそもこの私は、大学院博士課程一年目の一九七七年にジョン・ロールズの『正義論』の書名を教わり、この本が巻き起こした活発な議論に触発されて社会倫理学を守備範囲と定めるようになりました。『もうひとつの声で』とは、女子大学に勤めるようになって六年後の一九八六年に巡り合っています。同書の「ケアの倫理」と「正義の倫理」との鮮やかな対比に目を開かれ、以後四〇年もの間、「ケア」(個別的・対人的な配慮と世話の実践)と「正義」(普遍的・制度的な公平性の実現)との両立・統合――京都賞授賞理由の言い回しを借りれば「「正義の倫理」と「ケアの倫理」との編み合わせ」――の理路を探り当てようとしてきました。そんな個人的な問題関心に駆られておりましたので、この「マリッジ」という表現が気になってなりませんでした。主流派心理学が論究してきた男性中心の人間発達観と第二波フェミニズムや女性学に領導された女性の心理発達の捉え直しとを、「結婚」という異性愛カップルをモデルとする語でつなぐのには、違和感を禁じえなかったのです。女性の訳者お二人と議論・熟考を重ね、次のような日本語に直してみました。せっかくの機会ですので、段落全体の訳文を紹介させてもらいます。
「フロイトやピアジェが子どもたちの感情や思考における差異にわれわれの注意を向けてくれたので、われわれは、より細心のケアと敬意をもって、子どもたちに応答できるようになった。同じように、女性たちの経験と理解における差異を認識すれば、われわれは、成熟に関する視野を広げ、発達上の真理が有する文脈的性質を示せることになる。こうした視座の拡張を通して、これまで一般的に描かれてきた成人〔男性〕の発達と〔最近〕姿を見せ始めた女性の発達とをむすびつけることができれば、人間の発達に対する理解に変化をもたらし、人間の生に対する見方が〔複数の世代がつながり合う〕より実り豊かなものとなる将来を思い描けるようになるのである。」
原文のmarriageに「結婚」という通常の訳語を宛がわず、「むすびつけること」としたうえ「マリアージュ」というフランス語風のルビを振って「異化効果」(ブレヒト)をねらいました。さらに"a more generative view of human life"という文末のフレーズも――エリク・エリクソンのライフサイクル論における「世代継承性」(generativity)を批判的に摂取し、これを「ケアの倫理」の文脈に埋め込もうとする挑戦的な意味合いを読み込んで――右のように訳し砕いてみたのです。こうした解釈は著者キャロルさんの意からさほど逸れるものではあるまい、と一人合点しております。
原書の索引にもmarriageが立項されているのですが、「結婚」という普通名詞として用いられている箇所が別に複数あるにもかかわらず、本論末尾のこのページの指示しかなされていません。ですので、ここのmarriageには日常語の「結婚」とは異なる含みを持たせておられるのだと私たちは推定しました。同じ箇所のドイツ語訳も、Ehe=結婚ではなく結合を意味するVerknüpfungの語を用いています。これも、私たちの訳文が的外れではないことを間接的に証拠立ててくれるのではないでしょうか。
長広舌をふるってしまいました。インタビューの本筋にもどって、二〇一一年刊の論文集『抵抗への参加』へ移りましょう。
ギリガン 山辺さんが集約して事前に送ってくださった質問項目のひとつに、こうありました――『もうひとつの声で』から『抵抗への参加』にいたる展開のなかで、「ケアの倫理」の強調点が「苦しみの緩和」から「不正義への抵抗」へとシフトしているけれども、そうした移行を招いた理論的背景や社会情勢の変化とはどういうものなのでしょうか、と。
確かに一九八二年の『もうひとつの声で』では、「この世界に「実在する、目に見える苦しみ」に目を向け、和らげることへの責任」を果たし、「誰も傷つけられるべきではない」と厳命する「非暴力の倫理」を体得する境地にまで発達するものとして「ケアの倫理」を描いています。ところが二九年後の『抵抗への参加』だと、同じ「ケアの倫理」の力点が「不正義への抵抗」へと移されており、抵抗のターゲットとして「家父長制」が焦点化されるのです。こうした転換が生じた背景には、二〇〇二年にニューヨーク大学へ異動して同大ロースクールの憲法学者デイビッド・リチャーズとの研究交流を深め、ズバリ「不正義への抵抗」をテーマとする共同演習を始めたことがあります。さらに目を世界の出来事に転じると、二〇〇一年九月一一日のアメリカ同時多発テロ事件を発火点とするテロリズムの蔓延や民族・宗教紛争の激化、デモクラシーの機能不全といった一連の事象が生じております。これらの難局が「不正義への抵抗」に取り組むよう私を促したのだと言えるでしょう。
