2025/12/12号 1面

<二〇二五年の収穫!!>54人へのアンケート

角田 光代  ①佐藤正午『熟柿』(KADOKAWA)  ②リチャード・フラナガン『第七問』(渡辺佐智江訳、白水社)  ③小川洋子『サイレントシンガー』(文藝春秋)  ①は、交通事故を起こし、そのせいですべてを失った女性、かおりの視点で描かれる。非常にドラマチックな内容でありながら、たんたんとした筆致は、「日常」の、すさまじいまでの頑丈さを感じさせる。各地を転々としながら、その日その日を暮らすこと、そんなかおりの日常が、まるで祈りのように思えてくる。  ②絶望的未来を描いたH・G・ウェルズ、その小説に感化された人々、原爆開発にかかわった物理学者、原爆をヒロシマに投下した軍人、日本軍の捕虜となったタスマニア出身の父親、故郷タスマニアでの日々――いっけん無関係のものが、バタフライ効果のようにつながっていき、答えの出ない問いを私たちに残す。ともかく圧倒され、打ちのめされた。  ③自己主張しない歌声を持つリリカと、沈黙のなかで暮らす「アカシアの野辺」の人たち。この作家が描くとどんな残酷な場面も神々しいような光が宿る。読むことが未知の国への旅のようだった。(かくた・みつよ=作家) 金原 瑞人  左右社編集部編『夢のうた』(左右社)。二〇二四年に始まった「同時代の歌人100人がうたった100首の短歌アンソロジー」のシリーズ、発想もいいし、選ばれている歌もいい。去年はこのほかに〈花〉と〈雨〉が刊行され、いまのところ合計、六冊。年末に〈星〉が出てるはずだけど、未読。毎年三、四冊ずつくらい出るとうれしい。  『新編 怪奇幻想の文学6 奇蹟』(新紀元社)。約五〇年前に紀田順一郎・荒俣宏編で刊行された全七巻のアンソロジーをもとに、そのふたりと牧原勝志が、「特に現在の読者に届けたいもの」を新たに選んで、新訳で収録したもの。これが見事に完結した。拍手!  西崎憲編『12か月の本』(国書刊行会)。今年四月から始まったこのシリーズ、その月にちなんだ古今東西の詩歌、小説、エッセイなどのアンソロジーだが、粒ぞろいで編者の目配りのよさに圧倒されつつ、未読の作品の多さにびっくり!(かねはら・みずひと=翻訳家) 三宅 香帆  読書とは個人的なものだ、と実感した一年だった。チェ・ウニョン『ほんのかすかな光でも』(古川綾子訳、筑摩書房)は女性同士の関係性を中心に描いたうつくしい短編集。社会問題を扱いつつ、社会という言葉では取りこぼされそうな個人の繊細な痛みを掬いだしており、文学の意味を感じた一冊だった。そんな小説と似た効果をもつ、個人の心の痛みと向き合うカウンセリング室の内部を描写した東畑開人『カウンセリングとは何か』(講談社現代新書)は今年の新書の傑作。さらに柳宗悦の書いた沖縄独自の人文についての論考のみを集めた柳宗悦『新編 琉球の人文』(宇田智子解題、春秋社)は、普遍的でなくここにしかないものを触るからこそ人文の意味が見いだされていく、そんな名著となっている。一般化できない、個人的で局地的な物語だからこそ、一冊の本で語る意味がある。読書の意味とはローカルなところにあるのだろう。(みやけ・かほ=文芸評論家) 野村 喜和夫  中村邦生『月光の仕事中村邦生小説選』(国書刊行会)。初期作品から最近作までを網羅したベスト自選集。それに氏は「月光の仕事」という、なんとも洒脱なタイトルを与えた。もちろん第一義的には、「月光にたぶらかされ」るようにして氏が織り成した夢幻への傾きを意味するが、同時に、物語による物語批判というこの作家の独自性が、まさに月光のようにもたらされたのであろう。  安藤礼二『空海』(講談社)。「文芸批評の対象」として空海を読むという破天荒な試みは、折口信夫を深く極め、井筒俊彦に傾倒した著者の批評行為の、必然の成り行きでもあろう。白眉は第3章「華厳」。空海文学の深奥とは、つまるところ詩ではないか。これまで無益に詩を書き続けきた私が齢七十四にしてこのような書物に邂逅するとは、つくづく幸運であったと思う。  高橋睦郎『高橋睦郎詩作集成Ⅰ』(思潮社)。ホモセクシュアルの詩人として異端扱いされていた高橋氏だが、その比類のない言葉の結晶体を貫いているのは、人間の悪や聖性についての普遍的な考究である。