滅びゆく惑星で 第18回
増田俊也
私は喫茶店で原稿を書くことが多い。疲れればその店にある漫画の単行本を読んだりして息抜きをする。
先日、いつもの喫茶店で『社長島耕作』を読んでいたら、こんな場面に出くわした。ある重役の妻が元女子プロレスラーという設定で、夫を尻に敷いて威張り散らしている。ところが島耕作の秘書のひとりである若い女性が、その妻をあっさりKOしてしまう。じつは秘書は空手の使い手だった、という落ちである。
うまい落ちのつもりなのだろうが、これを読んで、私は正直がっかりした。コーヒーを飲む手が止まったほどである。
もし自分の娘がこんなことをやったら、私は本気で激怒するだろう。相手の痛みを想像もせず拳を出せる、その神経のほうが、私にはよほど恐ろしい。相手は年輩の元女子プロレスラーである。何を恃んで生きてきたのかは、少し想像すればわかるはずである。その張り詰めた見栄と寂しさを嗤うように叩きのめす。その心根が、私にはわからない。
結局のところ、人の心の機微がわからない者はだめなのである。「その元プロレスラーも夫を尻に敷いているではないか」という者もいるだろう。だがそれとこれとは別である。その微妙な違いに想像を届かせられない人間が、力だけを持ってしまうことほど剣呑なものはない。強さとは腕の太さのことではなく、他人の内側をどこまで思いやれるかということと分かちがたく結びついている。
しかも、この落ちには続きがある。倒された妻のほうが、なぜかその女性秘書にすっかりなついてしまい、以来、相談事があるたびに電話をかけてくるようになる、というのである。力でねじ伏せた相手が、慕ってすり寄ってくる。作者はほのぼのとした後日談のつもりなのだろう。だが私にはこれが、いちばんいただけなかった。暴力に屈した者が加害者に懐くという構図を、心温まる話として差し出されると、余計に背筋がうそ寒くなる。
これは私の言いがかりに近いのかもしれない。娯楽漫画に目くじらを立てる野暮も承知はしている。長く続く人気作の、たまたま開いた一頁のことだ。
それでも、と思う。強さの描き方には、その作り手の、力に対する構えがそのまま出る。人は強い者が弱い者を叩き伏せる場面に、いっとき胸のすく思いを抱いてしまいがちである。だが、痛快さのあとに残る後味のほうを、私はいつも信用している。喫茶店の隅で単行本を閉じながら、ぬるくなったコーヒーを飲み干し、そんなことを考えた。(ますだ・としなり=小説家)
