ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 456
『カイエ』の哲学の根本にあったもの
HK ヌーヴェルヴァーグの作家の中には、手放しで擁護されはしないが完全に切り捨てられない、グレーゾーンに属する映画作家もいます。例えばコスタ・ガブラスの映画などは、非常に危ういと言えます。映画産業のシステムの中にありながら、映画作家のようなことを行なっているからです。彼の映画のメッセージは左翼に属するものであり、いつも人道的なものであることは知られています。しかし、七〇年代の『カイエ』は、そうした映画をゴダールなどと比較して「結局はハリウッド映画のようなものであり、真に政治的ではない」と切り捨てました。おそらく映画の演出の仕方を見て、そう批判していたのでしょう。根本には、「カポのトラヴェリング」の問題のようにして、映像の隅々にまで考えが及んでいないことへの批判があるのだと思います。
それは、ドゥーシェさんがしばしば言う「映画の考え」と似たところがあるのではないでしょうか? そして、その種の画は、近年ではたくさんあります。つまり、物語の中身だけに興味を持ち、映画の作りの方は全く考えていない、もしくは映画技術の実演になっているだけの作品です。
JD その考えには同意します。コスタに関しては、既に語ったことがあるので、とやかく言うことはしません。しかし、彼の映画の重要性が低いというのは事実です。当然のことながら、テレビ局が作っている大半の映像や、見るにも値しない大部分の映画よりは圧倒的に良い。しかし、真に重要な映画作家たちと比較すると、重要ではありません。他に重要な作品はあります。コスタの映画は、ある時代には良いものでしたが、現在では効力を失ってしまっているところがあるからです。その時代の優れた映画ではあり続けますが、それ以上にはなり得ません。
HK 『カイエ』の哲学の根本には、「内容が形式を作り、形式が内容を作る」というものがずっとあり続けていたと思います。しかし、最近の映画では「形式」について考えているものが非常に少なくなっている。
JD ええ、非常に少なくなっています。もしくは、非常に頭でっかちなものが増えています。しかし、今言った映画作りの哲学を実践し続けている偉大な映画作家は僅かながらいます。例えば、その言葉を発したゴダールであったり、コッポラがそうですね。彼らは、「映画とは何か」について考え続けています。
HK その「映画とは何か」という問いですが、現在ではヌーヴェルヴァーグの時代と同様には考えられないのでしょうか。
JD 昔と現在では、当然ながら問いの中身も答えも変わってきています。グリフィスの時代には、その時代固有の問題がありました。ムルナウ、ラング、ルノワール、ロッセリーニらも同様で、彼ら固有の問題を抱えていました。映画は時代に左右される芸術だからです。その時代固有の出来事があり、技術的発明がある。そうしたことを無視して映画は作れません。時代に左右されるというのは、あらゆる芸術に言えることです。しかし、映画はその傾向が非常に強い。今日において、グリフィスやエイゼンシュテインの映画を作ることは時代錯誤の振る舞いです。しかし彼らは、その時代において、「映画とは何か」を考えて映画を作っていました。
HK ニコラス・レイやサミュエル・フラーも、映画の形式について考えていたと言えるのでしょうか。五〇年代の映画作家には、無声の時代の映画作家ほどの個性が無くなっているように見えます。
JD 当然彼らも映画の形式について考えていました。フラーは、ニコラス・レイほどではありません。しかし、どちらも真に偉大な映画作家です。無声の時代ほどの個性が見られないというのは当然のことです。初期の映画においては、人々はまだ何をすれば良いのかわかっていなかった。映画はまだ生まれつつある過程にあったからです。だから、あらゆる試みが行われていました。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
書籍
| 書籍名 | カイエ |