――よくわかりました。そうした重点の移動をベースとして、『抵抗への参加』第五章に「不正義への抵抗――フェミニズムの《ケアの倫理》」を置かれたのですね。日本の読者のために、この章のさわりを読み上げておくとします。
「声と関係性を基礎とする《ケアの倫理》が不正義に抵抗し、自分の声を封殺するものに抗う倫理である、と私たち〔=リチャーズとギリガン〕は見なすようになった。しかもそうした《ケアの倫理》は、デモクラシーの実践に不可欠でありかつグローバルな社会が十全に機能するのに絶対必要な〈人間の倫理〉以外のものではない。そして――もっと物議をかもしそうな主張を敢えて述べておくならば――《ケアの倫理》は〈フェミニズムの倫理〉のひとつ、要するに、デモクラシーを家父長制から解き放つ歴史的な闘争を嚮導する倫理でもあるのだ。」
最終センテンスの初めに置かれた副詞句"More controversially" を「もっと物議をかもしそうな主張を敢えて述べておくならば」という条件節として訳し補ってみました。おそらく前著『もうひとつの声で』にラディカル派のフェミニストが投げつけた厳しい論難を念頭において、この二語を慎重に選ばれたものと勘案します。《ケアの倫理》がデモクラシーの実践に必要不可欠なものにして、家父長制からの解放を牽引する倫理へと急進化されており、こうした転回に伴う論争にコミットし続けようとする身構えが明示されていると解しました。
ギリガン そうですね。私からも同じ第五章で「家父長制」を定義づけた前後の文脈を引かせてもらいましょう――「フェミニズムの《ケアの倫理》は、私たちの人間性を形づくる能力を後押しし、その能力を脅かす諸慣行に対して警告を発する。この本では、「家父長制」という語を〈男たちを女たちからだけでなく男たちからも分離し、女たちを優良な女と劣悪な女とに分割するような、態度や価値観および道徳規範や制度〉を表すものとして用いてきた。心理学の理論を足場とする者ゆえ、私は〈家父長制〉を魂の断片化、すなわちトラウマと結びつけてきた。人間の資質が男らしさおよび女らしさとの二つに分割され続ける限り、私たちは互いに疎外しあうだけでなく、自分自身からも疎外されてしまうだろう。〔家父長制が存続する限り〕私たちが共通して切望する対象である愛と自由の二つともが、私たちの手の届かないところにとどまり続けるだろう。」
――「家父長制」というポリティカルな概念と「トラウマ」(心的外傷)という心理学・精神医療の用語とを連携なさるわけですね。第二派フェミニズムのスローガンとなった「個人的なことは政治的なことだ」をひと捻りすれば、「心理的なことも政治的なことだ」となりましょうか。
ギリガン 本当のところ、『抵抗への参加』という書名は「抵抗への参加――心理学、政治学、女子たち、女性たち」と題したミシガン大学でのタナー講義(一九九〇年)から採ったものなのです。もとのレクチャーから二〇年も過ぎて一書にまとめたのは、デモクラティックな社会において、愛の必要条件と市民としての暮らし(シティズンシップ)の必要条件とがまったく同一のものだということを、初めて私に教えてくれた「女子たちと女性たちの《声》を呼び戻そうとしたから」にほかならず、同書のねらいは「関係性の中で生きようとする声と欲求も、偽物の権威に抵抗しようとする能力のどちらも私たちの人間本性に生来備わっている」ことを論証するところにありました。
そう考え進めていくと、《ケア》や愛を私的な領域に閉じ込め、《正義》や市民としての活動のみが公的な事柄だと持ち上げる「公私二元論」は根本から覆されることになります。
――先を急ぎましょう。二〇二三年の『人間の声で』にまつわる、あれこれをお聞かせください。主著の表題にあった「もうひとつの」という形容詞が「人間の」に置き換わっていますよね。
これについては、主著新訳の巻頭を飾った「本書を読んでくださる日本の皆さまへ」の出だしが、「人間の」を打ち出すねらいを単純明快に説き明かしてくれます――『もうひとつの声で』初版をリリースした当初は、「「女性的」な声として聞こえていた「もうひとつの声」(すなわち、〈ケアの倫理〉の声)とは、実のところ〈人間の声〉のひとつなのだということです。それは、家父長制の声とは異なります。家父長制の声から聞こえてくるのは〔男か女の二つの性しかないとする〕性別二元論や、ジェンダーによって上下を割り当てる階層構造〔こそが正しいと断ずる強弁〕にほかなりません。したがって、家父長制が勢力をふるっていたり、押しつけられているような事情のもとでは、この〈人間の声〉は抵抗の声となり、〈ケアの倫理〉は解放の倫理となります」と(訳書7ページ)。
