- ジャンル:特集
- 著者/編者: ユルゲン・ハーバーマス
- 評者: 三島憲一、出口剛司
対談=三島 憲一×出口 剛司
追悼=ユルゲン・ハーバーマス
「哲学者にして社会学者」であった不世出の理論家
ドイツの哲学者・社会学者ユルゲン・ハーバーマス氏が三月一四日に九六歳で亡くなった。また、逝去と時を同じくして、『ハーバーマス回想録 この世界が少しでも良くなるには……』(岩波書店)が三島憲一氏の訳で上梓された。
三島氏と、社会理論を専門とする出口剛司氏に対談をお願いし、ハーバーマスの思想とその人を振り返っていただいた。(編集部)
出口 まずは今回三島さんが訳された『ハーバーマス回想録』のことから始めたいと思います。ハーバーマス自身が、「哲学者にして社会学者」と称されることに満足していると述べている点に関心を持ちました。今の社会学には、彼の提示したような骨太の理論フレームを作って議論する人がいません。社会理論と社会学が分かれてしまっていて、後者は生活世界の記述だけに流れていく傾向がある。その中で、自分は社会学者でもあり哲学者でもあるというハーバーマスの自己認識は私にとって非常に励みになります。
彼はあるところでは、政治哲学の議論に偏頗しすぎなのではないかと批判されることがあります。哲学者なのか、社会学者なのか、政治哲学者なのか、あるいはマイケル・ブラヴォイの言う公共的知識人なのか。ハーバーマスという人物はトータルでどのように捉えればよいのでしょうか。
三島 難しいところです。彼は文学研究にも芸術にも通じる議論をしていますから。しかしやはり根底的には哲学者でしょうね。そして哲学者だということは、そのまま社会哲学者でもあります。近代にあっては、社会のことを論じない哲学は哲学の名に値しない、という意味においてです。近代哲学そのものの定義の中に、社会哲学が含まれている。古代においては、ハンナ・アーレントの言う通り哲学は政治哲学でもあったけれども、近代はやはり政治よりも社会の方が重要です。社会から政治や国家が立ち上がってくるという発想があるからです。その意味で、ハーバーマスは社会哲学者と呼ばれるべきでしょう。
これは出口さんこそ詳しいでしょうけれど、社会学はある時期以降、理論よりも具体的な調査を重視するようになりました。エビデンス好きの今の社会学者から見たらハーバーマスは煙たい存在でしょうね。
出口 現在はSNSのテクストを分析したり、ビッグデータを用いて人の行動履歴を調査したり、あるいはAIを用いて社会実験を行ったりする実証研究が増えつつあります。ハーバーマスが見ていた時代よりもさらに脱人格化した社会調査が主流になりつつある印象です。もちろんその背景には、アンケート型の社会調査やインタビュー調査が、調査環境の変化、調査倫理やプライバシーの問題も含めて、実施困難な現状があるのですが。
三島 それはもう社会学ではないですね。行動学などと呼ぶのがよいでしょう。フランクフルト大学の社会研究所での調査は、ほとんどがいわゆる質的調査で、十人程度の平均的市民に謝礼を払って集まってもらい、特定のテーマについて議論をしてもらいます。その議論を全部書き起こして、分析するのです。外国人について寛容な意見でも、ちょっとした表現の中に実は偏見が潜んでいること、いざとなれば外国人を追い出す側に回りかねないことなどを読み取る作業で、膨大な時間と費用ががかります。ホルクハイマーたちは、20年代後半から30年代にかけてのライン地方の労働者の調査から、彼らの表向きの意見と異なって、いざとなったらナチスに抵抗はしないことを知って、亡命の準備をしていました。
ハーバーマスはボン大学でシェリングの研究で博士号を取った際、哲学に絶望したと語っています。確かに50―60年代のドイツ哲学は、一般社会のことについては発言もしないし考えもしなかった。プラトン、アリストテレス、デカルトやカント、ヘーゲルの細かい研究をするのが普通でしたから。フランクフルトのアドルノやホルクハイマーたちだけが唯一、伝統的な哲学のテクストを研究すると同時に、それと矛盾なく現代社会について語っていた。むしろテクスト解釈によって現代社会が語れるようになるし、あるいは逆に現代社会を語ることによって個々のテクストもよく見えてくる。この相補関係を体現していたのが、ドイツではフランクフルト学派で、フランスではサルトルでした。ハーバーマスは若い時はサルトルを非常に高く評価していました。その理論というよりは、哲学研究とフランスの現実を批判することが結びついていた点を評価していたのでしょう。
