滅びゆく惑星で 第16回
増田俊也
二十歳のころ、四十歳の女性に恋をしただろうか。大学の事務室にいた女性、アパートの管理人、怪我で入院したときに世話になった看護師。彼女たちに呼びかけるとき、私はたぶん「おばさん」と言っていた。母とそれほど変わらぬ年代なのだから仕方がない。
これは女性の側も同じだろう。二十歳の女性から見れば、十歳上の男も、二十歳上の男も、三十歳上の男も、みな一様に「おじさん」である。若さというのは、そういう物差しを平気で振り回す。
ところが、である。年齢を重ねるにつれて、心が動く相手の年齢も、いつのまにか一緒に上がっていく。三十歳になれば三十歳前後の相手にときめき、五十歳になれば五十歳の女性を見て胸がざわつく。かつて「おばさん」としか見えなかった年代の女性に、である。つまり私たちは、いつも自分と同じ高さにいる者に心を動かしている。動いているのは相手の年齢ではなく、こちらの立っている位置のほうなのだ。
考えてみると、これは恋愛に限った話ではない。同じ仕事をしている者どうしは、なぜか自然と惹かれ合う。新聞記者は新聞記者と、職人は職人と、医師は医師と、深いところで話が合ってしまう。人は、自分のいる場所から、水平にものを見る。少し離れた位相にいる人間のことは、上も下も右も左も、案外きちんとは見えていない。
この仕組みは、たいていの場合、人を穏やかに守ってくれている。同じ位相の者どうしが惹かれ合うのだから、話は早いし、傷も浅い。恋も、憧れも、尊敬も、たいていは同じ位相のあいだで完結する。厄介なのはこの物差しが壊れるときだ。
自分とはまるで違う位相にいる誰かに、うっかり本気で恋をしてしまった者は、まず間違いなく苦しむ。年齢の差、育ちの差、立っている世界の差――そういう見えない位相を踏み越えた思いは、当人にはどうにも抗いようがなく、周囲からは決まって奇異の目で見られる。そして、これは恋愛だけの話ではない。仕事の上で、遠く離れた場所にいる同性の先達に焦がれるほどの憧れを抱いたときも、人は同じように苦しむ。
人が人生で本当に苦しむのは、たいていそんなときである。相手を好きになりすぎたからではない。尊敬しすぎたからでもない。自分の物差しの外にいる誰かを、好きになり、尊敬してしまったからだ。
だが、と私はここで思う。人の値打ちが本当に出るのも、案外そういう場面なのかもしれない。物差しの内側で安全に惹かれ合っているうちはまだ何者でもない。それを踏み越えて、周りに笑われながら苦しんだ者だけが、自分の物差しの狭さというものを生まれて初めて疑うことになる。若い日に「おばさん」「おじさん」と切り捨てていた自分の目の粗さに気づくのも、たぶん同じ苦しみの一種である。(ますだ・としなり=小説家)
