読書人を全部読む!
山本貴光
第26回 「図書新聞」の終刊
書評専門紙「図書新聞」が、第3730号(2026年4月4日)をもって77年の歴史に終わりを迎えた。本連載は「週刊読書人」を創刊号から読むのが主な趣旨だが、同時に本紙に限らず書評や出版の歴史に関わることにも目を向けようと考えており、この機会に触れておきたい。
「図書新聞」終刊号では「書評紙の精神は死なない」というタイトルの下、同紙スタッフによる座談を掲載している。加藤啓、米田綱路、須藤巧、秋葉直哉、見山アサ子の各氏に、同紙で連載「シネマの吐息」をもっていた睡蓮みどりが司会進行として参加した座談である。
普段は表に出ることのない書評紙のスタッフたちが、「図書新聞」との関わりやどのような場であったのかを語ってゆくのを読みながら、本当に終わってしまうのだという実感がまだ湧かずにいる。というのは、これを書いている私自身、30年近く毎週のように同紙を読んできたからかもしれない。
それはともかく、座談で語られた印象深い言葉がいくつかあるなかで、須藤編集長の「図書新聞は書評紙ですが、書評だけを掲載しているわけではありません」という言葉とそれに続く指摘を紹介しておきたい。いま引いた言葉はこう続く。
「本というものが純粋培養的に勝手に生成してくるものではない以上、いまを生きる私たちの存在や時代状況と無関係ではありえず、その関係を断ち切ることはできません。だとすればそれは必然的に政治や経済や文化状況や社会総体と密接につながってきます。だから図書新聞は書評紙であると同時に書評紙ではないのです」
諸事物はさまざまにもつれあっている。一冊の本も、多様な人びとや事物や状況のからみあいがあってこそ形をとる。他方で、完成した本を人が手にとるとき、ともすればそうしたもつれあった諸関係はいつでもよく目に入るわけではない。だが、見えないからといって、そのような諸関係がなくなるわけではない。「書評紙であると同時に書評紙ではない」とは、本を生み出す時代や社会や文化を含めて視野に入れようとした同紙の姿勢を捉えた言葉であるだろう。
また、それは本連載で1958年以来の「読書人」を読みながら感じていることでもある。もちろん「読書人」と「図書新聞」は出自も方針も異なるものであり、雑にまとめて済むものではない。とはいえ、日本が敗戦から高度経済成長期へと向かう混乱のなかで、ときとして本や書評を脇において、政治や経済の状況を論じる批評に大きな紙面を割いていた「読書人」を見てとる視点を、須藤編集長の言葉に教えられたように思う。
さらに口幅ったいことを言えば、政治でも経済でも学術でも、専門分化が進んでそれぞれが自分の領分とする専門領域内での合理を求め、「政治や経済や文化状況や社会総体」を思い描けなくなっている現状において、「Aであると同時にAではない」とは、むしろ必要なものの見方であるとも思えてくる。
この点にも関わることが「図書新聞」終刊号に掲載された米田綱路「書評紙の思想、その原点」にも別の形で示されている。次回はその点に触れよう。(やまもと・たかみつ=文筆家・ゲーム作家・東京科学大学教授)