出口 『回想録』において、史的唯物論の再構成についての議論があります。やはり当時は「社会」というものが、ハーバーマスの前にすごく強固な形で実在していたのだろうという印象を受けました。その確固たる社会を捉えるために、一方では唯物史観、他方ではパーソンズに由来する機能主義を組み合わせて、システム化した社会を批判する枠組みを作り上げた。これが当時の日本の社会学者にも非常に大きなインパクトを与えたし、社会学理論はルーマンかハーバーマスかというくらい、強い影響力を持ちました。
しかし90年代以降、状況が大きく変わります。例えばバウマンは、「個人化」や「液状化」といった概念を提唱します。批判すべき「社会」というものが、新自由主義のなかで形をなくし始め、社会の構造や制度が抑圧の主体ではなく不透明なものとなって不可視化されてしまったのです。この状況の中で、社会理論という領域は成り立ちにくくなってきています。
三島 ハーバーマスにおける史的唯物論の再構成という議論は、マルクスの危機の弁証法を継承しながら――弁証法は危機の論理と彼は再三述べています――そこから距離を取っていると言いうるものです。彼は、近代社会が資本主義社会であることは変えられないという事実に立脚します。その上で、アダム・スミスと同時期にカントのような個人を重視する思想家が登場したことに注目した。両者は矛盾し合っているけれども、一緒にしか出てこなかったというわけです。
経済成長が進んだ戦後の組織資本主義においては、国家が税金を通じて資本主義を支えるようになります。このとき、人々が当たり前だと思っていた伝統的なものの考え方や制度が再生産されなくなってきました。経済成長のための周辺条件であったものが、経済成長することによって消えていったのです。例えばジェンダー配分、そして夫婦同姓や会社のなかの年功序列です。すると、キャンプやヒッピー、芸術家のなりそこない、若者や学者の卵といった人たちが、伝統をいっそう批判する議論を押し出していきました。経済的に豊かになると、伝統とされたものが問題化されるようになると、ハーバーマスは明瞭に書いています。資本主義にも伝統はある程度必要だけれども、新しい考え方をする人たちが育ってきて、制度的な習わしが崩れていく。そしてそれは希望でした。
しかしその希望は、革命の主体としての労働者階級に期待したマルクスの発想と同様につぶれていきます。70年代・80年代に伝統を批判していたような人たちは、今は新自由主義のなかで金融テクノクラートになってしまう。もちろん同じ人物ではありませんが、社会に組み込まれたくない人々は、比較的自由なネット金融系の仕事に向かいます。ハーバーマスもネオリベラリズムへの批判は80年代後半から激しく行っていますが、資本主義の変容までは計算に入れることができませんでした。そもそも誰も予想なんてできなかったわけですが。労働者の一部は市民化して豊かになり、オルタナティブな生活スタイルを求めた人たちも大きな力にならない。社会の全員が経済に、そして権力に取り込まれている現状を前に、最後は絶望して亡くなっていったのではないでしょうか。一年少し前に亡くなった奥様のウーテさんについて、今の政治や戦争を見ないで彼女が亡くなったのはせめてもの幸いだったかもしれない、と友人に語っていたそうですから。
出口 とはいえ、ハーバーマスが言語の中に埋め込まれた合理性のポテンシャルを汲み出したのは、決して絵空事ではなかったとも思います。言語を用いて人々が合意へと導かれる運動は、強固な社会をシステムが強引に作り上げていく運動とパラレルに成長していく。この二つは、生活世界とシステム、あるいは合意と権力といった形でしばしば二項対立的に語られてきましたが、振り返って見ると、両者は対立しつつも併存してきていたとわかります。
しかし現在、システムの方が崩れてしまい、同時にコミュニケーションも成立しなくなってきたように思われます。例えば日本的経営や護送船団方式といった制度は、かつては強固に見えたけれども、今や非常に脆くなっている。終身雇用制がもう成り立たないのも象徴的です。システム自体は回っているように見えますが、むしろ中は空洞化しています。そして、この状況下で再びシステムを立ち上げるために、言語やコミュニケーションが大きな影響力を持つはずなのですが、それをするだけの社会と個人の双方のパワーがなくなってしまっている。これが問題なのではないでしょうか。
