2025/06/06号 5面

「「ささやかな商売」としての映画」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)393

「ささやかな商売」としての映画 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 393  JD ゴダールの映画に興味を持つ人々は、今日では小ブルジョワ的になりました。「『軽蔑』とか『気狂いピエロ』の頃のゴダールは良かった」などと言っています。その後のゴダールが何をしたか、現在において何をしているか、それについては誰も興味を持っていないのです。そうした態度は、今の多くの批評家にも見出せます。  HK コッポラも似た状況に置かれていると考えていいのでしょうか。  JD 少し違いますが、似たような状況です。つまり、コッポラはまずアメリカ人であり、アメリカ映画を作っています。そして、アメリカ映画とは、何よりも産業なのです。たったひとつの商業的失敗が命取りとなる世界です。コッポラの置かれた状況を顧みてください。映画を作ることをやめてしまっています。私は、彼の『Virginia』をとても気に入りました。ここ一〇年来のアメリカ映画においても、非常に重要な作品です。しかし、世間の評価は違いました。一般の観客からはあまり相手にされず、批評家たちも好意的に受け取らなかった。その結果、あれほど才能のある重要な映画監督が、作品を作ることをやめてしまったのです。  HK コッポラは、他のアメリカの映画監督とは違い、自分で映画の製作も続けてきました。  JD そうです。コッポラは、いうならば映画製作に関わる多くのことを自分で行なっていました。まるで最初期の映画監督たちのようなところがあった。  HK フランスでいうとジャン=ピエール・モッキーのようですね。  JD モッキーは、コッポラ以上です。彼は自分で製作し、自分で監督して、時には自分が出演もする。そして、自分の所有する映画館で上映する。そうした行ないについて、ゴダールは『映画というささやかな商売の栄華と衰退』という映画を作っていました。モッキーの行なっていたことは、ある意味で、映画作家の理想に近いところがあります。多くの映画監督は、資金を集めるために、プロデューサーに媚を売ったり、不本意なことをしています。モッキーのようにして、自分の責任において全てを作る胆力を持った人は本当に稀なのです。ゴダールには、そうした一面もあります。しかしながら、彼の映画はモッキーのものと比較して、多少なりとも予算が必要です。だから不本意なことも行なっているのです。モッキーの場合、ちょっとした失敗が致命的な問題に繫がることはありません。もし映画がうまくいかなければ、すぐにでも次の作品を作って挽回すればいいからです。  HK ロメールの製作会社もそうした一面がありました。  JD そうですね。一般的に言って、フランスの映画作家は失敗が許されやすい環境にあります。もしかすると現在流行りの巨大な映画をつくる若手監督たちは違うのかもしれませんが、ベッソンが興行的にも批評的にも失敗した後も、映画を作り続けられているのを見ると、似たようなものです。要するに、非常にフランス的なことなのですが、一度権力を獲得した人がその席を譲ることはない。テレビを見れば、アナウンサーなど三〇年近く顔ぶれが変わっていません……。映画の世界も、イザベル・ユペール、ジェラール・デュパルデューなどが、今でも街中の広告ポスターを飾っています。それと並行して若い才能が映画業界に入りづらくなっているのかもしれません。現在のフランス映画は、以前よりも難しい状況にあります。  HK フィリップ・ガレルなども、興行的にあまり成功しているとは思えませんが、映画を作り続けられているのは、フランス独特のことだと思います。若手の映画監督の場合、観客動員数が二万人以下だと、次の映画を作る機会は巡ってきません。近年では、モッキーやゴダールの映画にそれだけの観客が入ることはありませんが、作り続けることができたのは、予算探しを含めて、自分たちで作っていることが大きいと思います。そうした「ささやかな商売」がフランス映画的なのだと思います。  JD ええ。その「ささやかな商売」という点に、フランス映画の強みがあるのだと思います。少しだけ秘密主義的なところもあります。小さな映画館で限られた観客に向けて、映画作家が自分の考えを見せることができるということです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)