2026/09/11号 5面

一粒の麦

〈書評キャンパス〉グギ・ワ・ジオンゴ『一粒の麦』(菅野光)
書評キャンパス グギ・ワ・ジオンゴ『一粒の麦』 菅野 光  『一粒の麦』は一九六三年十二月十二日のケニア独立までの四日間を舞台に、時間を行きつ戻りつしながら、祖国回復と国家建設への希望、その背後にある個人の苦悩や葛藤を、様々な人物の目を通して描いた小説である。独立という歴史は、一見輝かしいものに見える。第十四章で繰り広げられる独立の日、民衆は歓喜に包まれながら、歌や踊りに熱狂する。独立当日の十二日を迎えると同時にユニオンジャックが降ろされ、ケニアの国旗が掲揚される場面では、「多くの木々が一斉に裂けて」しまうほどの歓声が、独立セレモニーが行われている競技場内に響き渡った。ウフルという言葉は、スワヒリ語で独立や自由を意味する言葉であり、本小説においてしばしばスローガンのように繰り返される。ウフルを迎えること、すなわちイギリス植民地からの独立が、『一粒の麦』の歴史的舞台である。  しかし、この独立への意識は集団的なものだ。期待に満ち溢れた独立への道のりに民衆は熱狂するものの、登場人物たちは独立闘争までの悲惨な過去と、来たるべき歴史的瞬間に際して、個人的な苦悩や葛藤を抱えている。この独立へ向かう光と影は、集団的意識と個人的経験とに反映される。物語の主人公であるムゴは、独立の日が迫る社会のなかで、独立闘争に巻き込まれることを拒む生活を送っていた。ムゴとは反対に、村の英雄として独立闘争に身を投じたのが、キヒカである。キヒカは巨大な警察駐屯地であるマヘーを奪取し、暗い時代を象徴するような残虐な地区長官を暗殺したことで、「白人が恐れる男だ」と英雄視されるようになる。が、何者かの告発により処刑されてしまう。ザファイの村の英雄が不在の中、収容所に入れられ理不尽な拷問を受けても決して屈せず、さらにはかつて森に逃げ込んだキヒカを匿ったムゴに白羽の矢が立った。民衆はムゴに独立記念式典でスピーチをするように依頼する。  物語では、キヒカを告発した人物は誰なのか謎が追われていき、かつムゴは次第に独立の気運の中心へ祭り上げられていく。自分の生活とケニアの社会との間で葛藤するムゴがどのような選択をするのか、抵抗と闘争の中、他の登場人物たちは何を思い、どのような行動を取るのか。本書の面白さはこうした個人と社会の間で揺れ動く複雑な人物造形にある。  日本における戦後独立に話を移せば、一九五二年四月二八日のサンフランシスコ平和条約の発効により主権が回復したものの、すべてが解決されたわけではない。今もなお、在日米軍や沖縄にかんする議論が繰り返し行われている。政治的独立とは、新たな国づくり(ネーション・ビルディング)の第一歩であることは確かだろう。独立という歴史的背景を舞台に、新たな国や社会の輝かしい期待だけではなく、その過程の苦悩と将来の不安を同時に描き出す『一粒の麦』の日本語訳が、日本の終戦(敗戦)日のすぐ後の、八月二十日に刊行されたことも、戦後独立の歴史や国家形成を考える良い機会となるのではないだろうか。  苦悩と葛藤ではなく、未来への一握りの期待を示す描写で物語の幕は閉じられる。まるで大地に一粒の麦の種を植えるように。ケニア独立の物語をとおして、日本の過去と将来の社会を考えることもまた、翻訳されたことで可能となるのではないだろうか。(粟飯原文子訳)

書籍

書籍名 一粒の麦
ISBN13 9784334111076
ISBN10 4334111076