三島 一応、貨幣をメディアとした経済システムと、権力をメディアにした国家システムは機能していると私は思います。偶然性による不具合はいくらでもあるし、世界崩壊に帰着する可能性もありますが、システムは働いている。ハーバーマスは、システムと生活世界の対立性と同時に相互補完性を強調しましたが、一方で気を付けなければならないのは、彼は理性のポテンシャルなんて実現しないとわかっていたという点です。だから理性の「痕跡」という表現をするのです。
理性の痕跡は、例えば法律規範に表れます。基本的人権、例えば言論の自由、職業選択の自由などの基本権は、一応明文化されて法典に書き込まれています。しかし、それが日常生活でフルに実現できているなんて誰も思っていないわけです。だからこそ「社会的暴力」という概念も成り立つ。職場では女性の方がやはり不利だし、上司と部下の関係は全く民主的ではない。ハーバーマスの思想は現実にはかなりペシミスティックです。しかしそれでありながら、基本権という形で理性の痕跡が日常生活に存在はしていて、実現可能性もまた否めない。それを少しずつ広げていくことに希望を見出していたのです。
かつて、中国で反体制派の学生とハーバーマスが議論した時、学生が無邪気に「あなたはペシミストかオプティミストか」と聞きました。するとハーバーマスは、「理論的にはペシミストだが、現実には私はオプティミストのふりをしなければならない」と言ったそうです。この意味で、ハーバーマスに啓蒙主義のオプティミズムを帰するのは全くの誤解です。ドゥルーズがハーバーマスを冷やかして「理性の小役人」と呼んだのは、フランス流のエスプリとしては面白いけれども、全くハーバーマスのことをわかっていない発言ですね。
それに、理性なる実在はないわけです。理性そのものを見た人は誰もいません。法律規範や文化、人間の愛、芸術や文学などといった側面に、理性は分化しています。その中に、若干の規範の形で理性の痕跡が実現している。人間と人間は本当にわかり合えるのか、などといった問いをある若い社会学者がどこかの雑誌の論文でカッコ良さそうに発していましたが、そんな次元の話をハーバーマスはしていません。そういう問いを発する人は、まだ主体の想念もしくは主観性の哲学にとらわれています。特定の事柄についての意見の一致が可能かもしれないことを論じているだけです。例えば憲法九条のような規範の形成へと人々が一旦合意できるということです。もちろん合意しても、その内容について、次の瞬間にはその解釈が分かれて、また合意が可能かもしれないといういわば超越論的前提の上で議論が進むわけです。その一致と不一致の連鎖を理性の痕跡と呼んでいるのです。
現在の状況は、出口さんの抱いている印象に反して、むしろシステムの力が強すぎるのではないでしょうか。アドルノは、誰も物象化から逃れられないということを「物象化の連関」と称しましたが、フランクフルト社会研究所の所長であるレッセニヒに言わせると、我々は「取り込まれの連関」の渦中にある。どれだけAmazonに反感を持っていたって、急を要する事情があれば注文せざるを得ませんよね。新自由主義の結果、世論の力――ハーバーマス的に言えば生活世界の公的な議論の力――が弱くなっている。ただ、どんなに弱くなってもゼロではありません。システムも世論の力を完全に無視はできない。
出口 確かに、貨幣は実在的な形をとらなくなっても依然として存在はしています。官僚制度も、官邸主導と規制緩和が進んでも然りです。その意味でシステムは未だに強固に機能しているのですが、他方で労働や家族を土台に社会を回していくとなると、もはや今までのような形でシステムを盤石に維持することはできません。システムが弱まっているがゆえに、例えばナショナリズムなど盲目的な力を外挿的に動員し、弱体化したシステムを補完しているように思われます。我々は、生活世界と政治・経済システム、これら二重の弱まりが見られる社会の分局点に生きていると言えないでしょうか。
三島 パーソンズやウェーバーの議論から明らかなように、経済システムと国家システムは絶えず複雑化し、分化して変容してきています。今のネオリベラル社会では、正規社員が減って、UberやAmazonの配達員になり、生活世界の負荷が増大します。考えるべきはこの二つのシステムの関係です。後期資本主義が問題となっていた頃は、税金によって国家が資本主義を助け、その恩恵によって福祉社会が実現する、その福祉社会の空疎さに焦点が与えられていました。第三世界の犠牲や年金行政の冷たさが問題となっていた。
