ハンナ・アーレントと共生の〈場所〉論
二井 彬緒著
石田 雅樹
「パレスチナ/イスラエル問題について、ハンナ・アーレントはどう考えたのか」。両者の和解や関係修復からほど遠い現状において、この問いはアーレント研究者のみならず、民族問題や国際政治に携わる多くの論者が関心を寄せるものとなっている。本書はアーレントの初期思想を〈場所〉というキーワードで読み解き、領土や境界についての思考を媒介として、パレスチナ/イスラエル問題等の難問を問い直す視点を提示する。
ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカに亡命したアーレントが、『全体主義の起原』(1951)刊行前に、ナチズムと闘うユダヤ軍創設論を主張したことは、アーレント研究者以外にはあまり知られていない。アーレントの初期思想を扱った研究はこれまでにも存在したが、本書の独創性はそうした先行研究を批判的に検証した上で、この初期思想を個別テーマの寄せ集めとしてではなく、それらを貫く思想的モチーフとして〈場所〉というキーワードを提示した点にある。
すなわち一方では、アーレントのユダヤ軍創設論は、迫害された〈場所喪失者〉としてのユダヤ人が、自分たちの集団アイデンティティと住まう〈場所〉を取り戻す闘争として位置づけられる。その暴力論はあくまでナチとの闘争に限定され、後の『革命について』(1963)での「はじまりの暴力」の思想的先駆に当たることが論じられる。他方で、アーレントはユダヤ人難民のパレスチナ入植に賛成しつつも、主権国家イスラエルの建国には異議を唱えたが、その際に代替案として示したバイナショナリズムこそ、ユダヤとアラブの共生の〈場所〉であるとする。つまりそれは、ユダヤ人とアラブ人の評議会から構成される連邦制国家の提案であり、こうした提案は国民国家の成立自体を相対化するものとしてパレスチナ/イスラエル問題に見られる今日の領土問題を問い直す視点を提起する。この点において本書は、古代ギリシャ・ポリス論やアメリカ革命論とは異なる、アーレントの政治的思考の新たな「はじまり」を提示したと言えるだろう。
以上のように本書はアーレント研究を刷新する取り組みであるが、若干の疑問を感じる部分もある。本書では、〈場所〉という言葉によって、領土問題や法的境界を説明しているが、他方で「公的領域」とはどのような領域(realm)なのか、あるいは「現れの空間」とはどのような空間(space)なのか、踏み込んだ議論は行われていない。本書第5章では「私的領域」について農業と私有財産、キブツ運動が雄弁に語られるのに対して、「公的領域」を扱った第4章では、法的境界としての城壁や記憶の場所としてのポリスが語られるだけであり、その批判的検証や現代的文脈での解釈は示されていない。要するにアーレントが語る「公的領域」「現れの空間」とは、一部の政治家の討論空間に限定されず、革命期に評議会として度々出現するとしても、より身近な事例としては(その政治的主張を問わず)あらゆる演説や集会、抗議運動やデモといった政治空間として読み解くことができるのか。あるいは必ずしも公開されない閉ざされた場所での対話や交渉も該当するのだろうか。
そうした点で本書は、アーレントにおける「場所」「空間」の両義性を浮かび上がらせたようにも思える。すなわち、一方においては古代ギリシャ・ポリス論に見られる政治空間を制限する議論があり、他方においてはその古代ローマの創設論、同盟関係論とそれを範にしたアメリカ革命での「増大するコモンウェルス」論のように、その空間的制約を越境し再構築する議論、その両方がアーレントにはあるのではないだろうか。そうした考察や示唆を与えるものとして、本書はアーレント研究者のみならず、領土問題、難民・移民問題といったアクチュアルな国際問題を考察するために広く読まれるべきである。(いしだ・まさき=宮城教育大学教授・政治思想史)
★ふたい・あきを=東京大学大学院総合文化研究科助教・社会思想史・ポスト・コロニアリズム。東京大学大学院博士課程修了・博士(国際貢献)。アーレント研究を軸に、「共生」をテーマとしてパレスチナ・イスラエル問題、先住民問題、ポスト・コロニアリズムについて研究している。
書籍
書籍名 | ハンナ・アーレントと共生の〈場所〉論 |
ISBN13 | 9784771038981 |
ISBN10 | 4771038988 |