ボードレールを俟つまでもなく、それは宗教的(とりわけカトリック的)であり、その掘り下げは、日本近現代詩において氏以外の誰もやっていない。(のむら・きわお=詩人) 栗原 康  酒井隆史『スネーク・ピープル』(洛北出版)デモの風景。ゴールにむかって一直線。前へ、前へ。もっと速く。社会の縮図だ。将来をみすえて、よい学校へ、よい企業へ。足並みをそろえて歩いていく。がまんできない。ジグザグデモだ。ジグザグと蛇行して、ゴールへの最長距離をめざす。ゆっくり歩く。ときに座りこみ、地べたに寝転んでしまう。社会をとめろ。時間をとめろ。切断されたそのときから「もうひとつの世界」がやってくる。わっしょい!  小川公代『ゆっくり歩く』(医学書院)どうしたらいいか。決まった答えじゃ決められない。イエスでもなく、ノーでもなく。たえず決断のはざまで揺れうごき、グラングランと思考していく。どんどん横道に逸れていく。無限の想像力が花ひらく。将来にただしい答えなんてない。計画なんてクソくらえ。ゆっくり歩く。  ホモ・ネーモ『働きたくない僕と君のための哲学』(まとも書房)ベーシックインカム論がいい。なぜ、必要なのか。そのカネがあれば、やりたくもない仕事を拒否できるからだ。目下、ブルシットジョブ時代。このシンプルな論に説得力がうまれている。働かない、働けない、働きたくない。なにが馬車馬だよ。とまれ、労働廃絶!(くりはら・やすし=政治学・アナキズム) 緑 慎也  ジョー・ローマン『食って、出して、死ぬ』(米山裕子訳、河出書房新社)によれば、鳥が豊饒の大地から不毛の島へ、鯨が海底から海面へ貴重な栄養分を運ぶなどしているという。その媒介役は糞と死体。動物たちの不浄のネットワークに生態系が支えられていることに驚かされる。  同じネットワークでも、専門知から距離を置き「共感」で繫がるインフルエンサーや、人工のアルゴリズムが生み出すそれの醜さを教えてくれたのが、ルネ・ディレスタ『ネット世論の見えない支配者』(岸川由美訳、原書房)。噂とプロパガンダが作る「現実」を描き、隠された支配構造を可視化した警告の書。  世界を理解し、コントロールすることなどそもそも無理なのかもしれない。ブライアン・クラース『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか』(柴田裕之訳、東洋経済新報社)は、小さな出来事の連鎖が、いかに大きな結果を生むかを鮮やかに示す。通念が揺さぶられるが、不思議と悲観的にはならない。(みどり・しんや=サイエンスライター) 小林 エリカ  キム・スム『沖縄 スパイ』(孫知延訳、インパクト出版会)  金原ひとみ『YABUNONAKA ヤブノナカ』(文藝春秋)  イリナ・グリゴレ『みえないもの』(柏書房)  複雑なことを複雑なままに、けれど決して妥協することなくまっすぐ心と身体の深いところへ届けてくれる言葉と作品に触れるたびに、震える。『沖縄 スパイ』は久米島における朝鮮人を含む住民の虐殺が、『YABUNONAKA ヤブノナカ』はこの文学に、この日本に蔓延る搾取が、『みえないもの』はかつて出会った女たちのこれまで聞かれなかった声が、掬い取られてゆく。いずれも、そこにある日々や輝きとともに潜む暴力がつまびらかになってゆくのだが、その刃はこちらへも突きつけられていて、ただの単純でわかりやすい善悪や消費なんかでは決して終わらせない抵抗の宣言のようで、深く感銘を受けた三冊。(こばやし・えりか=作家・マンガ家) 亀山 郁夫  鴻巣友季子『小説、この小さきもの』(朝日新聞出版)。現代文学の批評界をリードする鴻巣の最新評論集。「小説が人間をいっそう孤独で感情的な生き物にした面があるのではないか」という問いを起点に「小説とは何か」に迫る。特に印象的だったのが第三部、「当事者性の侵害」を扱った部分。人間の尊厳と文学の存立をめぐる闘いに、著者の鋭い視線が突き刺さる。  中村文則『彼の左手は蛇』(河出書房新社)。幻想とリアルの間に蛇が出現し、語り手の「私」にテロリズムを使嗾する。標的となるのは、絶対悪の仮面をつけたエピキュリアン。モデルとして二重写しされるのはだれなのか? 