けれども後から見れば、福祉国家のシステムはうまくいっていた方でした。今は戦争や環境問題によって社会は破局に向かって突き進んでいる。権力システムはネイションステイトに区切られてしまい、ハーバーマスが盛んに論じたEUも政治的統一体にはならなかった。そして最も強力な国家であるアメリカにおいてその矛盾が露呈しています。問題は、経済と国家の関係が不透明になっている点です。これはハーバーマスが晩年には正面からは扱わなかった問題ですね。
出口 90年代や2000年代のデフォルメされた図式ではありますが、当時はハーバーマスの社会理論と「生活世界の植民地化」概念によって色んな社会矛盾が説明できました。しかし、政治/経済システム、あるいはそれらと生活世界の境界線がその頃とは違った形になってきているということに、社会学者は皆薄々感づいています。ですが、それを説明する社会学の理論はまだありません。現状を実証的に把握することに集中しているのが現在の社会学だと思います。
三島 「生活世界の植民地化」で想定されていたのは、マンションのローン返済に追われ、子どもの教育も人生上の戦略でしかないといった形で、本当の対話が消滅した生活状況でした。ところが今はそれを越えてしまっている。あるいは一生Amazonの配達員で、またあるいは父親を亡くした母子がお金もなく暮らし、死んでいく。世界的には難民問題です。戦争ばかりではなく、経済的な理由による難民が大部分を占めている。しかしハーバーマスの段階の理論では、やはり経済と国家の関係が世界システム的な議論の俎上に上りません。
出口 あるいは反対に、病んだ生活世界が逆にシステムを侵食していく現象もみられます。例えばカスタマーハラスメントは、経済システムに対して、過剰に肥大化して歪んだ承認欲求がぶつけられている現象と理解できます。システムが変容して生活世界に新たな負荷をかけたことによって、生活世界が歪み、今度は逆にシステムの良い側面を腐蝕してしまう。ゲーレンやルーマンは、制度やシステムが複雑性の縮減という形で人間あるいは生活世界にかかる過剰な負荷を軽減するという積極的な役割を果たしていると考えました。しかし、福祉国家的な制度やシステムが弱体化すると同時に、「生活世界によるシステムの腐食」と言うべき事態が生じます。ハーバーマス自身、システムの積極的な機能を認識していたものの、このような現実は植民地化テーゼだけではうまく説明できないように感じています。
三島 古典的なアイデンティティが崩壊しつつあります。一応、ハーバーマスの理論でも、伝統的な市民社会以来の価値観が崩れていく問題は説明できます。そこで従来の男性の役割が相対化されると、いわば「切れてしまう」現象も目立つようになるのではないでしょうか。「ジェンダー」と言っただけで逆上する、あるいはジェンダー関係の市民講座を辞めさせる動きもそこには生じます。
出口 『回想録』で強く印象に残っているのが、「学習過程」という概念の重要性です。これまで人類の歴史の中で様々な試行錯誤が繰り返されてきました。それが学習され、制度として蓄積し、社会の安定性や改善をもたらしてきた。しかし今の時代、学習過程は果たして可能なのでしょうか。ハルトムート・ローザは「加速」という概念を提出していますが、それに即するなら、現代は社会の変化が加速している時代であり、学習することが難しくなっていると言えます。その場その場に適応していくことだけを考えてしまい、失敗や成功の体験を制度やシステムとして蓄積することが難しくなっているのではないかと。
三島 もともとハーバーマスは「批判」と「反省」というキーワードから思索を出発させました。社会システムについての反省的な自己批判です。その一環で、ヘーゲルやマルクス、フロイトを評価しながらも彼らも最終的には「実証主義」の陥穽に陥ってしまったとして論難することになります。この場合の実証主義は、経験的なデータに基づいて議論するという意味ではなく、法則定立的に歴史の道行きを指し示す学問という意味です。Positivismusはもともとラテン語のponere:確定するという語からきていますから。ハーバーマスは、個別科学の実証主義的な側面を歴史的に批判していきました。フロイトも精神疾患のカタログ的整理に陥ってしまった、ということです。
