2026/02/13号 5面

長谷川伸とその時代

長谷川伸とその時代 鳥居 明雄著 石井 正己  著者は能・説経の研究者であるが、それより早く耳にとめて心惹かれたのは、長谷川伸の戯曲だった。都留文科大学を定年退職するにあたって、『長谷川伸の戯曲世界 『暗闇の丑松』』(ぺりかん社、二〇一五年)の非売品の冊子を発行した。昭和六年の『暗闇の丑松』は歌舞伎・映画・テレビドラマにもなった名作。丑松の手によって四人が殺害され、内縁の妻・お米が自死するという死臭に満ちた世界を描くが、それが並外れた緊張度でつくられていると論じた。その際、長谷川伸の戯曲の論稿集成を予告している。  有言実行、その後、『長谷川伸の戯曲世界 沓掛時次郎・瞼の母・暗闇の丑松』(ぺりかん社、二〇一六年)、『長谷川伸の戯曲世界2 中山七里・一本刀土俵入』(ぺりかん社、二〇二〇年)を著した。昭和三年の『沓掛時次郎』、昭和五年の『瞼の母』、昭和六年『暗闇の丑松』、そして、昭和四年の『中山七里』、昭和六年『一本刀土俵入』。長谷川伸の名作の全文を読み解き、戯曲世界の内実を明らかにする。  本書は、この五編を踏まえて、大正一二年から昭和六年の九年間に発表された全作品三百余編について、各年ごとに〔小説〕〔戯曲〕に分け、個々の作品の「解題」「梗概」「評解」をまとめた。この間に長谷川伸の文業が小説から戯曲に動き、先の五作品も〔戯曲〕の中にある。だが、目次を一覧すればわかるように、戯曲だけでなく、短編小説も書き続ける。それがやがて史伝小説を生み出す水脈になるのだろう。  それにしても、三百余編の全作品に「解題」「梗概」「評解」を付けるのは容易ではない。「解題」では挿画画家はもちろん、単行本への収録や改題を記述するが、「(未入手)」の作品もあって、今後の課題が残る。重要なのは、例えば、小説「江戸の巾着切」に、「巾着切物の濫觴」であり、「本作の骨格を基にして後に名作戯曲「掏摸の家」が成された」とするような指摘である。そのようにして、名作が生み出される歩みをたどってゆく。  そもそも、巾着切・掏摸だけでなく、長谷川伸の作品には博徒・泥棒・西行(渡り職人)・乞食といった人々が頻出する。同じ大衆文学作家でも、白井喬二や大佛次郎にない世界が生まれる所以である。著者は、その淵源は小学校も卒業できなかった境遇から身を起こしたところにあると考える。こうした読み方は、作品を作家と切り離し、読者の読みを特権化するような立場とは一線を画す。それは、教養主義的な文学観では長谷川伸の世界に手が届かないという批判と対応する。  だが、著者の立場も透明なわけではない。長谷川伸の人生が作品に反映するとしながらも、花柳新聞と揶揄された『都新聞』の記者時代の文業は略述するだけである。石割松太郎に見出されて『サンデー毎日』に寄稿、さらに菊池寬の推輓によって『新小説』にも寄稿するところから始まる。本書のねらいは、長谷川伸が異端の大衆文学作家として活躍する過程をとらえるところにあったと知られる。個々の作品の「解題」「梗概」「評解」も、すべてそこに収束することになる。  確かに、九年間に三百余編を書くというのは「暴走」と呼ぶしかない多産である。それは、長谷川伸が声の作家だったからではないかと考えられる。この時代は、前田愛が指摘したように、新聞や小説を音読していた。長谷川伸は極貧であったゆえにさらに濃厚な声の世界で生きたが、それを元手に肉声を感じさせる会話体を書くことができた。六代目尾上菊五郎は、「暗闇の丑松」の舞台稽古で「泣けて芝居が出来ねえや」と涙ぐんだという。菊五郎は劇中の人物の声に同化してしまうような役者だったにちがいない。  各年の末尾には〔同時代相論〕を入れ、長谷川伸を生み育てた人脈や背景に触れる。その際に重視した一つは柳田國男の『明治大正史世相篇』だった。それは農村から都市へなだれ込んだ無名の人々が生きる世相を明らかにしている。だが、長谷川伸の書いた人々は、股旅物がそうであるように、さらに下層の社会を生きる漂泊の被差別民であって、折口信夫が「ごろつきの話」で述べた世界に通底する。後のことになるが、『日本捕虜志』を読んだ折口が偶然車中で会った長谷川伸に、「有難う存じます」と挨拶したという逸話は、二人の深い共感を示す。これは別に著者が触れるところでもある。  思えば、著者は先の非売品で、「昭和初期から戦中戦後の一時期、舞台に映画にと、あれほどまでに日本全国津々浦々を席巻した長谷川伸の戯曲世界は、今どこにあるのだろうか」とつぶやいていた。敵討物は時代の倫理観に合わなくなり、「忠臣蔵」でさえ歴史の中に埋もれてしまった。長谷川伸の作品をもう一つの文学史の中に位置づけ、今の時代に蘇らせるにはかなりの力技が必要である。その際、任侠物とも言える映画「国宝」が空前の興行収入をあげたことが思い浮かぶ。「国宝」の人気を長谷川伸の再評価につなげられないかと思うが、どうであろうか。(いしい・まさみ=東京学芸大学名誉教授・日本文学・民俗学)  ★とりい・あきお=都留文科大学名誉教授・日本中世文学・日本古典芸能(能・説経)。一九四九年生。

書籍

書籍名 長谷川伸とその時代
ISBN13 9784831517098
ISBN10 4831517097