極私的ヴィジョンを介しつつ、中村はつねに現代社会の普遍的病巣を見つめ続ける。  ウラジーミル・アレクサンドロフ『ロシアの鎖を断ち切るために 皇帝とボリシェヴィキを相手に闘ったボリス・サヴィンコフ』(竹田円訳、作品社)。帝政ロシア末期に複数の要人テロに関わった革命家サヴィンコフの足跡を辿る大評伝。奇しくも没後百年。今なぜテロリストの物語か。著者は世界史的視野から、テロリズムの栄光と悲惨に光を当てる。逆説的ながら読者を驚かせるのは、崇高とも称すべき革命家の倫理的知性。(かめやま・いくお=名古屋外国語大学学長・ロシア文学) 大宮 勘一郎  テリー・イーグルトン『悲劇とは何か』(大橋洋一訳、平凡社)。今日、悲劇および英雄、犠牲といった語は、実に粗末な扱いを受けているように見えるが、著者は近代(とりわけドイツ)悲劇論の伝統を批判的に再検討し、必然=運命も崇高も失った現代に、むしろ悲劇の脱イデオロギー化の可能性を探る。やや目が粗く不正確さも散見されるが、重要な議論。  舩木篤也『三月一一日のシューベルト 音楽批評の試み』(音楽之友社)。ドイツ文学者でもある著者による、楽興溢れる批評集。文芸と音楽の関係を順接でも逆説でもなく、新たに組み変えてゆく。確かな耳と文芸への造詣だけではなく、感性に淫することなく世界と対峙する、という芸術批評の精神を感じさせる。  ヴェルナー・ハーマッハー『ベンヤミン読解』(清水一浩編訳、月曜社)。息を呑むような精緻なテクスト読解で知られる比較文学者による論集。とはいえ謎解きではない。ベンヤミンの形象言語のみならず、言語自体の形象性を突き詰め、形象以前の層へとやまず降りてゆく。ドイツ語の(また日本語の)具象の奥に無底の光が垣間見える。(おおみや・かんいちろう=東京大学教授・ドイツ近現代文学・思想) 柴野 京子  日比嘉高『帝国の書店』(岩波書店)。限られた資料や回想の中で断片にとどまってきた、外地の書店と書物流通のネットワーク。長年にわたる丹念な調査は、本を扱う商売の動機や合理性と歴史のダイナミズムを俯瞰して描く。引き揚げまで書いたものは寡聞にして知らないが、対象とともに歩んできた著者の必然だろう。感動的な労作。  清原悠編著、模索舎アーカイブズ委員会監修『自由への終わりなき模索』(ころから)。サブタイトルにあるとおり、創業から半世紀余りを経た、新宿御苑前のミニコミ専門店・模索舎のいわば「正史」。インタビュー、関係者の寄稿、各種データで構成されるが、ZINEブームにあってこの記録は不可避である。クラウドファンディングで製作。  出口雄一・小石川裕介編『法学者たちと出版』(弘文堂)。近代日本のアカデミズムは、その多くを商業出版が担ってきた。編著のため濃淡はあるが、オープンサイエンスの時代にこうしたアプローチ自体はヒントになる。(しばの・きょうこ=上智大学教授・メディア論) 椎名 美智  鈴木俊貴『僕には鳥の言葉がわかる』(小学館) 鳥の言語の存在を世に知らしめた研究者による抱腹絶倒の初単著。バードウォッチングにハマった高校生が、観察と実験を重ねて「シジュウカラ語」を発見、世界的動物行動学者となり、動物言語学を確立し、動物言語学者を名乗るまで。シジュウカラ語が聞ける二次元コード付き。  山野弘樹『対話の思考法 相手とぶつからないコミュニケーション』(角川新書)  コミュニケーションを対話・議論・会話に分類し、対話の本質と方法を探る。対話者間で問答を繰り返し、一人称的経験を互いに共有してはじめて、中身のある深い話をすることができると説く。  金水敏『大阪ことばの謎』(SB新書)   明治の標準語成立後、方言の多くは衰退したが、大阪弁・関西弁の存在感は逆に高まった。大阪弁の軽快さや誕生の経緯など、大阪弁の謎を、著者は専門的かつ軽妙に解きほぐしていく。まさに大阪弁ネイティブ言語学者の本領発揮の一冊。(しいな・みち=法政大学文学部教授・言語学) 谷藤 悦史  ポピュリズムが広がり、世界の混迷が増した。自由民主主義に対する危機感の高まりを背景に、対応を模索する一年でもあった。  水島治郎編『アウトサイダー・ポリティクス』(岩波書店)は、ポピュリズムがもたらす民主主義の変容を「アウトサイダー・ポリティクス」と捉え、ヨーロッパ諸国、南北アメリカ諸国、アジア諸国を多様な手法で分析する。