2025/06/20号 5面

天使も踏むを畏れるところ 上・下

天使も踏むを畏れるところ 上・下 松家 仁之著 長瀬 海  言われてみればそのことについて考えてこなかったなという、虚をつかれるような、大きな問題提起がこの超大作ではなされている。確かに戦後思想は、敗者ならではの強靭な想像力を駆使し、あまたの戦争責任、戦後処理を問うてきた。しかしそんな彼らでさえ、自分たちが生きてきた戦後という時間を、皇居という日本の「中心」にある建造物をとおして見つめることは、ほとんどしてこなかったのである。  上下巻合わせて一〇〇〇ページを超える本作が描くのは、一九六〇年代半ばに設計がはじまった皇居新宮殿をめぐって発生する、様々な人々の思惑あるいは思惟の交錯だ。途中で辞任したが元々、皇居新宮殿の設計者は吉村順三だった。だから松家はこの小説の中心に吉村をモデルにした村井俊輔を置く。村井といえば松家のデビュー作『火山のふもとで』にでてくる優美な知性を持った建築家の「先生」で、つまり本作はあの作品の前日譚でもある。  村井は明治の終わりに、東京の下町、本所で和菓子屋を営む家の三男として生まれた。幼少期から建物を見るのが好きだった彼は、府立三中を卒業したあと東京美術学校で建築を学ぶ。関東大震災後の東京でフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルと出会い、建築家への意志を固める村井が国内外を旅する上巻の前半は、過去の、幻像となった世界の見聞録めいた趣きがあり、人間の生が建築とともに象形されていることを鮮やかに伝えるものだ。  卒業後に東京の土木局に勤めた村井は結婚し、渡米。ライトが設立した建築学校タリアセンで修行の日々を送るが、戦況の悪化によって日米交換戦で帰郷し、自身の建築事務所を立ち上げた。そして戦後、建築家として高い評価を得るようになった村井は、構想段階の皇居新宮殿についての意見交換会に呼ばれ、そのまま設計を任される――。  ここまでの村井の半生を見ればわかるが吉村順三の個人史から逸脱している部分も多い。フィクションの自由と可能性を知悉する松家は、こんなふうにして想像力の射程を、戦後を考えるために伸ばしながら現実へと肉薄していく。  たとえば僕の目には、戦時下を生きる村井の内面から鶴見俊輔の朧げな姿が浮かびあがって見える。〈負けるなら、そのときは日本にいたほうがいい〉と感じて日米交換船に乗った村井に〈負けるとき、負ける側にいたいという、ぼんやりした考え〉(鶴見・加藤典洋・黒川創『日米交換船』)を抱いてやはり船で帰国した鶴見の面影を感じるのだが、それはきっと、敗戦後に現人神から国民統合の象徴へと役目が変わった天皇にふさわしい〈開かれた宮殿〉を設計しようとする村井の思念に、過去から現在を射抜く戦後的な知性の精髄がほの見えるからだろう。  とはいえ、本作で松家が小説の自由を最大限に行使しながら息を吹き込むのは村井だけじゃない。建設省から宮内庁に出向し、新宮殿プロジェクトを進行する杉浦。父もまたそうであった侍従として天皇に寄り添い続ける西尾。初の民間出身の皇太子妃と心を通わせる役目を任された園芸家の衣子。宮内庁の主計課からプロジェクトの総責任者に登りつめ、肥大化する無謬性と我欲によって村井の計画を捻じ曲げていく牧野。  それぞれの思いを共鳴、反発させてポリフォニックな空間を作りあげる松家は、民主主義と象徴天皇制という相容れない二つの制度が同居した戦後を凝視し、その内側で育まれた精神を顕現させる。矛盾を生きることで持ち堪えた日本社会の空気が、いま僕らを縛り付けている鎖のようなものの姿態が、本作では新宮殿を取り巻く言葉のなかに象られていくのだ。  松家の小説は不思議だ。上質なクラシックを奏でていたはずなのに、いつの間にかメロディアスなオールディーズを弾きはじめるみたいなところがある。建築や戦後にまつわる硬質な議論のなかにロマンスや偶然性が織り交ぜられ、物語は時に魅力的なドラマを生じさせるから、そこに流れる時間は奇跡的な美しささえ感じさせる。  本作に溢れる気品を感じながら読むうちに僕が気になっていったのは、建築の持つ希望的な力を教える村井ではなく、彼と牧野の間で板挟みになるしがない役人の杉浦だった。作中で何度も戦争で死んだ人々に想いを馳せる杉浦は、ある日、旧日本軍の兵士たちの夢を見る。日本兵は説く。旧宮内省の人間には〈三百万人を超える死の責任を贖ってもらわねばならない〉と。この死者の声、戦争の犠牲になった人間の叫びは、昭和天皇が崩御する直前に生まれた僕の耳にはもう届かない。  もしかしたら、学生運動に参加している杉浦の息子より少しだけ年下の松家は、その声を聞くことのできる最後の世代なのかもしれない。そう考えればこそ、この小説が戦後八〇年の節目に刊行された意味は極めて大きなものに映る。見えなくなった戦後の空気を、聞こえなくなった死者たちの声を、小説という言葉の建築物に漂わせて響かせる本作は、皇居の内側にある吉村の作品と一緒に語り継がれるべき一冊である。(ながせ・かい=書評家)  ★まついえ・まさし=作家・編集者。著書に『火山のふもとで』(読売文学賞小説賞)『光の犬』(河合隼雄物語賞、芸術選奨文部科学大臣賞)など。一九五八年生。

書籍

書籍名 天使も踏むを畏れるところ 上・下
ISBN13 9784103328155
ISBN10 4103328150