次いで間主観性を重視する時期になってから、学習過程と進化の概念を打ち出します。人類の何十万年の歴史自体を、学習過程と呼ぶわけです。近代における学習成果の代表が人権でした。しかしここで重要なのは、あまり強調されないのですが、学習過程には必ず退行[regression/Rückfall]があるということです。ある段階までの学習をやめて、強引に元に戻そうとする現象が起こる。例えばナチスのように、すべての基本権を無視した行動をとることになるので、非常に悲惨なことになります。特に19世紀以降、様々な歴史的な悲劇が退行によってもたらされました。学習過程は必ず退行を伴うことを含んで考えねばなりません。出口さんがおっしゃったカスタマーハラスメントなども、一種の退行と見るべきでしょう。
ただ、現在起きていることの全てを、学習過程の退行とだけ捉えて済むかどうかには疑問があります。今、何を学習すべきなのかわからなくなっているからです。基本権を深化させる道しかないでしょうが、それをどうやって実現させるかを見出す学習過程はまだ進んでいません。自然科学は生命の神秘などをどんどん学んでいくでしょうが、そこに退行が潜んでいないとも限らない。ハーバーマスが遺伝子工学に加えた批判は、自然科学の進歩による退行現象を何とか止めようとする試みだったと捉えられます。
出口 とはいえ、自然科学的な発見が退行を引き起こす可能性がある、と認識できるところには、まだ学習過程が辛うじて機能している証拠があるように思われます。この文脈で気になるのは人工知能の問題です。『回想録』でも触れられていましたが、身体のない知能を彼は問題視していました。これと遺伝子工学の発展はパラレルではないでしょうか。つまり、人工知能の発展の過程とは、人類の学習過程を無効にしてしまうプロセスなのではないか。人々が人工知能に恐怖を抱くのは、シンギュラリティに到達して人間の予想を超える独自の意識を持つに至り、自律的に発展し始める危機を想像しているからだと思います。
出口 遺伝子工学に対する危惧も同様で、人間の自己決定やアイデンティティを越えたところで物事が決定されていくことに危うさを覚える。そのなかで、ハーバーマスが「身体」という言葉を持ち出したのが、私には違和感と新鮮さをもって受け止められました。彼は身体というものをあまり重視していないように読まれがちだからです。
三島 ハーバーマスは、日常生活で我々が重視するものは当然重要だと前提しています。我々の身体性と自由はつながっています。例えばあいつのあの仕草が気に入らないとか、あの政治家の笑顔は作り笑いだとか、そのような身体的で感情的な要素は、理屈とは別に日常的に問題になり、当然のことながら我々の判断に影響を与えています。日常生活のいわば文法です。そのことはハーバーマスも先刻承知のことでしょう。対面での相互交渉での同意にはそうした身体的側面での反感がないことも必要でしょう。
他方、遺伝子工学で何らかの才能を与えられた人は、例えば家業を継ぐかどうかといった一昔前の仕方では自分の人生を選ぶことができません。親の言いなりになるように人格をデザインすることも可能になるかもしれない。さらにここにAIの問題が加わるとなると、もう社会学では手に負えません。素朴なヒューマニズムでしか歯止めが効きませんが、それは利益があればすぐ破棄されてしまう無意味なものにすぎません。ハーバーマス自身は、デジタル革命にも十分に人類が適応しきれていない時にもうAIが出てくる、学習過程が追いつかないといったことを述べていますね。
出口 こういった問題に直面するとき、私は彼の論じたユダヤ神秘主義の議論を想起します。ユダヤ神秘主義には「神の収縮」という考え方があります。いわゆる正統派の教義が形骸化し桎梏と化したときに神秘主義は勃興するのですが、その際、正統派の概念を踏襲しながらも、信仰の力の方をより重視するようになる。教義によって拡張された神を、個々人のなかに収縮させるイメージです。神秘主義にはそういった役割があるのだと言われます。
ところで、今の人たちは何かを選択するということに苦痛を抱えているようです。「メンパ(メンタルパフォーマンス)」という言葉があります。選択肢がたくさんありすぎると「メンパが悪」く、お手上げになってしまうようなのです。そうしたときに、一旦自分のなかに収縮してみて、避難所に隠れてみることに希望はないか。学習過程や自由を取り戻すために、そういった隠れ家のようなものが社会には必要なのではないでしょうか。たぶん社会のなかには既にそういった場が先駆的に存在していて、社会学者が発見していなかったり名づけられていなかったりするのでしょう。これを見つけていくことが、ハーバーマスが80―90年代に行ったことを新たな形で生かしていく出発点になるのではないかと。神の収縮は、形骸化した教説、この場合は概念や理論を活性化させる道筋を示すメタファーかもしれません。