カギとなる概念に曖昧さは残るが、政治の分極化、周辺にあった人物・組織の中心化などが理解される。  ジュリアーノ・ダ・エンポリ『リベラリズムの捕食者』(林昌宏訳、白水社)は、AIテクノロジーを媒介に権威主義政治を実践し、リベラリズムを危機に晒す「捕食者」達が跋扈する現実を描く。マキャベリ的政治の再来である。筆致軽いエッセイ集だが、内容は刺激的である。  自由民主主義を育んだ理念、制度、文化の再考が必要だろう。ジョセフ・E・スティグリッツ『スティグリッツ 資本主義と自由』(山田美明訳、東洋経済新報社)は示唆に富む。新自由主義の「自由」観を批判しその陥穽を指摘する。「自由」を再定義し、平等、社会正義と民主主義を重視する「進歩的資本主義」を提唱する。政治経済政策の指針となろう。(たにふじ・えつし=早稲田大学名誉教授・政治学) 熊谷 充紘  見えていなかったものに気づかせてくれた三冊。木村哲也編『どこかの遠い友に 船城稔美詩集』(柏書房)は、ハンセン病患者として、性的少数者として、一人の人間として詩を書き続けた詩人・船城稔美の精選詩集。十五歳でハンセン病療養所に入所してから七十九歳で亡くなる前年まで詩を書き続けた。常に詩とともにあったから、「隔離」という差別的な環境の中でも、外の世界との連帯の可能性を見失わなかった。大崎清夏『珠洲の夜の夢/うつつ・ふる・すず』(twililight)は弊社からの出版で恐縮だが、石川県珠洲市に伝わる口頭伝承の民話や、聞かれなければ語られなかったかもしれない珠洲に住む女性たちの声を、文字にして本として一つの形として残せたことに意義を感じている。音楽のために生きている青葉市子の『星沙たち、』(講談社)は、青葉が深い海に潜って見つけた創作のかけらが、私のままならない現実を処理してくれる夢のようだった。(くまがい・みつひろ=twililight店主) 佐藤 淳二  河村克俊『カントと啓蒙の時代』(関西学院大学出版会)。近年我が邦では瞠目すべきカント研究書が多いが、同時代の哲学パラダイムとの関連を教示してくれる哲学文献学の収穫が加わった。謎めいた「非社交的社交性」の理解へと導いてくれそうだ。  フレデリック・グロ『歩くという哲学』(谷口亜沙子訳、山と溪谷社)。カントには正確な散歩時間という例の伝説がある。歩くがゆえに我は有る、とのデカルト揶揄は昔からあるが、確かに寝たきりになれば「我」はあっという間に怪しくなる。歩くことは間違いなく思想課題なのだ。フランス人気哲学者の快作。  川本三郎『荷風の昭和前篇・後篇』(新潮社)。文字による「偉大な風景画家」といえば西のフーコー、東の荷風か。江戸文明の痕跡を丹念に歩き続ける大正の荷風だが、過去が焼失した昭和期では、映画との関わりも重層的に出てくる。歩くことの重厚な文化史だ。(さとう・じゅんじ=京都大学名誉教授・思想史) 藤田 直哉  ALT236『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』(佐野ゆか訳、フィルムアート社)。ネットの写真と都市伝説を中心とした美学を、様々な絵画や建築や映画やゲームと結びつけ「系譜・星座」を作り出す。見事な批評的知性と運動神経の産物。  稲葉振一郎『滅亡するかもしれない人類のための倫理学』(講談社)。アメリカで流行し、テック系の企業家がガチで進めている加速主義・長期主義・トランスヒューマニズムや、AI・人類の未来を考察。そして、『風の谷のナウシカ』と対決させ、思想的・哲学的な「神々の闘い」に。今本当に重要な思索だと思う。  藤津亮太『富野由悠季論』(筑摩書房)。なんと日本初であろう、『ガンダム』の富野監督に対する単著の本格的な批評・研究書。クールジャパンと言いながら、批評・研究がどれだけ足りないかを思い知らされる。深い愛と分析の技を堪能。  次点で『ゲームデザイナー 小島秀夫論』『普通の奴らは皆殺し』『ラディカル・マスキュリズム』。(ふじた・なおや=SF・文芸評論家) 佐藤 正志  中金聡『〈城壁のない都市〉の政治哲学 エピクロス主義研究』(晃洋書房)。