2026/10/23号 5面

「映画を真に楽しむために」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)458(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 458 映画を真に楽しむために  JD 私が「映画とは何か」について話すとき、「形式」の問題を語っているのではありません。映画の形式を形作る要素の一つ一つを意識せずとも、映画の作り全体を踏まえながら、一本の映画を作ることが求められるからです。それを、私たちは「演出」と呼んでいます。仮にそうした要素の一つ(または幾分か)だけを執拗に問いただす「演出」がなされているならば、それが実験映画と言えるものになります。  私の意見においては、ニコラス・レイもサミュエル・フラーも、本当に偉大な映画作家たちの一部をなしています。彼らの映画がグリフィスに劣っているとは思いません。ある種の見方からすれば、レイやフラーの方が優れているとさえ言えます。真に偉大な映画作家の間には、序列などないからです。  ある基準点を乗り越えた映画作家の作品に対して、「あの点が優れている」だとか「この点が弱い」などといった指摘は適切ではなくなります。そうした指摘は、技術的な問題になるからです。カメラワーク、編集、シナリオなどに関しては、映画の経験をある程度積んだ人からすれば、粗い点や感心すべき点がわかります。しかし、そうした問題は――映画学校の外では――あまり重要なことではありません。映画の技術者を養成するためには重要なことですが……。実は今日では誰もが――観客から批評家までもが――そうした粗探しをするようになっています。私がシネクラブで話をしていても、あまり重要ではない細部に関して興味を持つ人が増えている。シナリオの筋が納得できないだとか、映像の作りが気に入らないだとか、そんな発言が増えています。そうした質問があった際には、私は「映画作家に聞いてください」と答え、さらには「おそらく映画作家自身も理解できていないことがあるはずです」と付け加えるようにしています(笑)。要するに、その種の問題は、映画を真に見るために然程重要なことではありません。そうではなくて、映画を見る際には、もう少し自身の感性を研ぎ澄ますべきなのです。感性というのは、知性がまだ理解できていない領域にあるものです。つまり、映画を見る上では、感性と知性の両方が必要である。それによって、本当に映画を楽しむことができると、私は昔から言い続けています。私の考えでは、映画を見ながら難解な解釈ばかりを行い、心の底から作品を楽しむことができていない人は、良い批評家にはなり得ませんし、良い観客でもありません。  HK ニコラス・レイやサミュエル・フラーがグリフィスよりも優れているというのはどの点においてでしょうか?  JD 私は、それらの映画作家に対して、優劣をつけるようなことはしたくありません。なぜなら彼らの映画は、映画史にとって重要なものだからです。グリフィスが映画の歴史にもたらしたものに関しては、説明するまでもありません。彼なしに芸術としての映画は存在しなかった。グリフィスがいなければ、映画は見世物のままであったはずです。もしくは別の人が映画史の基礎となる別の記念碑的な映画を作り、映画史は全く異なるものになっていたはずです。その異なる歴史に関しては、誰も知りませんし、興味を持っていません。  最初期の映画作家たちの作った映画には、多くの可能性があったのです。そうした過去の映画史に対する見通しがあり、現在でも異なる可能性を探求し続けているのはゴダールだけです。要するに、グリフィスの映画の重要さとは、そうした記念建造物的なものであり、開拓者のものです。映画史に対して、彼と同じだけの「発明」と「貢献」を行なった映画作家はほとんどいません。リュミエール兄弟とメリエスに匹敵する仕事を成し遂げている。しかし、彼の映画のすべてが重要だというわけではない。私は、グリフィスの後期の作品をあまり好きではありません。彼の映画はディケンズの世界の外にまで広がることがなかったからです。  しかしその点において、ムルナウ、ラング、シュトロハイム、デミルといった巨匠たちは、グリフィスが生み出したものに影響を受けながら、それぞれが全く異なる映画を開拓しています。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)