ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 449
郷愁の気持ちを現在に向けた作家
JD ジャック・ドゥミの初長編『ローラ』の舞台となったキャバレーという場所は、華やかな場所でありながらも、社会の縮図のような場所でもあります。低層階級の人間から上層階級の人間までが、入り混じる空間でもある。もし仮に高級ビストロであれば、浮浪者のような人間は入り込めません。そうでなくとも、身なりを整えただけの労働者階級の人間では、身振りや振る舞いなど場違いの感じが出てしまう。現在では、階級の差異は目に見えにくくなってきていますが、一九世紀以来のフランスのブルジョワ文化においては、階級による社会の違いが存在していました。そして、数人の映画作家、多くの小説家、または画家などによって、キャバレーという場所、その姿が描かれてきました。そこには、違う階級の違う世界を生きる人々が集まります。
例えば、トゥルーズ=ロートレアックは、そうした世界を生きる人々を描くことで有名です。キャバレーには、踊り子、使用人がおり、ブルジョワジー、さらにはその日暮らしをしていた人々――その中に画家も含まれます――などが入り浸っていました。ルノワールは、まさにそのキャバレー文化について、喜劇的な見方で『フレンチカンカン』を作っています。ムーラン・ルージュを宣伝するような作品でありながら、同時に印象派の画家たちの手によって描かれ、理想化されているパリの姿を生き返らせる試みでもありました。ピグマリオン物語のような一面もあり、イタリア式コメディのような軽さがあり、感じの良い作品です。『ゲームの規則』や『素晴らしき放浪者』のように、異なる階級、社会、人間とその生き方が混ざり合い、既存の秩序を壊すこともありません。そうではなく、一九五〇年代のルノワールは、生そのもの、映画の根本にあるもの、つまり演じるということに焦点を当てて映画を作っていたのです……。
ドゥミに話を戻すと、彼の初期の映画に近いのは、マックス・オフュルスの映画です。『ローラ』は、まさにオフュルスに対するオマージュとして作られています。生の苦さ、儚さなどが主たる問題となっているからです。しかし、オフュルスの映画のようにして、軽いタッチで描かれています。ただし、ドゥミの映画は、オフュルスの映画よりも現実的です。いずれにせよオフュルスは、すでに過ぎ去ってしまった世紀を生きていた人間です。彼は、アルトゥル・シュニッツラーの世界、ウィーンが最も輝いていた時代、誰もがワルツを踊っていたような時節、またはモーパッサンの小説が最も輝いていた瞬間を理解し、映画という新しい芸術で、それらを生き返らせていた作家です。だから彼の映画そのものが、失われた世界を見せるものとなっていました。それは必然的に、郷愁を帯びたものになります。彼の映画は常に動き続ける必要がありました。生は、動き続ける必要があるからです。一度動きが止まってしまえば、待っているのは死だけです。物語の最後で登場人物が死ねば、映画はそこで終わります。同時に、映像の動きも終わります。つまり、消沈しつつある生が放つ、最後の輝きをオフュルスの映画は見せていたのです。
ドゥミは、そうした繊細な一面を受け継いでいます。ドゥミの映画も、オフュルスのようにして、悲劇が多い。しかし、彼はオフュルスが持っていた過去に対する郷愁を、現在に向けています。それがオフュルスの映画と、ドゥミの映画の間にある大きな違いです。現在に郷愁の気持ちを向ける映画作家はあまりいないと思います。
HK ソクーロフが「エレジー」をテーマに連作を残しています。
JD はい。しかし彼が関心を持っているのは「哀歌」であり、「郷愁」ではありません。その二つは全く異なるものです。哀歌というものは、死者に向けられたものであり、個人の感性の問題ではないからです。
ドゥミの映画は、彼の見て生きた世界に大きく関わっています。つまり、ドゥミの映画には、一方でオフュルスなどの映画やアメリカという幻想の世界があり、他方で現実の世界があった。戦後のフランスを見回せば、とりわけ港町の近くには、多くのアメリカ人が滞在していました。ドゥミの『ローラ』や『ロシュフォールの恋人たち』には、アメリカ人が重要な役柄として登場します。 〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