三島 神の収縮は、神の不在を意味しえます。だから一方には、これからは人間たちだけでやっていかなければいけないのだ、とする理解の仕方があります。ハーバーマスのコミュニケーション論はこの方向ですね。他方で当然、敢えて神を信じて隠者になる選択もあります。しかし、そこには矛盾があります。不在の神に祈るわけですから。シェリングはまさに、歴史的に実現していない絶対者の実在を信じる、ということの矛盾をまとめきれませんでした。これをハーバーマスは博士論文で問題にしている。神の収縮の問題は彼の一生のテーマですね。ハーバーマスの理論においては、神の収縮後は人間が公共圏におけるコミュニケーションを通じてやっていく以外にないのだという発想です。隠者的な発信を社会全体に絡み合わせるというモチーフが認められます。
あるいは「偶像禁止」の読み替えです。公共圏はまさに偶像禁止を実践した概念でした。マルクスと違って理想社会を描かない。それを描くとマルクス主義国家のように権力の横暴につながるからです。個々別々の選択のなかで浮かび上がる抽象的な理念以外に、理想社会の設計図を描いてはならない、という形でユダヤ神秘主義を公共圏の理論へと読み替えていったのが、ベンヤミンにもショーレムにもできなかったハーバーマス独特のポイントです。
ハーバーマスが博士論文で引くヤーコプ・ベーメは「すべての無は存在を求める」というテーゼを提出しました。個々別々の、一人ひとりの発言もまた無から飛び出すわけです。伝統的な形而上学、あるいは神秘主義を、現代の我々の等身大の世界に読み替えた点は、ハーバーマスの大きな貢献でしょう。
出口 現在の社会にはポピュリズムとナショナリズムが広がっていますが、国際エーリッヒ・フロム研究所の所長ライナー・フンクは、この現象を権威主義的パーソナリティではなく、ナルシシズムで説明します。権威主義のように上下関係や支配で繫がるのではなく、仲間同士で繫がって仲間でない者を切り捨てる、そのようなナルシシズムです。先ほどの神の収縮のメタファーとの関係でいえば、ナルシシズムもまた自己の内面へと収縮するプロセスと言えるのではないでしょうか。社会関係からどんどん撤退して同質的なものだけが集まってくるプロセスは、要するにコミュニケーションから撤退する過程なわけです。
それに対して、病理的でない形でコミュニケーションからいったん切り離して自分自身を充実させ、そのあとで再びコミュニケーションの回路を開いていく――そうした道筋を理論的に再構成することができれば、ハーバーマスの哲学をこのナルシシズムの時代に響く形で生かすことができるのではないかと思うのです。形骸化し桎梏と化した理論を再活性化する。ただ、実際の社会では一部の裕福な人以外にはそうした実践は難しい。だから、抽象的に言語化するのではなく、社会の実情に合わせて実現可能性を検討しなければならないと思います。
三島 ポピュリズムがナルシシズム的な側面を持っていることは確かですよね。ただ、それ以外にも経済的な問題など様々な側面があるので、複雑な現代社会を一つのキーワードですべて説明してしまうのは難しいでしょう。ナルシシズムにも浸れずコミュニケーションする余地もない、例えば朝から晩までAmazonで仕分けをしているような、世界から切り落とされた膨大な数の人たちがいるわけです。そういう人たちをドイツのAfDやトランプ大統領が取り込んだ。これは政治的な力によって封じる以外の手はありません。つまり、コミュニケーションによって形成されたる世論の力という意味での政治ですね。もちろんそれは弱いに決まっている。世論には理性の痕跡しか現れません。けれども、今の日本を見てもわかるように、基本権は政府も無視できません。そこに賭けるしか可能性はないでしょうね。反対言論によって政府を取り囲むというのが、『コミュニケーション的行為の理論』の結論です。
それに対して『事実性と妥当性』はもう少しおとなしくて、反対の言論が、やがて国会を通じてさまざまな合理的な規範へと形成されていくという言論の「回路」の理論のほうが勝っています。これは、90年代のドイツには当てはまるかもしれませんが、今ではどうでしょうか。「攻囲」もしくは「包囲」のイメージの方がいいのではないかと思っています。もっとも、『事実性と妥当性』の後半部は、多様な表現形式を持った多様な社会運動が予期せざるコンステレーションを作って、新たな規範を作り上げていくという、ある意味では社会運動の讃歌でもありますが。