徹底的に原典テキストに内在しながら、深い考察を重ねて、エピクロスの受容(〈逸れ〉、誤解)が近代の政治哲学を生み出してゆく過程を劇的に描き出している。なぜ、死を従容として受け入れることのできる賢者の城壁のない庭園の理想が、死の恐怖に捕らわれた者を囲い込み、その生を支配する城壁(法、正義、そして主権)に囲まれた国家の理論を作り出したのか。主権国家とともに人の生き方が問われている。  中澤達哉責任編集、歴史学研究会編『「主権国家」再考 近代を読み替える』(岩波書店)。初期近代の「礫岩国家」や「複合国家」などによって「主権国家」を相対化してきた歴史研究の集大成。ボダンの政治思想の受容も組み込まれ、指針として機能したその絶対的な主権概念と、分権的な統治の現実や理論との乖離の意味を問うている。  リチャード・タック『眠れる主権者 もう一つの民主主義思想史』(小島慎司・春山習・山本龍彦監訳、勁草書房)。初期近代の政治思想を主権と統治の区別から再解釈し、近代デモクラシーは、人民による憲法制定等における主権の行使が重要であり、日々の市民の自己統治を不要にしたとする。ここには制限政府(統治)にいつでも代わりうる絶対的な主権(多数者の権力)の論理が示されている。(さとう・せいし=早稲田大学名誉教授・政治理論史) 堀 千晶  語り方の革命にまつわる三冊。  サイディヤ・ハートマン『奔放な生、うつくしい実験 まつろわぬ黒い女たち、クィアでラディカルなものたちの親密な歴史』(榎本空訳、ハーン小路恭子翻訳協力・解説、勁草書房)。題材の選定、調査すべき資料、批評的作話の想像力、写真、文体など、すべてが絡みあって、「黒い女たち」の奏でたアナーキーな、路上の生を演奏しなおし、彼女たちを「ラディカルな思想家」として立ちあげ直す。奔放なことがしたくなって、むずむずしてくる本。  大野光明・小杉亮子・松井隆志編『闘う1980年代 社会運動史研究6』(新曜社)。二十世紀後半の歴史化が広く進むなか、経済的狂騒と脱政治化といった物語から徹底的に距離を取り、現在にまで繫がる抵抗運動とその分岐点を、具体的かつ緻密に探る。内容も方法論も併せて極めて貴重な雑誌。  ジル・ドゥルーズ著、ダヴィッド・ラプジャード編『ジル・ドゥルーズ講義録 絵画について』(宇野邦一訳、河出書房新社)。講義録の刊行、ついに開始。著作とは違う言葉のリズム、言葉の刺さり方がある。通常の芸術論とは、まったく異質の語り口の絵画論が、渦を巻きながら形成されてゆく、《声》の現場。(ほり・ちあき=仏文学) 中村 邦生  バリー・ユアグロー『松明のあかり 暗くなっていく時代の寓話』(柴田元幸訳、twililight)。このアメリカ作家独自の超短編形式による寓話二二作。「手枷・足枷が目下大流行している」(「光沢」)、「私の部屋が塹壕になる」(「塹壕の日々」)と例示した書き出しのとおり、不穏な空気感が作品をみたす。掌編であるからこその凝縮された表現が、今日の危機と緊迫と不安の感情を巧みに伝える。ときに黒いユーモアの薄膜のかかる気配もあり、作品の魅力の振幅は大きい。  工藤正廣『詩人西行 終わりと始まり』(未知谷)。ロシア文学者、翻訳者、詩人として多くのすぐれた著作を持つ作者は、朗誦をさそう豊かな音感にみちた物語を刊行し続けてきた。本書もまた叙事性と叙情性の響き合う語りを受け継ぎ、中世詩人・西行の最晩年の三か月の日々を描き出す、別離と生へのエレジー。死を間近にした西行に寄せる作者の思いは読む者の心に沁み入る、忘れがたい魂鎮めの物語である。  ガブリエレ・グエルチョ編『哲学以後の芸術とその後 ジョゼフ・コスース著作集成 1966―1990』(鍵谷怜訳、水声社)。コンセプチュアル・アートを代表するコスースの作品では、「一つと三つの椅子」がよく知られているが、東京のファーレ立川の「呪文、ノエマのために」(石牟礼道子とジョイスの小説の一節を壁面に刻印した作)と題したパブリック・アートで馴染み人もいるだろう。本書は重要な論考「哲学以後の芸術」をはじめ、コスースの芸術論を集成した待望の一書。リオタールの序文も一読に値する。(なかむら・くにお=作家) 神藏 美子  向谷地生良『向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか?』