ギリガン はい。『もうひとつの声で』日本語版への「まえがき」を依頼されたのが、まさに『人間の声で』の脱稿直前でしたので、新著のモチーフの予告を兼ねた書簡形式で書き送りました。
この本で留意してほしいのは、あなた方が「役割馴致」と訳された「イニシエーション」(initiation)の有り様です。「ジェンダーに取り憑かれた文化」の文脈に置かれた女子たちの発達の研究において、この〈役割馴致〉が〈発達〉の過程だと誤認されてきました。子ども期から青年期へ移行し、衆人環視下で若い女性となるにあたり、考えることについてどう考えるかを学ぶ大切な時期に中等教育が始まると、女子たちは女性としての身体と心を、情動と思考を、そして関係性と自分自身──自分の正直な《声》──を切り分けるよう、圧力をかけられるようになります。そうした役割馴致の台本は、ジェンダー(社会的性別)によって書かれるのです。社会的性別によって書き分けられた「男らしさ」や「女らしさ」の掟や台本は、ジェンダー二元論や家父長制の階層構造を模範としています。
子どもたちが、家父長制の世界、つまり父親の声に特権が与えられている──父親の声が道徳や法の声である──世界を下支えするようなジェンダーの掟と台本へ役割馴致していく経緯を捉えようとする際には、《声》の変化が目印となります。声にあらわれる変化は共鳴の喪失を反映し、次いで関係性の喪失を反映するのです。逆説的な言い方になりますが、子どもたちは関係性──他の人たちとつながって生きたいという己の欲求──を犠牲にすることを求められます──「関係性」を保持するためにです。「関係性」を保持するためには、関係性から自分たちの一部分を後退させて隠すことを学習しなければなりません。〔訳書42―44ページを参照〕
――宗教学や文化人類学だと「通過儀礼」の下位概念として「加入儀礼」とか「入会式」とか訳される「イニシエーション」ですけど、キャロルさんの発達研究においては、大人や世間から期待される役割にいやいやながら順応させられてしまう機制を批判的に切開するタームとして使われるんですね。
ギリガン 具体的な説明を補足しておきましょう。今日のインタビューの初めのほうで触れたように、私はエマ・ウィラード・スクールという女子高校(創立一八一四年)の調査を一九八〇年代初頭から継続してきました。青年期直前の年頃にある同校の生徒たちの《声》に聴き入った私は、発達のある時点において女子たちが、自分の歴史を書き換える――つまり、自分の物語ではない物語を語り、自分の声を覆い隠すような別の声に差し替える――のを余儀なくされているのに気づかされたのです。
そこで私が編み出したのが《ラディカル・リスニング》(根本的に耳を傾けること)という分析手法、要は「語られているものも語られていないものも同じように、その根本へとたどり着くような耳の傾け方」なのです。そうした聞き取りのキーポイントは、質問に対する表向きの回答をそのまま判断(judgement)の秤にかけるのではなく、好奇心(curiosity)をもって本当の《声》を尋ね続けるところ(=「判断を好奇心に置き換えること」)にあります。
――「根本的に耳を傾けることは、〔表向きの〕会話の下にある会話に耳を調律して、その隠れた声(under-voice)に耳を傾けることを意味します──誰かが〔「本当に?」と〕質問するまで、あるいはひとつの声を沈黙へと追いやる文化を誰かが疑問視するまで、語られずに残ってしまうことに耳を傾けるのです」と敷衍しておられますね〔訳書86ページ〕
ギリガン そうなんです。《ラディカル・リスニング》を起動して、「隠れた声」を「人間の声」として聞き取るには、その《声》を「覆い隠す声」(cover voice)すなわち「家父長制の声」を「疑問視」し、その命におとなしく追従するのを拒む《声》が聞こえてくるまで待ち続けなければなりません。
――「隠れた声」に向かい合うには、ただひたすら寄り添い、傾聴するだけでは足りないということなんでしょうか。しかるべき時点にいたると、受動的な聞き役(「判断」を下す主体)に留まることなく、「好奇心」を燃やして能動的に問いかけ続ける会話相手へと乗り移る必要があるのかも知れません。そこで発揮されるものこそが「不定不遜な大胆さ」なのでしょう。
