2026/04/10号 6面

生きるための意識とクオリア

生きるための意識とクオリア 佐藤 義之著 植村 玄輝  日本語を共通言語とする哲学の世界に、ラディカルな問題提起の一冊があらたに登場した。本書の狙いはそのタイトルがよく示している。著者は「意識(現象的意識)は生存のためにある」という見通しのもとで現象学に依拠した議論を展開し、いわゆる分析哲学におけるクオリアをめぐる論争に介入する。ふたつの哲学的伝統の関係をもっぱら対立として捉える現状認識(ⅱ頁)には疑念を挟む余地もある。しかしこうした指摘は、チャーマーズをはじめとする分析哲学者たちに論争を挑む著者の構えの前では、いささか野暮というものだろう。  本書の梗概は「はじめに」で簡潔に示されており(ⅱ-ⅵ頁)、続く本論にも小括が随時挟まれる。これらを地図と里程標にして読み進めれば、本書の主要な主張を押さえることは多くの読者にとってそれほど困難ではないだろう。  そのためここでは、本書における現象学的な議論のハイライトである第四章に注目して、著者の核心的な着想を際立たせてみたい。キーワードは「態勢」だ。態勢とは、私たちの生がその対象にかかわるときの、そのかかわり方である(九三頁)。たとえば私たちがものを撫でるときのやり方は、その表面のざらつき具合によって異なりうる。こうした態勢のもとで私たちは世界と出合っており、それが上首尾であるかぎり、私たちの生には自己認知がともなう(九八頁)。この自己認知は快苦というクオリアをもたらし(一〇二頁)、それらを受け入れる態勢としての欲求を介して、私たちを特定の行動に向かわせる。  もちろん私たちの生はいつでもつつがなく進行するわけではない。態勢と対象のあいだにはときに不一致があり、それが違和感を生み出す(九三頁)。とはいえ私たちは全面的な懐疑を生きぬくことはできないのだから、態勢と対象の一致による「真理感」は、世界のあり方を決定する存在論的な資格を持つ(一〇五-一〇九頁)。こうした「存在論的真理感」は、私たちの内面や行動にも成り立つ(一〇九-一一二頁)。  以上の要約で伝えきれたか心もとないが、態勢を軸に生の構造を明るみに出そうとする著者の議論の方針は、まぎれもなく現象学的である。意識を私たちがまさにそれを生きるものとして捉えようとすること、その複雑さを安易に縮減しないこと、かといって見通しのよさを諦めないこと、こうした姿勢は現象学の美点のひとつである(要約というものとおよそ相性の悪いこの特長は、現象学の魅力の伝わりにくさの一因かもしれない)。  ここで強調すべきは、メルロ=ポンティに着想を得つつ、著者があくまでも独自の現象学を展開するという点だ。古典的著作の注解は言うまでもなく重要だが、こうした仕事の占める割合がやや高めの現象学の伝統において、著者のような試みは歓迎されるべきである。その成否については、もちろんより詳しい検討が望まれる。著者が現象学的分析から引きだす主張には、たとえば、私たちは快に嫌悪を抱くことができないというものがある(一〇三頁)。これは現象学者たちのあいだでも論争を呼ぶにちがいない。こうした大胆な主張によって、本書は現象学的な議論に私たちをいざなってくれる。  本書の現象学分析は、意識が生存のためにあるということを、私たちに内属的な観点から描き出そうとしている。クオリアを因果的に無力なものとみなすチャーマーズに対峙する著者の立論も、ここから理解されるべきだろう。そして「生きるための意識」の現象学を携えて、著者は意識の進化についても刺激的な提案を行う。ただし著者の見解は、進化を比較的強い適応主義的枠組みで理解することを前提としているように見える。この前提に同意しかねる生物学者・生物学の哲学者も少なくないはずだ。この点をどのように評価するかによって、本書の議論の受け取り方は変わるだろう。(うえむら・げんき=岡山大学学術研究院社会文化科学学域教授・現象学)  ★さとう・よしゆき=京都大学大学院人間・環境学研究科教授・現象学・倫理学。著書に『レヴィナス』『物語とレヴィナスの「顔」』『「心の哲学」批判序説』など。一九六二年生。

書籍

書籍名 生きるための意識とクオリア
ISBN13 9784326154968
ISBN10 4326154969