(医学書院)。「周辺化された人たちの苦労や苦悩のなかに、人間とこの世界の意味を理解する鍵のようなものがある」精神障害をこんなスケールで捉える向谷地さんは一体どのように育ってきたのか? 向谷地さんのご兄弟の対談を交え、向谷地さんに迫った本。  ジェイソン・ホー/深田萌絵『THE BIGPLOT』(Teklium,Inc.)。発禁にしようとする力が働くほどに重要な事実の詰まった本。例えば天安門事件の闇――中国共産党は、スパイを民主運動家たちの中に紛れ込ませ、天安門から生きて国外へ出たスパイは、民主主義諸国に入り、亡命した民主活動家として活動し、実際に亡命した民主活動家の情報を収集した――など。  上野千鶴子『アンチ・アンチエイジングの思想ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房)。「老い」について考えることは楽しくはない。上野さんはボーヴォワールの『老い』を精査し「老い」に抗うアンチエイジングの自己否定な試みよりは、老いを受容するアンチ・アンチエイジング思想を繰り出す。(かみくら・よしこ=写真・映像作家) 高山 羽根子  カテジナ・トゥチコヴァー『ジートコヴァーの最後の女神たち』(阿部賢一・豊島美波訳、新潮社)。少し前までチェコに実在していた魔女たちに関する取材を元に著された小説。アーカイブを探る旅、民間信仰、いつの時代も彼女たちを利用してきた世間、自分の血縁。社会に深く根付く精神性は常に不可解で、だからこそ魔女の呪いは生き続けている。  霜月蒼『ガールズ・ノワール ハードボイルドよりも苛烈な彼女たちのブックガイド』(左右社)。女性作家によって書かれたミステリのガイド本であり、小説のジャンルやそれを作る偏見への鋭い批評書ともなっている。  赤野工作『遊戯と臨界』(東京創元社)ゲーマー、ゲーム紹介者、作家である作者によるゲームにまつわるSF短編集。ゲームに狂ってしまった人間や世界、その業の深さはいかほどか。特に「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」は白眉。発表された年のベストSF短編としたほど。(たかやま・はねこ=作家) 森 一郎  ①ポール・リクール『有限性と罪責性 『過ちやすき人間』/『悪のシンボリズム』』(杉村靖彦 訳、国書刊行会)。二〇世紀哲学の泰斗の前期代表作。以前は三冊で別々に訳されていたが、リクール研究の世界的権威が全一冊で個人完訳。実存哲学と宗教哲学、現象学と解釈学の壮大な融合が、正確無比の流麗な日本語で甦った。現代日本の学術研究と翻訳文化の水準を示す。  ②西谷修『戦争と西洋西側の「正義」とは何か』(筑摩書房)。名著『不死のワンダーランド』以来、われわれは西谷戦争論に幾度となく触発され、思考を鼓舞されてきた。広大な視野と鋭敏な時代感覚で戦争の問題を論じてきたその思索の集大成。「テロとの戦争」批判、ウクライナ戦争・ガザ攻撃・アメリカの没落を見抜く確かな眼。鬼才の舌鋒にシビれる。  ③ルネ・レモン『フランスの右派 1815―1981』(大嶋厚・中村督・𠮷田徹訳、岩波書店)。右派・左派という言い方はもう古いと思っていたが、革命以来の伝統をもつフランスの右派には侮りがたいものがあることを本書で知った。レジティミスム、オルレアニスム、ボナパルティスムの三区分は目からウロコの発見。古典を日本語で読めるようにしてくれた三人の訳者に感謝。(もり・いちろう=東北大学教授・哲学) 原田 泰  岩田規久男『経済とイデオロギーが引き起こす戦争』(夕日書房発行、光文社発売)は、人間はなぜ戦争をするのかという壮大なテーマに、経済とイデオロギーという観点で挑戦する。国民が戦争支持のイデオロギーを受容するには、その背景には経済失政がある。すなわち、経済取引ではなく領土を求める帝国主義が社会問題の解決になると国民が信じることが戦争の原因になるという。  ノア・スミス『ウィーブが日本を救う』(片岡宏仁・経済学101訳、日経BP)は、日本の都市とアニメの魅力を描きながら、日本経済の再生策を語る。