出口 社会が流動化して理性の痕跡みたいなものの形が見えなくなってきている現状があるように私は感じますが、それは我々が80―90年代的なものの見方で社会を見ているからで、崩壊しているように見えるもののなかにも実は評価しなければならない要素が残っているかもしれない。現象を見るフレームを刷新していき、崩壊の痕跡であると同時に未来につながる道筋でもあるものを発見できる社会理論が必要だと思います。
三島 しかし大理論はもう不可能でしょうね。ハーバーマスは、マルクス、フロイト、ヴェーバー、パーソンズ、デュルケーム、それにピアジェやミードといった色んな人々の理論を組み合わせた人で、パッチワークのままにしてキャッチフレーズを作らなかった。これは彼の諦めでもあり、偉いところでもありました。折衷主義者と言われる所以にもなりましたが。希望があるのは、彼のようなパッチワークか、あるいは個別分野の社会運動の理論。そのどちらかでしょう。
出口 おっしゃる通り、個別の色んなテーマに即した社会理論が求められているのだと思います。現在の社会学はただ現象を記述することに終始する傾向にありますが、社会理論となると、そこに存在している理性の痕跡を再構成することが必要になります。
三島 規範性抜きには記述することもできませんからね。どんな記述にも記述者に自覚されていない何らかの枠組みと基準があるはずです。そのことへの批判的反省はすでに『認識と関心』が要請しているものです。あるいは、そうした仕事の社会的位置についての自己反省です。
〈2面よりつづく〉
三島 ハーバーマスが手を付けられなかった課題に、先進経済圏と発展途上国との格差の問題があります。特に彼の最初の著書である『公共性の構造転換』の頃は、イマニュエル・ウォーラーステインの『近代世界システム』は未発表でしたから、国家間格差の問題を認識していなかった。そこに欠陥があると自ら告白しています。
その意味で興味深いのは韓国やフィリピンなどアジア諸国の社会学者の活動です。韓国はもともと大変な貧困国でしたし、今も一般的に第三世界の問題に敏感な人が多いようです。第三世界と交流するなかで社会学を行ったら非常に良い展望が開けるのではないでしょうか。
出口 大きな宿題をいただいたような気がします。
経済発展した資本主義国とそうでない国との断絶や境界に、今まで目を向けてこなかったという反省をハーバーマスは抱いていて、それが『回想録』のなかではポストコロニアルな問題として言及されている。日本でもポストコロニアリズムの議論は90年代に流行したのですが、文学研究のなかで語られるだけで深くは進まず、社会学者は現実のポストコロニアル状況にまで関心を持ちませんでした。ここでその状況と矛盾に満ちた経済成長のプロセスを見つめ直すことで、初めて新たな学習過程がスタートするのではないかと思います。
三島 シャリーニ・ランデリアという非常に優秀なインド人の学者がいます。ハーバーマスが講演をした際に彼女は、「あなたの学習過程と進化の理論はインド社会には当てはまらないのか」と質問しました。ハーバーマスはまじめな人だから、1分くらい考えて、「無理だろう」と言ったのです。ヨーロッパ近代の経験を踏まえた理論だからです。シャリーニは激怒しました。「またヨーロッパ中心主義だ」と。私はそうではないと思います。コミュニケーションしさえすればみんなうまくいきますよ、なんて言えないわけですから。ハーバーマスは誠実でした。
一方で、ここに限界があるのも事実です。彼の理論は豊かな先進国には当てはまるけれども、第三世界との複雑な絡み合いによって形成されている今の世界を、思想的にも現実的にも説明することができませんでした。これを乗り越えるためには、まずは第三世界の人々が何を考えているか知らないといけません。以前台湾を訪れたときに、偶然興味深い催しに参加しました。そこでは南アフリカの知識人を招待して、アパルトヘイトを止めた後の和解の問題を扱っていたのです。台湾にも先住民族との不協和音があるからです。これこそ広い意味での国際的な生活世界の交流ですよね。
出口 社会学には、ドラマトゥルギーやエスノメソドロジーのような人類学者のようなまなざしで自らの社会を観察する伝統があります。その点で、他国の文化や言語を学んで自分の社会を見直してみるプロセスは、一つの学習過程として重要な意味を持っていると思います。
――西洋に留まらない領域にハーバーマスの思想の展望が開けるのですね。しかし、それではなぜ彼は、イスラエルを擁護してガザへの暴虐を見過ごしてしまったのでしょうか。
