2026/05/22号 3面

大衆検閲の時代

大衆検閲の時代 上原 早苗著 今村 紅子 十九世紀、ヴィクトリア女王治世下のイギリスでは、読書がかつてなく大衆に浸透し、一大娯楽となった。教育改革による識字率の上昇、定期刊行物の普及、貸本屋の興隆を背景に、小説は新たな読者を獲得していく。上原早苗著『大衆検閲の時代 ヴィクトリア朝の道徳主義とハーディ』が問うのは、こうした読書の大衆化と出版市場の拡大のなかで、なぜ「グランディズム」という名の検閲が誕生し、表現の自由が制限され、自主規制が求められる時代へと転じたのかという逆説である。トマス・ハーディの自筆原稿に残された加筆・削除・差し替えの痕跡、「筆者の意志にあらがってグランディ夫人の圧力によって削除された」といった書き込みは、当時の道徳主義的検閲の生々しさを伝えている。 まず本書で明らかにされるのは、「清らかな」イギリス社会の実現を名目として、印刷物に対するいかなる統制が行われたかである。議論の起点となるロンドンのホーリーウェル・ストリートは、もともと政治パンフレットや書物を扱う街だったが、政治思想系出版への取り締まりののち、ポルノグラフィ・ビジネスへと移行していった。そこに見いだされるのは、「法・宗教・ポルノグラフィの三者が共存するかのような奇妙な構図」である。道徳推進団体による大陸の「みだらな」印刷物への監視、外国人嫌悪、とりわけフランス文学への警戒は、そうした力学のもとで結びついている。他方で、家庭のパーラーでの朗読やボウドラー編『家庭のためのシェイクスピア戯曲全集』、削除版の流通は、読書空間が「書斎/パーラー」「成人男性/女子供」へと二分されていく過程を映し出している。  新聞雑誌連載から版本化、さらに貸本屋流通へと至る「二重方式」のもとで、グランディズムがいかに日常化したかも描かれる。『コーンヒル・マガジン』初代編集長W・M・サッカリーが「社交の場には常に女性と子供がいる」として「清らかな」読み物を求め、アントニー・トロロープの「タルボイズ大将夫人」が掲載不可となる事例は象徴的である。ウィルキー・コリンズ『法と淑女』ではキスの場面が「強姦未遂」と誤読され、改竄にまで至る。貸本屋ミューディもまた、「道徳の監視人」というより、顧客の苦情や要望に応える現実的な商人として捉えられている。  猥褻物頒布規制法、女王対ヒックリン裁判、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』論争、エミール・ゾラの英訳をめぐるヴィゼッテリー裁判をたどる箇所は「表現の自由」と「読者保護」の対立が恐怖と嫌悪を媒介としていかに先鋭化したかを裏づけている。ヒックリン基準によって「若年層への影響」を軸に、一部が猥褻なら全体も猥褻とみなしうる条件が整ったことは決定的であった。しかもヴィゼッテリー裁判ではゾラの翻訳小説をめぐる論争にフランコフォビアが重なり、新聞・議員・全国自警協会による「包囲網」が形成される。裁判後の在庫焼却、自己検閲の強化、『ドリアン・グレイの肖像』への攻撃は、その萎縮効果の大きさを物語る。  一八九〇年、『ニュー・レヴュー』誌上のシンポジウム「イギリス小説における率直さ」では、ウォルター・ベザント、イライザ・リン・リントン、ハーディの議論から、表現の自由と書物の流通をめぐる立場の違いが示される。  それでは、なぜ出版界ではこの「グランディズム」が猛威を振るったのか。著者はこの問いを手がかりに、表現の自由と読者保護のせめぎあいが顕在化していく十九世紀の出版界を精査し、その圧力のもとで変容するハーディ文学を読み直していく。『ダーバヴィル家のテス』や『日陰者ジュード』のような「スキャンダラス」な小説は、なぜ出版され、市場に流通したのか。ハーディが物語世界の構築に用いた「本文改変」の戦略をたどることで、グランディズムの時代における表現の実相が見えてくる。  『はるか狂乱の群れをはなれて』では、「高潔」なオウクの視線に欲望が潜み、「雅歌」の引用や風景描写の性的隠喩によって「健全な物語」という枠組みそのものが内側から攪乱される。『帰郷』では、ユステイシアの「脱出」が改変を経るなかで「駆け落ち」の意味を帯び、語り手の曖昧さとクリムの確信とのずれが道徳的解釈の危うさを露わにする。『キャスタブリッジの町長』では、スキミントンやルセッタ断罪の読解を通して、共同体の「正義」が歪んだ公正意識によって暴走していく構造があぶり出される。『ダーバヴィル家のテス』では、「凌辱か誘惑か」という二項対立を退け、改変が生み出す語りの裂け目そのものが問われる。そこに刻まれた欲望の揺らぎは、後続の語りのなかで消去され、テスの被害者像へと収斂していく。『日陰者ジュード』では、改稿によって加筆されたシューの言葉やセクシュアリティに注目することで、結婚によって女性の身体的決定権がいかに奪われるのかが描き出される。  最後に著者は、ロアルド・ダールの『チャーリーとチョコレート工場』の「配慮版」やセンシティヴィティ/オーセンティシティ・リーダーの問題へと視線を移す。そこで問われるのは、その境界の曖昧さが表現の自由を侵食しかねないという危うさである。そして、道徳的であろうとする感情が、かえって不寛容を招くという逆説を、ハーディ文学の核心と重ねてみせる。表現の自由を脅かすものは、公的な規制だけではない。良識、配慮、読者保護、世論、商業的合理性といった、一見すると善意に見えるものの束のなかからも検閲は立ち上がる。本書が明らかにするのは、きわめて現代的な真実である。十九世紀の出版制度と流通、さらに大衆読者と編集者・貸本屋の関係をたどりながら、現代社会においてもまた、社会的・道徳的観点から表現を規制する時代が到来していることを照らし出している。同時に本書は、私たちがどのような「グランディ夫人」を内面化しているのかを問う一冊でもある。(いまむら・べにこ=国士舘大学教授・イギリス文学)  ★うえはら・さなえ=名古屋大学名誉教授・イギリス文学。津田塾大学大学院博士課程単位取得満期退学。訳書にハーディー『緑樹の陰で』、セジウィック『男同士の絆』など。

書籍

書籍名 大衆検閲の時代
ISBN13 9784815812119
ISBN10 481581211X