いよいよこの重要語の出番となりました。この単語は、「もうひとつの声で 第二幕」と題された新著第五章が初出です。audacityにどんな日本語を宛てたらいいか、Zoomの訳稿検討ミーティングで熟議を重ねました。そしたら「いっそのこと原語のニュアンスと訳語の適否についてキャロルさんとメールをやり取りし、これを「日本の読者へのまえがき」に代えたらどうか……」との妙案を米さんが思いつかれました。そして前の翻訳作業から連絡・交渉役を務められてきた山辺さんが、三人を代表してメールを送り、それが今回の本の冒頭に配された「著者と訳者の往復書簡」へと実ったのです。
ギリガン 第五章の《audacity》の出どころは、映画『ファントム・スレッド』(二〇一七年公開)の主人公アルマの行動をポール・トーマス・アンダーソン監督自らが説明した発言にあります。アルマが発動した《audacity》によって、仕事中毒のファッションデザイナーだったレイノルズが家父長制のくびきから解放され、愛とケアリングの大事さに目覚めるという筋立てでした。山辺さんの質問メールに対して、私は次のように答えています――「オーダシティとは、大胆であり不敵であるとともに、起こっていることに対峙する勇気を意味しますが、それだけではありません。それは、自分として在ることをも他者とともに在ることをも危険にさらすことであり、そうすることで真につながりを持って生きようとすることです。私はそれがケアの倫理、そして究極的には人類にとって肝要だと考えるようになりました」(訳書15ページ)と。
――キャロルさんからこのお返事を頂戴した私たちは、アルマのふるまいの核をなす《audacity》を「不逞不遜な大胆さ」という日本語に置き換えることに衆議一決しました。
私(山辺)が調べたところによると、そもそも《audacity》という語は、公民権運動や米国の黒人史を通じて、抵抗を鼓舞する言葉として用いられてきたようです。さらに現代アメリカにおいては〈びくびくせずに自分らしくありたい〉と望むLGBTQ+運動のスローガンとして採用されています。こうした使われ方を背景とするこの語は〈誰しもが内にもつ資質であるが、時に他者に対峙しつつ、目の前にある不正に対してケアするべきだと相手に気づかせるよう促すもの〉を意味すると考えました。そして「不逞不遜な大胆さ」という日本語訳を英語に戻すと"insubordinate and unhumbled bold-ness"(上位の権威に盲従せず、へりくだりもしない大胆さ・勇気)となるとキャロルさんにお知らせしたのです。
昨年一一月の受賞祝賀パーティの席上、キャロルさんからこんな嬉しい反応を教わりました――「不逞不遜な大胆さ」の英訳単語列をいたく気に入られた息子さんのひとりが、この四つの単語をTシャツにプリントして着用なさったというのです。
私たちの苦心の訳語を英語へとパラフレーズしたことにより、もとの英単語に秘められていたラディカルなニュアンスが浮き彫りとなり、これがギリガン・ファミリーの面々にシェアされたのだとすれば、訳者として望外の喜びとなりましょう。
――《audacity》の語源をさかのぼると、ラテン語の女性名詞〈audacia〉、さらには動詞〈audeo〉(あえて~する/~する勇気がある)にまでたどり着けます。私(川本)は、カントが「啓蒙の標語」として持ち出した〈Sapere aude〉(あえて賢くあれ)を即座に連想しました(一七八四年の論文「啓蒙とは何か」)。彼はこれを「自分の理性を使う勇気をもて」と言い換えています。晩年のフーコーが注目した古代ギリシアにおける「パレーシア」(権力者に向かって、勇気をもって真実を語るという市民の務め)、これも《audacity》に裏打ちされた言説実践の系譜に連なるものだと考えられるでしょう。
ギリガン なるほど。『人間の声で』第一章では、「王さまは裸だ」との真実をつぶやいた幼い男子(アンデルセン童話「皇帝の新しい着物」の登場人物)、気候変動を警告するたったひとりの示威行動に打って出たグレタ・トゥーンベリさん(二〇〇三年スウェーデン生まれ、当時一五歳)、警官による黒人ジョージ・フロイド殺人事件の現場映像をSNSに勇気を奮って投稿し、ブラック・ライヴズ・マター運動が全米に広がる弾みをつけたダルネラ・フレイジャーさん(二〇〇三年アメリカ合衆国生まれ、当時一七歳)という三つの範例を挙げました。そのどれもが「本当の声」を発することにより、既成の秩序の攪乱や崩壊が生起する可能性を示唆しています。グレタさんら三人の《声》も〈Sapere aude〉もしくは「パレーシア」に駆動されているのかも知れませんね。
