生き延びたものたちの哀しみを抱いて
佐喜真 彩著
尾西 康充
本書のタイトルに「生き延びたものたち」という言葉を選んだ理由について、著者の佐喜真彩氏は、二つの忘れがたいエピソードを紹介している。ひとつは、祖父が毎日のように口ずさんでいた民謡に、「あなたもわたしも艦砲の喰ひ残し」という一節があったこと。もうひとつは、テレビに天皇の姿が映るたび、祖母が「プータリゲー」と吐き捨てるように言ったことである。
これらの言葉の背後には、語り手自身の記憶が深く刻まれている。しかしその記憶には、他者が容易に触れることのできない深奥がある。佐喜真氏は、その隔たりに近づくための手がかりとして、「他なるものの痕跡を秘め、それへの想像を促す」文学の力、すなわち想像力の働きを強調する。
文学の可能性に希望を託しつつ、佐喜真氏が本書で目指すのは、「一九七〇年代から本格化した沖縄戦記録運動以後、『慰安婦』や『慰安所』の記憶への新たな出会い直しが進む中で、沖縄における共同体意識がいかに変容していったのかを、主に一九七〇年代以後の軍事化に抗うフェミニズム文学作品を通じて考察する」ことである。
戦後沖縄の歴史を、「軍事化に抗う」フェミニズムの視点から再編しようとする意欲的な試みであり、従来の語りの枠組みではとらえ切れなかった経験や感情を、文学作品の読解を通じて浮かび上がらせようとする姿勢が際立つ。
本書の方法論的特徴の一つとして注目されるのが、エイミー・カプランの提唱した「マニフェスト・ドメスティシティ」という枠組みをふまえて議論が展開されている点である。カプランが示したのは、アメリカの西方拡張(マニフェスト・デスティニー)の過程で、「家庭の道徳」や「女性の役割」、「家族の秩序」といった家庭イデオロギーが、ドメスティックな空間に入り込んだ異質な存在を排除することによって、帝国的拡張を支える文化的・政治的装置として機能していたという視点である。
この視点を採用することで、第二次大戦後のアメリカのホームフロントは、まさに新たな辺境となった沖縄に重ね合わせられる。嘉手納基地に隣接するコザ市では、住民が抱いていた「故郷への復興の希望が米国のドメスティックな空間の建設にすり替えられる」ことになった。さらに特飲街の設置に関する議論では、「良妻賢母」とされる女性と売春に従事する女性とが切り離され、異質な存在を排除するという構造が形成されていったのである。
佐喜真氏は、沖縄の住民たちが一様に被支配者になったのではないことも指摘する。その具体例として取り上げられるのが、「沖縄の福祉の母」と称された島マスの五〇年代前半の活動である。売春以外に生計の手段を持たない女性や戦争孤児たちに居場所を提供しようと、胡差児童保護所やコザ女子ホームを開設した彼女の取り組みは、「琉球政府の社会事業の範囲を大幅に超えるどころか、血縁関係に基づく家庭とは異なる『ホーム』を作り出す可能性の扉をほんの少し開いている」と評価される。
もっとも、その可能性が限定的であった理由として、島の活動には、一九八〇年代以降に本格化する「軍事化に抗うフェミニズム」が備えていた、「軍事主義と女性性への暴力の関係」を正面から問う視点が欠落していたことが指摘される。
八〇年代以降に展開した「軍事化に抗うフェミニズム」は、「女性間に引かれる分断線を見つめ、その先にいる別の女性たちの存在を具体的に可視化する」点に特徴があった。すなわち、「出自のいかんにかかわらず、一人ひとりの命の重みは平等であることを訴える」という姿勢である。
一九九五年の米兵による少女強姦事件をきっかけに結成された「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」は、「『沖縄の女性』を被害者の中心とする民族主義的イマジナリーと決別」した。その結果、これまで「父権的民族主義的イマジナリー」によって「喪失としてみなされなかったものたちを追悼/哀悼するポリティクスを切り拓いた」のである。
ここでいう「追悼/哀悼」とは、単なる死者への弔意ではなく、「死をもたらす政治への抗いと地続きにある行為」として位置づけられる。その抗いの主体は、「血縁や地縁による共同体ではなく、不可視化された人々や他地域の軍事化に抗う無数の人々を含む新たな共同体」へと拓かれていくのである。
目取真俊の『眼の奥の森』の分析にあたり、佐喜真氏は、アルジェリア解放闘争に参加した精神科医フランツ・ファノンが提唱した「植民地戦争性精神病」の概念に着目する。ファノンによれば、植民地支配のもとで白人の攻撃性は黒人の内面へと転移し、その結果、黒人は自己を否認し、さらには他の黒人に対して暴力を模倣するようになる。
『眼の奥の森』に登場する盛治と小夜子のあいだには、いくつもの断絶が横たわっているように見える。しかし佐喜真氏によれば、「自らの精神の分裂に触れ、社会規範への心的服従を回避しようとするときにこそ、この断絶は超えられるのかもしれない」。なぜなら、その瞬間に、「脱植民地化の闘いは始まる」からであるという。
本書では、他にも目取真の「群蝶の木」と崎山多美の「月や、あらん」が取り上げられ、丁寧に読み解かれている。そこに一貫して流れているのは、「哀悼される生とそうではない生を区別する社会の認識的な枠組みが変容されなければならない」という強い問題意識である。誰が悼まれ、誰が不可視化されてきたのか。その線引きがいかに共同体のあり方を規定し、さらには軍事化を支えてきたのか。本書は、その問いを文学作品の読解を通して鋭く照射していく。
以上のように、本書は、人文社会科学の知見を縦横に駆使し、学術的な精緻さと社会運動への実践的関心が緊密に結びつけられている。沖縄をめぐる議論に新たな視座をもたらす、きわめて示唆に富む一冊である。(おにし・やすみつ=三重大学教授・日本近代文学)
★さきま・あや=立教大学・法政大学非常勤講師・沖縄文学・フェミニズム研究。沖縄県那覇市生まれ。論文に「「他者」を聞きとるということ――崎山多美における音の考察を通して」(『言語社会』)など。
書籍
| 書籍名 | 生き延びたものたちの哀しみを抱いて |
| ISBN13 | 9784326654536 |
| ISBN10 | 4326654538 |
