「ナガサキ」を生きる
高瀬 毅著
伊高 浩昭
名高いジャーナリストにしてノンフィクション作家の著者は仕事の関係で身近な仲間だが、その半生をかなり深く知ることができたのは本書によってである。出自と思考の原点を探り明かす自伝でもあるからだ。敗戦後10年目の1955年に長崎に生まれた被爆2世の命は、生の源・母親が被爆した45年8月9日にかかっていた。だが宿命を運命論に委ねることなく、宿命の宿命たる所以を身を切るようにして暴きつつ、「長崎の被爆」すなわち「米軍による長崎への原爆投下」とは何だったのかという命題を自らに課し、ライフワークとして取り組んできた。
その道は決して一直線ではなかった。ジャーナリズムを生業にしてからも「原爆の呪縛から逃げたい」との思いに苛まれていたのだが79年夏、転機が訪れる。職を辞して日本全国を行脚、1000人もの被爆者の証言を記録した元NBC長崎放送記者、伊藤明彦氏(1936~2009)の存在と偉業を知り驚愕したのだ。翌80年、心して伊藤に会い、まず著書『未来からの遺言―ある被爆者体験の伝記』を読む。両人は深酒を繰り返しながら同志的紐帯を強め、「原爆投下・被爆」に纏わる事実関係、背景、逸話など、あらゆるテーマについて話し合う。交流は伊藤の死まで30年近く続いた。(伊藤は60代になってから、自身が長崎被爆の10日後に同市に入った「入市被爆者」だった事実を知った。)
この稀有な人物との邂逅を通じて「被爆地に生まれた被爆2世」という自己認識を確立したと述懐、自身の「成長過程」を隠さない。母親となる女性は、職場の机を窓から離れた奧の方に移していたという偶然によって被爆時、死傷を免れ、その息子として生を享けた。「召命的偶然」とでも言えようか。これらに触れた件からは、ジャーナリスト、作家として「長崎原爆」を追究し続ける決意と覚悟が窺える。また、長崎を被爆だけでなく、歴史や風土を含め広角的に捉える「ナガサキ」という視座も生まれた。それに立つのが本書。言わば、ここまでは「解題」である。
著者は特に、「小倉投下を中止した米軍はなぜ長崎を標的に選んだのか」という謎解きに執着する。調査報道と資料検証の手腕を遺憾なく発揮し、「原爆投下機は小倉上空到着が燃料タンクの故障で遅れたため、帰路(航続距離)にも配慮し、長崎に白羽の矢を立てた」という趣旨の結論に達する。
ここで興味深い指摘がなされる。京都も投下候補都市だったが、最終局面で外され、長崎が浮上した。京都が被爆を免れたのは(千年の古都の価値を米側が認めていたというような)絶対的保証に基づくものではない。そう強調し、小倉市民には長崎被爆を自分のこととして受け止め、済まなかったという気持が感じられるが、そのような想像力が京都人にはあるだろうかと問いかける。
「怒りの広島・祈りの長崎」と長らく言われていた。長崎の被爆者には潜伏キリシタンの末裔が多く、爆心地に浦上天主堂があったことも手伝って、人類史上最悪の受難を「神の摂理」と解釈する風潮が生じたためらしい。評者は1973年のチリ軍事クーデター以後、軍部に殺害された多くの人々を平然と「殉教者」と言ってのけた日本人作家を知っているが、とんでもない「悪魔の生贄妄言」だった。「神の摂理」説は81年に来日した教皇ヨハネ=パウロ2世によって否定され、原爆投下が紛れもない人間の悪行であることが改めて認識された。
60数年前、評者は長崎で「私たちの被爆は広島の二番煎じだから」という怪訝な声を聞いて驚いたことがある。決してそうでないことを本書は証明している。1931年の日本軍の侵略「満州事変」(中国にはこれを第2次世界大戦最初のファシスト軍による被害とする解釈がある)に始まる「15年戦争」および、同大戦の象徴的最後が長崎だった。この厳粛な史実は不変だ。それは世界中が80年も核兵器の虜になり続けている「核恐怖時代」の幕開けでもあった。(いだか・ひろあき=ジャーナリスト)
★たかせ・つよし=ノンフィクション作家。戦争、原爆、人物や都市論を主なテーマとする。YouTubeニュース解説チャンネル「デモクラシータイムス」キャスター。著書に『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』『今里廣記』など。一九五五年生。
書籍
| 書籍名 | 「ナガサキ」を生きる |
| ISBN13 | 9784750518817 |
| ISBN10 | 4750518816 |