真実を語り、家父長制の不正義に抵抗する「不逞不遜な大胆さ」を奮い起こせ、と《ケアの倫理》が要請しています。皆さんも「不正義への抵抗」の輪に加わり、この社会をまともなものに変革しようと訴える声を上げてみませんか。
――最後に米さんから質問があります。これから先なさりたいお仕事、どんな本を構想されているのかについです。
ギリガン 単著二冊を世に出そうと想を練っています。一冊目は『取引契約を破棄すること』――「家父長制」から人間を解放するため、この制度が女性たちに強いてきた「取引契約」を破り捨てる方途を提示しようとするものです。二冊目が『ラディカル・リスニング』――四〇年ほど前から実践してきた、このアプローチの成果を総括しようと企てています。
これとは別に、共編著『リスニングガイド法に関するラウトリッジ・ハンドブック――フェミニズムによる相関的アプローチ』が近刊(本年九月)に漕ぎつけています。一九九二年から一年間、英国ケンブリッジ大学のピット講座に招聘された際、「リスニングガイド」のセミナーも開きました。その時の受講生だったお二人と編んだ手引き書です。
――同じく本年八月には長編小説『ソルスティス』(Solstice)が、いよいよ公刊されますね。女性の生き方と家族のあり方を問い詰めてやまないダンサーのイヴが、愛と親密性の真実の意味を見つけ出すまでの波乱万丈の物語。京都賞記念講演でその一部を朗読なさいました。全編を読み通せるようになるのが楽しみでなりません。
長時間のお付き合い、どうも有り難うございました。私たちも「好奇心」を絶やさず、「隠れた声」たちに注意深く(=ケアフルに!)耳を澄ませ続けるつもりです。(おわり)
◆読書・動画案内
本文に関連する文献の書誌やウェブ情報を「好奇心」あふれる読者の便に供しておこう。
●邦訳
①『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』川本隆史・山辺恵理子・米典子訳、 風行社、二〇二二年(原著初版一九八二年)。
②『抵抗への参加――フェミニストのケアの倫理』小西真理子・田中壮泰・小田切建太郎訳、晃洋書房、二〇二三年(原著二〇一一年)。
③『人間の声で――ジェンダー二元論を超えるケアの倫理』川本隆史・山辺恵理子・米典子訳、風行社、二〇二五年(原著二〇二三年)。
●YouTube動画
①【京都賞記念講演】キャロル・ギリガン「飛び込んで聴く」(字幕付き 35分22秒)。
②【記念講演後インタビュー】キャロル・ギリガン(字幕付き 13分14秒)。
●来日中のインタビューおよび鼎談
①清水有香「「ケアの倫理」で抵抗を」(『毎日新聞』二〇二五年一二月二八日)。
②「ケアの倫理に必要な大胆さ――キャロル・ギリガン×小川公代×小西真理子」(『群像』二〇二六年二月号、講談社)。
●『人間の声で』書評
①「息吹き返す家父長制に警鐘」(小川公代)、『日本経済新聞』二〇二五年一二月二〇日。
②「「ケアの倫理」、支配に抵抗」(森田裕美)、『中国新聞』二〇二六年五月一〇日。
③『カトリック教育研究』四三号(評者=釘宮明美、日本カトリック教育学会、二〇二六年九月発行予定)。
●訳者の論考
①山辺恵理子「教育と抵抗の暴力――ギリガンの役割馴致、ケアの倫理、オーダシティ概念から考える」、『教育哲学研究』一三二号(教育哲学会、二〇二五年一一月)。
②川本隆史「「家父長制」に抵抗する《ケアの倫理》へ――心理学者キャロル・ギリガンの挑戦」、『家族療法研究』四二巻三号(日本家族療法学会、二〇二五年一二月)。
★キャロル・ギリガン=ニューヨーク生まれの心理学者・表現者。スウォースモア・カレッジ卒(英文学)、ラドクリフ・カレッジ修士課程修了(臨床心理学)。心理学者のE・H・エリクソンに師事し、一九六四年にハーバード大学の博士号(社会心理学)を取得。著書に『もうひとつの声で』『人間の声で』など。一九三六年生。
★かわもと・たかし=東京大学・東北大学名誉教授・倫理学。著書に『〈共生〉から考える』など。
★やまべ・えりこ=早稲田大学准教授・教育学。共著に『リフレクション入門』など。
★よね・のりこ=東京大学大学院博士課程単位取得満期退学。共著に『イギリス哲学・思想事典』など。
書籍
| 書籍名 | 人間の声で |
| ISBN13 | 9784862581648 |
| ISBN10 | 4862581641 |
