2025/10/03号 5面

大岡信とことばの詩学

大岡信とことばの詩学 野沢 啓著 岡本 勝人  かつて小林秀雄は、『考えるヒント』の「言葉」のなかで、本居宣長の言葉の姿は真似し難いが、意味は真似しやすいという言葉を引用した。宣長の歌論は歌が言葉の粋であり、歌の発生を極める事は言葉の本質を極めることだというのだ。十一年半にもわたる『本居宣長』の連載が終わると、小林秀雄は江藤淳と対談する。江藤淳は、連載中に誰も解読できないでいた『本居宣長』の主題点を「宣長の場合、学問は、言語論につきる」と解説した。小林秀雄は頷くと、「あの人の言語学は言霊学なんですね」と答えている。  野沢啓氏は、近年、『言語隠喩論』から敷衍する書物を毎年というように上梓している。本著『大岡信とことばの詩学』を通読していると、著者の論理的なエクリチュールは、一直線に、鮎川信夫や吉本隆明などの前世代にたいする五〇年代を象徴する感受性のことばの結び目を語る。大岡信の初期の批評や詩篇からことばの生成を問題とするのだ。人間は、言語活動をする存在である。詩は言語による思索である。流動的な生成構造をもつことばの詩学こそ、豊かな感性で表象された大岡信の詩のことばであった。  反復されるのは、前世代にたいする大岡信の「感受性の祝祭」についてである。「荒地」や「列島」の詩人たちの主題的、社会派的スタンスから、いかに五〇年代詩から現代詩の主題を明らかにし、その中心としての無意識からのことばの生成と『大岡信詩集』の詩篇とをつなげるかにあった。さらには、連句や連歌から連詩へと展開する理論である『うたげと孤心』に、いかにみずからの「言語隠喩論」の詩の原理を接続するかにあった。  本書は、「日本の現代詩史論をどうかくか」や「戦後詩人論」のなかで吉本隆明が「第三期の詩人」の代表と位置付けた、大岡信の詩学とその世代の感受性を再度検討する。それと符牒を合わすように著者が論証したのが、大岡信のことばの思索についてである。すでに著者は、『思考することば』(大岡信著/野沢啓編集・解説)を準備し、『言語隠喩論』から『ことばという戦慄』に加えて、『詩的原理の再構築 萩原朔太郎と吉本隆明を超えて』を上梓した。大岡信の初期の批評と詩篇には、ことばの生成による言語隠喩論的な、意識を超えることばの創造性と世界開示性とのアナロジーがあり、言語の本質的な隠喩性こそ、言語そのものがもつ本質であると著者は主張する。そこでは、吉本隆明の「自己表出」と「指示表出」さえ、意識の外部表出の織物として相対化する。詩のことばは、無意識的、半意識的なことばの創出過程をもっている。そこにこそ、大岡信の批評と詩篇にみずからの詩の原理である「言語隠喩論」を重ねる原点があったのだ。想像界から象徴界へと大岡信のことばの起源にかかわる批評こそ、真摯に受けとられるべき現在性であり、テクストの読み直しによる新しい論証を示す著者の「言語隠喩論」への接続にちがいない。  大岡信が主張した「感受性の祝祭」を「言語隠喩論」につなげる精神とは何か。それは、国文科を専攻した大岡信の「てにをは」への関心とともにあり、個と共同性に関わる緊張と融和の「うたげと孤心」に集約される。それを批評の観点から論ずれば、『抒情の批判』の「日本的美意識の構造試論」の視点に通底する。そこには、日本近世の国学者本居宣長の『あしわけをぶね』や『詞の玉緒』の言語論(歌論)の探索から小林秀雄の言霊を論ずる『本居宣長』への読解、言語過程説で知られる時枝誠記の『国語学史』や藤井貞和の『文法の詩学』に至る「てにをは」の理解がある。日本の現代文は、漢文に訓点をほどこして漢字仮名混じり文として発展してきた。その中心が、独自の「てにをは」の多様性である。言葉ではなく、ことばの感覚であり、助詞ではなく、「てにをは」の創造性に論点の中心がある。  「孤独な詩的転換装置」として、大岡信の詩の原理を論じて以来、著者は大岡信に関する論考を書き継いできた。今回、それらに標題の「大岡信とことばの詩学」及び「『思考することば』解説」「大岡信の批評精神」を加えて一冊にまとめられた。反デカルト的な無意識と言語の問題にかかわり、シュルレアリスムを内在させる大岡信のことばの多様性を「言語隠喩論」の重要な引用文として繰り返して語る。そこには、現代詩および現代詩人の閉塞感にたいする批評があり、青春期の自己言及を含めた夜道の旅を思索するエクリチュールが垣間見られる。(おかもと・かつひと=詩人・文芸評論家)  ★のざわ・けい=詩人・批評家。日本現代詩人会所属。著書に『隠喩的思考』『単独者鮎川信夫』(日本詩人クラブ詩界賞)『言語隠喩論』『詩的原理の再構築 萩原朔太郎と吉本隆明を超えて』など。一九四九年生。

書籍

書籍名 大岡信とことばの詩学
ISBN13 9784624601263
ISBN10 4624601262