島崎藤村と創作の論理
栗原 悠著
林 正子
本書は、島崎藤村(一八七二―一九四三)の一九二〇年前後に発表された中・短篇から一九三五年完結の長篇「夜明け前」までの創作活動を主な考察対象とし、当時の政治的思潮や社会思想に感応して展開された藤村の〈創作の論理〉を描出した意欲作である。具体的には、「涙」「ある女の生涯」「三人」「伸び支度」「嵐」「分配」「夜明け前」などの小説作品の分析に加え、詩人としての〈新生〉という、藤村自身による岩波文庫『藤村詩抄』編集の企図や、作家人生の〈新規まき直し〉を期す旅行記「山陰土産」の方法論によって、藤村が当時の〈社会〉といかに向き合い、創作者としての閲歴を重ねていったかが、著者の政治学・歴史学・社会学などの豊富な知見を駆使して縦横無尽に論じられている。
その際、津田左右吉、太田水穂、森田正馬、早川三代治、ヴィルフレド・パレート、ヘンリック・イプセン、エレン・ケイ、ゲーオア・ブランデスら、国内外の多分野にわたる人物から藤村が受けた具体的な影響に関する精緻な考察によって、著者は本書において〈既存の島崎藤村研究とは異なる人名索引を作る〉目標を見事に達成している。従来の藤村研究では論及されてこなかった人物や同時代言説との関連を洞察し、藤村が創作者として〈社会〉にいかに向き合うべきか、自らの指針を見出してゆく過程を描き出す著者の手腕が秀逸である。〈社会〉への問題意識と一人称〈私〉の採用による〈極私的な物語〉は、一見〈真逆〉のように思われるが、実は藤村文学の真髄を穿つ有効な視座であることが証明されている。
著者によれば、藤村の創作上の〈転回〉に作用していた〈論理的なモチーフ〉となるのが、〈社会〉に対する藤村の〈役〉の思想である。この発想は、「夜明け前」の青山半蔵に見られる〈代表〉という〈役〉に対する意固地な反発の意味を考える過程で、〈役〉を演ずるということが藤村にとって持続的な関心だったのではないか、と思い至ったことが契機とされている。
藤村の〈役〉の思想にとって、芭蕉とは〈あるべき姿を示す模範となる存在=国民詩人〉であったとみなされ、藤村が芭蕉を再評価する過程で〈社会〉への視点を学び、それを模範として創作に実践していったというのが、著者による説得力ある見立てである。また、音楽・美術・舞台・芸能までも包括的に文学として取り上げた津田左右吉の文学・文化史観が、〈子ども〉という藤村のモチーフの創出を媒介したという指摘も、首肯されること頻りである。
具体的に、藤村の芭蕉観と藤村自身の子育て経験が重ねられている「伸び支度」「嵐」「分配」では、〈母〉を失った子どもたちに対し、〈倫理〉としてその〈役〉を引き受けざるを得なかった〈父〉が、〈一人で二役を兼ねる俳優〉を演じ、格差や不平等の蔓延した〈社会〉に対しても、親としての〈倫理〉によってそれを超克する方策を打ち出してゆく姿が描かれているとされている。
一方、〈女性〉を題材とする「涙」「ある女の生涯」「三人」では、〈性役割〉にとらわれ苦悩する姿に注目することによって、私有財産、一夫一婦制への疑問という意味でのマルクス主義への接近、明治政府に非合理とみなされた平田国学由来の祖霊信仰、自由教育への共鳴として、それぞれその〈役〉の思想が表現されているという指摘もまた、著者ならではの慧眼による。
さらに、「夜明け前」において描かれた、伊勢に対する出雲、天照に対する大国主という藤村による〈代替〉の提示は、当時においては〈不穏な思想〉とされかねなかったにもかかわらず、藤村の〈民族神話的な想像力〉のもとにあるかぎり原理的な批判とはみなされなかったことについて、著者は、藤村の〈役〉の思想が徹底的な完遂を意図したものでなかったからこそ、当時の社会思想と向き合った藤村の真情を確認することができるという。すなわち、著者によれば、〈役〉とは〈本来の自分とは異なる何か〉を〈演じる〉ことを含意し、藤村の〈役〉の思想の展開を辿っていくことが、藤村の〈社会〉への意識の実相を観ることにも繫がるとされている。
トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』の〈人格とは、舞台でも日常会話においても役者と同じであ〉り、〈他の人格に扮するとは、彼自身あるいは他の人を演じること、すなわち代表すること〉であるという〈役〉の定義を参照し、〈演じること〉への半蔵の関心の薄さは、〈舞台上で役(者)がその時その時で入れ替わりうる、〈代表〉的存在であったからではないか〉という著者の解釈は正鵠を射ていると思われる。
著者の論じる藤村文学における〈役〉の思想は、たとえば森鷗外の自伝的小説「妄想」(一九一一年)における〈役〉の記述と比較してみると、より鮮明になるのではないだろうか。「妄想」の主人公は、〈自分のしてゐる事が、その生の内容を充たすに足るかどうだか〉という疑問を抱き、〈生まれてから今日まで、自分は〉〈始終何物かに策うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪している〉。〈併し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎない〉のではないか、その〈役の背後に、別に何物かが存在しなくてはならない〉というように感じている。すなわち、鷗外のいう〈役〉とは〈まことの我〉に対立する仮象の自己であり、藤村の〈役〉の思想は、むしろ〈まことの我〉への拘泥を放棄し〈代替可能性〉に身を委ねることに、その本領があったと言えるのではないだろうか。
とまれ、本書において、一九二〇年代から三〇年代という時代におけるさまざまな政治的・思想的言説を分析し論述する力量を遺憾なく発揮した著者によって、今後、藤村研究のみならず、明治・大正・昭和にかけて〈文学の創造した近代観〉が論究されてゆくことを期待しないではいられない。(はやし・まさこ=岐阜大学名誉教授・日本近代文学)
★くりはら・ゆたか=国文学研究資料館および総合研究大学院大学准教授・日本近代文学。一九八七年生。
書籍
| 書籍名 | 島崎藤村と創作の論理 |
| ISBN13 | 9784908672835 |
| ISBN10 | 4908672830 |
