文芸 8月
松田樹
最近、群像劇の小説をよく見かける。近年の話題作から挙げれば、豊永浩平『月ぬ走いや、馬ぬ走い』。一四人もの語りを通じて沖縄の戦後八〇年の歴史が紐解かれる。エンタメ系では、朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』。推し活が宗教的な熱狂に高まったファンダム経済を仕掛け人やファンなど三者三様の観点から描く。新人賞では、文藝賞を受賞し芥川賞候補にもなった坂本湾『BOXBOXBOXBOX』。不気味な宅配所で次から次に運ばれてくる箱を仕分け続ける四人の労働者の話。
しばしば言われる通り、震災以後、当事者性の力学がどこもかしこも強くなった。今や誰もが当事者を名乗り、あちこちで分断が生じている。だからこそ、文学にはそんな隔たりをゆるやかに縫合し、私たちを取り囲む資本や政治のシステムをわずかに垣間見せてくれるような物語が求められているのかもしれない。
今月の力作、木村紅美「白鳥たちはただ渡る」(『すばる』)もやはり群像劇。作家が拠点を置く岩手県盛岡市を舞台に、その地に渦巻く暴力が徹底的に描かれる。地元の反対を押し切り高層マンションを建設した不動産会社の社員が、「土神」と名乗る謎のメールを受け取る。彼とともに読者も盛岡の地に誘われる。痴呆に入り始めた老女、老女を介護する中年の姪、息子を亡くした母と一章ごとに視点が転じられ、皆死の影を背負っている。そこに満州からの引き揚げ、シベリア抑留、関東大震災、「粟蒔き」と呼ばれる「村の公認のレイプ」等が挿話として挟まれ、あたかも作品世界は人間の業を煮詰めた地獄のよう。「日に日に、自分自身がどこから来た何者なのやらわからなくなってきて、土神と化してゆく気がする」。物語が進むにつれて登場人物は土地の自然に溶け合って固有性を失い、私たちを盛岡という地獄へと誘ったあの怨霊のような存在に化してゆく。
こんな群像劇の流行に、「特集 失踪・家出・エスケープ」(『文藝』)に寄せられた村上靖彦「刑務所で出会ったAさんの逃走から教わる」を接続してみよう。北海道浦河べてるの家のAさんは、失踪や家出を繰り返している。彼は「社会のなかに自分の場がない」と感じており、職場や病院に定着した途端ふと逃亡することを考えてしまう。そうしたAさんの疎外感は彼がインタビューの中で「僕」や「私」といった一人称を決して用いず、自分を主体とした言葉で物事を語ることを極度に禁欲していることに対応する。「すべての動作が非人称的に語られている」。誰もが当事者であることを主張する世界の、どうしようもない息苦しさ。逃れたい消え去りたいというネガティブな感情でしか語れない、手触りなき自身の輪郭。村上が示唆するように、Aさんとは私たち現代人の似姿でもある。
翻って、こうした状況下であえてフェイクな主体性を誇示するのが、杉森仁香「こういう音で形とか愛」(『群像』)、デビット・ゾペティ「愛してやまぬ国」(『文學界』)。二作ともクセのある「私」が昨今の事情を切っていく疾走感が読ませる。しかし、最終的にそうした語る主体の特権性が剝奪されて終わる。非人称時代の悲喜劇だ。逆に、大前粟生「いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか」(『文藝』)は、「僕」が自分の声を取り戻そうとする過程に焦点を当てる。徴兵制が復活し皆がだらりとそれに身を任せる。「主体性を放棄し、国に預けきって同化することの快楽」。全体主義が蔓延る中で、かつて作家であった「僕」は戦地からの帰還後にまたポロポロと内奥の言葉を書き綴ろうとする。自分の声を稀薄化させてゆく現代はすでに戦時下にいるのだ、ということを大前の作は私たちに突きつける。
主体の稀薄化。それはどうしようもない。だから、曖昧な輪郭の声を寄せ集め、代わりに土地に語らせよう。こんな問題意識を木村と――あるいは豊永とも――共有するのが、「特集 北海道と文学」(『文學界』)に寄せられた各論。「この土地の傷とその痛みを血で書くようなことだ。その感触こそを私は書きたい」(久栖博季「内なる北海道を書く」)、「この土地に生きる人間は断絶されている。他の土地の人間と同じ言葉を話せない気がしたのだ」(奥野紗世子「地の利」)。寄稿者の多くが「私」の手触りに依拠しつつも、しかし本州とは異なる歴史や文化を帯びた共同性を志向する。桜木紫乃と円城塔の対談「〝端っこ〟から小説を書くために」では、そんな内容を述べた対談のオチに辺境に根差した作家として中上健次に言及されている。中上もまた昨今改めて注目を集めている――六月には『ユリイカ総特集 中上健次』、七月には私も寄稿した『文藝別冊 中上健次』が刊行された――が、中上が郷里で試みていたのも断片化された現代人の生をより合わせることであった。だから、舞台そのものは北海道でも東北でも熊野でも良い。消え入りそうな声を集め、共同性を立ち上げること。ただし排外や戦争に向かう形ではなく。それが喫緊の課題である。(まつだ・いつき=文学研究・批評・愛知淑徳大学創作表現専攻講師)