日本が技術の最先端に後れを取っているとしても、遅れたことによってキャッチアップの好機が生まれたと説く。あくまで楽観的な言説が心地よい。  日本でも初の女性首相が誕生したが、主要先進国の中で初めて女性首相となったのはサッチャー氏だ。池本大輔『サッチャー』(中公新書)は、サッチャー氏が己の信念に固執し、妥協を許さない政治家ではなく、弱い政治基盤から出発し、手練手管を用いてイギリスの外交と経済に大きな足跡を残した練達の政治家だったという。(はらだ・ゆたか=名古屋商科大学ビジネススクール教授・経済学) 奥野 克巳  ①安藤礼二『空海』(講談社)。著者は空海を宗教家の範疇に回収することなく、文学者・総合芸術家として再定位し、その核心にある「表現する宇宙」の思想的構造をきわめて精緻に析出している。空海の提示した独創的世界像を、東西哲学の接続軸としての世界哲学へと位置づけ直す視座を備えた、学術的刺激に富む重厚な一冊である。  ②ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史/上 人間のネットワーク/下 AI革命』(柴田裕之訳、河出書房新社)。AIは誘拐事件を解決へ導く力を有する一方で、監視・偏見・暴力を増幅させる危険をも孕んでいる。本書は、そうしたAIの潜在的脅威を説得的かつ精緻に描き出している。「異質な知能」としてのAIが社会の駆動力となり、民主主義と人間性の基盤を揺るがしかねない近未来が兆しつつある現在にあって、本書は時代を画する意義をもつ著作である。  ③エカ・クルニアワン『美は傷』(太田りべか訳、春秋社)。インドネシア激動の近現代史を背景に、暴力と性愛、悲劇とユーモア、虚実が錯綜する魔術的世界へと読者を誘う世界文学である。娼婦デウィ・アユと三人の娘たちの特異な運命を通して、虐殺と粛清に彩られた国家の深い傷痕が、熱帯の濃密な気配とともに妖しく立ち上がる。(おくの・かつみ=立教大学教授・文化人類学) 中山 圭子  福田育弘『美味しく楽しいフランス文学』(教育評論社)バルザック、フロベール、ゾラなど、おなじみの小説家が描く料理や食の場面に注目。豊かな家庭料理、共食の喜び、食べ方の変容など、日本との違いも交え、フランスの食文化を楽しませてくれる。終章のデザートは、甘党におすすめ。  マックス・ミラー、アン・ボークワイン『人類4000年のレシピ』(神奈川夏子訳、遠藤雅司日本語版監修、日経ナショナルジオグラフィック)古代バビロニアのラムのシチュー(古代中国の羊羹に相当⁉)に始まり、14世紀頃のジンジャーブレッドや16世紀の宮廷料理など、65皿の再現レシピを紹介。出典の料理書や時代背景についてのトリビア的解説、食欲をそそるオールカラーの再現写真に心躍る。  今野真二『谷川俊太郎の日本語』(光文社) 昨年、亡くなった国民的詩人の作品の魅力を日本語という観点から解説。詩人が気づく「漢字は黙っているが、ひらがなやカタカナは黙っていない」はどういうことかなど、日本語の奥深さを再発見した。以上が3点だが、和菓子文化の継承を思うと、川端道喜『和菓子の京都 増補版』(岩波書店)の刊行は喜ばしい。(なかやま・けいこ=虎屋文庫主席研究員) 萬谷 ひとみ  髙村薫『墳墓記』(新潮社)。古典と現代語が往還する文体に、日本語の奥行きを見た。〈表薄紫裏青の萩〉など襲の色目、白居易「琵琶行」の音の情景に心がとまる。生成AIに意味を問いながら読み進めなくてはならない自分の語彙の浅さを知り、これは決して翻訳できぬ日本語の小説だと思った。  ジョン・B・トンプソン『ブック・ウォーズ デジタル革命と本の未来』(久保美代子訳、みすず書房)。印刷の時代から続く出版のしくみが、電子書籍や投稿サイトの広がりの中でどう変わったのかを多数の取材から描く。読者が〝読み手〟だけでなく〝書き手〟にもなる今、タイパが重視される時代に、あえて時間をかけて読む意味をそっと思い出させる一冊。  ルル・ミラー『魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話』(サンマーク出版)。学術的には呼称にすぎない「魚」を、科学者デイヴィッド・スター・ジョーダンは、生涯追い続けた。