三島 実は、そこには誇張が含まれているのです。まず、ハーバーマスはもとより、現実を見間違うことのある人でした。例えば、1999年のNATOによるコソヴォ爆撃に彼は賛同しました。これはコソヴォ政府の謀略によるもので、ヨーロッパの新聞にセルビアの悪行がプロパガンダされたのを彼は真に受けてしまったのでした。コンテクストのなかにいる人間は必ず間違います。後に自分でそのことを認めてはいますが。どんな哲学も思想も間違いがあるという可謬性の理論は、彼の知的枠組みの柱の一つです。ヴェーバーもポーランド人について酷いことを言っていますし、カントも植民地主義には断固として反対していましたが、情報不足もあってかもしれませんが、あるいは誤った情報に依拠してかもしれませんが、人種差別的な酷い発言もあります。他大学についてひどい発言を内輪の席でした東大の批判的陣営の先生の例もいくつか挙げることができます。
今回のイスラエルの問題では、「適切性を欠いた爆撃に対する人間的な顧慮を持ちつつも、イスラエルの国家の生存権は認める」とした文書にサインしました。文書そのものは、ドイツの大規模科研みたいなものをやっているハーバーマスと親しい人たちが書いたものでしょう。彼は往々にして、政治的文書に軽率にサインをするのです。確かにイスラエルの生存権は認めるべきだと私も思います。イスラエル国家を崩壊させたらそこにいる800万の人々が難民になりますから。ヨーロッパは口先ではいろいろ言っていても引き取ることはないでしょう。しかも、彼はサインした上でネタニヤフを若干批判しています。この点で、ハーバーマスはイスラエルを完全に擁護したわけではありませんでした。
しかしその後が問題です。彼はイスラエルによる猛爆撃に対して沈黙してしまった。サインしたことや語ったことではなく、黙っていたことの方が問題なのです。ここには、ドイツの知識人として、「お前は反ユダヤ主義者だ」と言われることを何よりも恐れる心理が働いていたのではないかと思います。イスラエルの力の前に屈服したも同然です。ハーバーマスはユダヤの知識人と非常に仲が良く、イスラエルにも頻繁に訪れていました。そんな彼が一筆、「イスラエルはやりすぎだ」と書けば多少の影響力は発揮されたでしょう。しかし黙っていた。これは失敗でしょうね。もちろん、これをもって彼の理論全体を否定するほどの失敗ではありません。ホロコーストの記憶の文化を作り上げるのに大いに寄与した存在として、やはりホロコーストの重圧の中にいたためかと思います。老衰で相当に弱っていたことも確かなので、本当のところはよくわかりませんが。
出口 ハーバーマスの誤りと周囲が曲解しているところとの線引きは大事だと思います。誤りの一つは、コンテクストのなかに入り込んでしまって正しい判断ができなくなってしまった問題です。そしてもう一つは、声を上げるべき時に沈黙してしまった点。ただ、共同声明の中身を見ると必ずしも全面的なイスラエル擁護ではなく、いくつか条件が付けられているのがわかります。一つは比例原則で、あまりに度を越した攻撃は許されないということ。二つ目に、民間人の攻撃はしてはならないということ。三つ目に将来に和平の展望があることが重要であるということです。こうした観点から見ると、現状は決して正当化されない。
これら三つの条件はまさにハーバーマスの思想から出てきた原則だと思います。普遍的な人権を言論によって擁護する発想がベースにある。熱烈にハーバーマスの肩を持つ必要もないし、逆に執拗に批判するのも間違っていて、どの点は正しく、どこでどう間違ったのかをきちんと理解することが必要だと強く感じます。そこから、ハーバーマス自身の提案も批判と討議の俎上に載せられる。ここにこそ、論争を通して自己の理論を彫琢してきたハーバーマス自身のめざした地平があるように思います。(おわり)
★ユルゲン・ハーバーマス(一九二九―二〇二六)=ドイツの哲学者・社会学者。デュッセルドルフ生まれ。フランクフルト学派第二世代に位置し、第一世代の批判理論を継承しつつ、独自の理論的地平を開いた。著書に『公共性の構造転換』『コミュニケイション的行為の理論』など。
★みしま・けんいち=大阪大学名誉教授・社会哲学・ドイツ思想史。著書に『ベンヤミン』『ニーチェ かく語りき』、訳書に『人間の将来とバイオエシックス』など。一九四二年生。
★でぐち・たけし=東京大学大学院教授・社会学。著書に『エーリッヒ・フロム』、訳書に『テクストとコンテクスト』など。一九六九年生。
書籍
| 書籍名 | ハーバーマス回想録 |
| ISBN13 | 9784000617482 |
| ISBN10 | 4000617486 |
