2026/07/10号 6面

越境者ラデク

越境者ラデク 米田 綱路著 吉川 弘晃  ついにあの男の本が出た! 革命と戦争、左翼と右翼、党と民族、ファシズムとスターリニズムが蠢く二〇世紀の歴史を紐解けばどこかでその名を耳にするだろう。思いつくだけでも、一九〇五年革命、第二インター崩壊、第一次世界大戦、第三インター創設、ロシア革命、ドイツ革命、中国革命、満洲問題……全てに首を突っ込んだこのポーランド人革命家。東奔西走、民族も言語の壁もなんのその、軽快なフットワーク、そして驚くべき博覧強記で、瞬時に問題を組み立て、この上なく痛快な論理に、極めて挑発的なレトリックで火に油を注ぎ、双方の立場を闘争へ駆り立てる。まさに先導する煽動者、カール・ラデク。本書はその前半生を描く。  この強靭な精神はしかし、自由と革命をこよなく愛するがゆえに、旅する先々で重宝されては、やがて問題を起こし、敵を増やしては次の場を探すヴァガボンドたらざるをえない。ポーランド王国・リトアニア社会民主党(ローザ・ルクセンブルク)、ドイツ社会民主党、ボリシェヴィキ(レーニン)、コミンテルン(トロツキー)と、次々に船を乗り換えては追い出され、降りた船はほぼ全て沈没するという始末。  しかも人間性に問題ありときた。人を食った態度で知性をひけらかし、各地でスキャンダルを起こし、逆説という逆説で人を煙に巻いては、皮肉と冷笑でその場をやり過ごす。転向に次ぐ転向でスターリンの知恵袋に収まり、見世物裁判の脚本家として大粛清の片棒を担いだかと思えば、終いには自身が被告役として牢獄に消えていった。理論と実践のはざまで悩む「真面目な」政治的人間からすれば、これほど嫌悪と侮蔑を集める「大物」もいない。事実、ソ連での名誉回復は遅れに遅れ、左翼陣営でも永らく忘却されていた。  だが裏を返せば、世界革命史劇場の観客をあっと言わせる役者は、ラデクをおいて他にない。E・H・カー、アーサー・ケストラー、久野修、シュテファン・ハイム、多くの歴史家の好奇心や文学者の想像力を搔き立ててきた。著者曰く「歌舞伎の三枚目」にして「スタンチク」(ポーランドの伝説的道化)が行く先々で繰り広げる珍事は、本書の巧みな語りと人物描写もあいまって、読む方は八百回以上も頁を開くたびに、その裏に幾百万の老若男女が血と涙を流す人類史的絶望があると分かってても、いやだからこそ、もうゲラゲラ笑わざるを得ないのだ。初期ソ連に流行したアネクドートのほとんどを発案したと言われるだけのことはある。  この法螺吹き男の傍若無人な行動は、「聖人レーニン」や「殉教者トロツキー」といった一枚目、二枚目役者の化粧を溶かしていく。それどころか、今では「リベラル」と呼ばれるだろう人々が目を背けたくなる側面も暴いていく。本書最大の見せ場、「ラデク事件」(第六章)は、被抑圧者の味方として革命を擁護すべき世界最大の左翼政党(独社民党)が、ラデクの修正主義弾劾にまともに反論できず、おかんむりの党執行部が、道徳的欠落に問題をすり替え、彼を追放処分にするまでの顚末を描く。なお、スイスのロシア帝国出身革命家サークルを扱った第四章・七章のように、レーニンたちに出し抜かれるも、ボリシェヴィズムの欠陥を警告したケフィア売りのメンシェヴィキ、パヴェル・アクセリロートなど魅力的な脇役も少なくない。  さて本書は単なる伝記ではない。著者の狙いは「ラデクの姿をとおして一世紀余り前の世代が追い求めたもの、そして彼ら彼女らが駆けめぐった東欧世界の奥行きを現在に提示すること」にある。世界革命の基軸がドイツとロシアのあいだで揺れていた第一次大戦前後の時代、各国の活動家に加え、左右の様々な分野を代表する政治家、知識人、芸術家の結節点となり、自らも東欧を軸に東と西と往来していくラデクは、いわばドーナツ焼きだ。言葉を精緻な理論にするより、その場その場で効果的に機能させることに命を賭けたこのスポークスマンには、その言動に一貫性を探る思想史の方法は適さない。空虚な穴がなぜ多くの生地を引き寄せ、いかに大きなドーナツを焼き上げたかを分析する方法こそ、人や言葉を結びつける触媒者にふさわしい。  そのため著者は、ラデク自身の言葉をひとつ取り出しては、彼を目撃した同時代人の言葉をいくつも周りに配置していく。彼らの出逢いの意味がひとつひとつ浮き彫りになるにつれて、国家・民族・言語が幾重にも交差する東欧というモザイク的世界が少しずつ鮮やかに立ち現れていく。言葉の出逢いを横に拡げる精神史には、多言語や複数のアルヒーフを走破する力が欠かせない。一次(同時代)史料だけでドイツ・ポーランド・ロシア・英語は当然として、二次文献も含めればフランス語やスウェーデン語も必要だ。博捜の苦労は、本書のクライマックスである第八・九章で頂点に達する。第一次大戦末、敵国撹乱のためドイツ帝国軍・政府がレーニン一行をロシアへと送り込む通称「封印列車」の旅。チューリヒの出発時刻の考証や、鉄道車内でのレーニンやラデクたちの会話など、まさしく「神は細部に宿る」。  最後に、先行するラデク論に対する本書最大の功績は、ラデクのポーランド系ユダヤ人としての出自とその意義を描き出したことである。本名カロル・ソベルソーンが生まれたのはガリツィアのレンベルク。ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリーの三帝国に分割支配され、ウクライナ人、そしてユダヤ人との民族問題、さらにポーランド語、イディッシュ語、ドイツ語、ロシア語の言語問題が複雑に絡み合う土壌こそが、永遠の国際主義者ラデクを産みだした。ギムナジウムでの高度なドイツ語教育は、彼が筆一本で成り上がるための武器になる。より重要なのは、民族解放と階級闘争を同時に実現せねばならなかったポーランドで、社会主義がナショナリズムと魔合体してユダヤ人を排除する流れに彼が早いうちに直面したこと。第二インターの「裏切り」であれ、スターリニズムが辿るロシア人優越主義であれ、「万国の労働者」は民族の壁をそう易々とは越えられない。社会愛国主義に抗し、国際主義を貫くにはどうすればよいか。しかもそれは理論や綺麗事だけでは具現化できない。  この二〇世紀最大の鬼門に最も深い次元で向き合ったラデクの旅の出発点は、いまやリヴィウと名を変えて再び戦火の間近にある。世界史、あるいは人類の不幸とそれに抗する行為の回転軸は、いまなお東経二三〜四度(レンベルク〜ブレスト=リトフスク)にある。灼熱のドーナツを焼きつづけるラデクの嗤笑が、今もルビヤンカの霧から聞こえる。危険な旅の続きが待ちきれない。(よしかわ・ひろあき=明星大学特任准教授・文化交渉史)  ★よねだ・こうじ=元『図書新聞』スタッフライター・立教大学社会学部兼任講師。

書籍

書籍名 越境者ラデク
ISBN13 9784768459904
ISBN10 4768459900