福音書の隠れた難所
大貫 隆著
嶺重 淑
二〇世紀以降、聖書の学問的研究は飛躍的な進歩を遂げてきたが、だからといってあらゆる疑問が解明されたわけではなく、いまだに意味不明な箇所は無数に存在している。本書は、福音書の中のそのような「難所」、それも一読するだけでは気づかない「隠れた難所」を五つ取り上げ、詳細な検討を通してそれぞれの箇所の真意を見極めようとしたものである。著者の大貫隆氏はわが国を代表する新約学者であり、それだけに本書はすでに多くの注目を集めている。
まず第一章では、「死体のあるところにはどこでも、そこに禿鷹たちが集まるであろう」(マタイ二四・二八/ルカ一七・三七)というイエスの発言が取り上げられる。この不吉な言葉はこれまで謎でしかなかったが、著者はプルタルコス(後一/二世紀)やルクレティウス(前一世紀)の著作の中に顕著な並行例を発見し、この言葉がもともと禿鷹の超能力を称えるヘレニズム文化圏の格言であったことを突き止めた。そしてこの格言は、ヘレニズム・ユダヤ教を経てパレスティナのユダヤ社会にも受容され、さらにイエス自身がそれを独自の神の国の宣教に適用し、「神の国」のイメージ・ネットワークに組み込んでいったことを様々な分析を通して論証している。著者は、毎朝の日課としているギリシア語やラテン語の原典の読解を継続していく中で偶然この並行箇所を発見したとのことであるが、その意味でも、この成果は著者の日頃の研究姿勢の賜物と言えよう。
第二章では、ルカ一七章二一節の「神の国はあなたがたの中にある」というイエスの発言の中の前置詞「エントス」の意味について論じられる。その代表的な解釈として、①「(あなたがたの)内面に」、②「(あなたがたの)間に/只中に/枠内に」、③「(限られた空間)の内側で/手が届く範囲で」の三つが挙げられるが、著者は古典的な①の解釈を支持する。そのことを根拠づけるため、著者はまずルカ一七章二〇―三七節におけるルカの編集作業に注目し、ルカが前述の禿鷹の言葉(三七節)を、Q資料の段階では一体であった稲妻の閃きの言葉(二四節)と分割することにより「囲い込み」を構成し、さらに先行する二〇―二一節と結合したと考える。その結果、神の国は「ここ」や「あそこ」に見られないとするイエスの言葉が繰り返されることになり(二一、二三節)、それによって神の国は、一方で宇宙大の可視性から(二四、三七節)、他方で内面的不可視性から(二一節)、外的な場所に限定され得ないことが示されるというのである。
続く第三章では、マルコ四章一二節におけるイザヤ書六章一〇節からの引用に含まれる「メーポテ」が扱われる。通常この箇所は、この語を否定の目的文を導く接続詞と解して「立ち帰って赦されることがないようになるためである」と審判預言の意で訳されるが、著者はこれを蓋然性の推量を表す副詞と解し、「あるいはおそらく彼らも立ち帰り、赦されるかもしれない」と救済預言の意味で理解すべきであると多くのギリシア語テキストの用例の分析を通して結論づけている。因みに著者は、一九年前に若手研究者から発せられた問いかけを忘れずに、それに対してどのように応答するか、自問自答しながら探求を続けてきたとのことであるが、このことからも著者の真摯で誠実な研究姿勢が窺える。
第四章では「ナザレ人」と同様、イエスに付与されている「ナゾラ人」という表現について、第五章では人肉嗜食発言(ヨハネ六・五一b―五八)が扱われ、読みごたえのある論考が続いているが、ここでは紙幅の都合で割愛させていただきたい。
なお、本書の巻末には、昨年亡くなられた著者の二人の恩師、荒井献、佐竹明両氏への追悼文が付録として掲載されている。両氏はいずれも日本の新約学のレベルを世界水準まで引き上げた新約学者であるが、これを一読することにより日本の新約聖書学の発展の跡を辿ることができる。(みねしげ・きよし=関西学院大学教授・新約聖書学)
★おおぬき・たかし=東京大学名誉教授・新約学。著書に『原始キリスト教の「贖罪信仰」の起源と変容』『グノーシス研究拾遺』『ヨハネ福音書解釈の根本問題』など。一九四五年生。
書籍
| 書籍名 | 福音書の隠れた難所 |
| ISBN13 | 9784911054635 |
| ISBN10 | 4911054638 |