存在しないものに秩序を与えようとする執念は、彼自身の支えでもあったのだろう。著者はその光と影に自身を重ね、分類が揺らぐとき、人が世界をどう意味づけるかを問う。(よろずや・ひとみ=リーディング・リエゾン・パートナー) 大竹 昭子  ①藤岡亜弥『Life Studies』(赤々舎)。ニューヨークに暮らしていた二〇年前に撮影した写真が編まれているが、「語り手」の存在が明確。そう、写真集にも「語り手」が必要なのだ。表紙・タイトル・「小説」とも呼べる巻末の文章が見事に絡み合い、虚実を行き来する写真の特性を浮き彫りにする。言葉と写真の関係に意識的な斬新な試みだ。②『富岡多恵子名作選』(編集グループSURE)二〇二三年に死去した作家を「自分のなかの生活者の声を聞きながら、小説を書いた作家」と位置付け、その感情がよく現れた詩、詩論、長・短篇小説を集めている。富岡の表現者としての奥行きを、彼女を知らない若い世代に伝える好著。③伊藤礼『旅は老母とともに』(夏葉社)著者の遺稿集。生きることの屈託を、独特のユーモアと含羞でくるんだ「伊藤礼節」に久しぶりに酔わされた。南伸坊のシンプルな装丁も秀逸で、情報過多のいま、逆にこういうものが目立つ。(おおたけ・あきこ=作家) 中森 明夫  ①中川右介『昭和20年8月15日』(NHK出版新書)  戦後80年、終戦の日の著名文化人135人の動向を膨大な資料から読み解いた大労作に感服。同様手法の『昭和45年11月25日』(幻冬舎新書)は三島由紀夫が自決した日の記録だった。今年は昭和100年、三島の生誕100年でもあった。昭和は遠くなりにけり。  ②田原総一朗『最後の世代』(三省堂)  91歳(!)の現役ジャーナリストの最新刊。リハック・高橋弘樹プロデューサー等、話題の人物らとの対話も収録。存在そのものが「問い」であるメディアモンスター田原御大が「新しい戦前」の現代に問いを発する‼  ③川村元気『8番出口』(水鈴社)  前作は「新潮」掲載の純文学『私の馬』だったが、新作は映画の原案本。しかも話題の自主制作ゲームを自ら監督・映画化して興収50億超の大ヒット。小説家・川村元気のこの自由自在さ! 単に映画のノベライズではなく小説作品として独自性に輝いているのがさすがです。(なかもり・あきお=作家・アイドル評論家) 廣野 喜幸  千葉聡『「科学的に正しい」の罠』(SB新書)。研究に勤しむだけでなく、優生学についてきちんと解説し論じる良質な啓蒙的新書をものした生物学者・進化学者の千葉氏が、またしても科学という営みの本態を啓蒙する良書を世に問うてくれた。  マイケル・D・ゴーディン『疑似科学から科学をみる』(隠岐さや香監訳、岩波書店)。啓蒙が正邪を二分し、「邪」の殲滅に執心しだすと、独善主義・独裁主義の気味を呈し、不幸をばらまく。自然科学が科学主義の色彩を帯びると、疑似科学を叩きはじめる。だが、疑似科学を消滅させることなどできはしない。正当科学と疑似科学は常に同時生成されるメカニズムのもとにあることを歴史家のゴーディンは鮮やかに描き出す。  伊東剛史『近代イギリスの動物史』(名古屋大学出版会)。動物史という、メジャーとは言えない歴史学の領域は、日本では大いに立ち後れてきた。その水準を一挙に高めた意欲作。19世紀を対象にする際も、人新世や生物多様性といった課題が常に念頭にある点も意欲的。今後、歴史分析と現代的課題をさらにどう結びつけてくれるのかが楽しみになる。(ひろの・よしゆき=東京大学名誉教授・科学論・科学史) 江川 純一  ルーベン・ファン・ラウク『悪魔崇拝とは何か古代から現代まで』(藤原聖子監修、飯田陽子訳、中央公論新社)。他者の言動をサタニズムに帰す「ラベリング」から、自らをサタニズム概念・サタンの存在と同一視する「同一化」への歴史的移行を豊富な資料で明らかにする。  ミラン・クンデラ『誘拐された西欧、あるいは中欧の悲劇』(阿部賢一訳、集英社新書)。大国に翻弄される「小民族」概念に可能性をみる一九六七年の演説と、「中欧」概念(すなわちチェコ、ポーランド、ハンガリー、そしてオーストリア)を再定義した一九八三年の評論から成る。日本を歴史の主体ではなく客体として眺める視点をも与えてくれる良書。  モーリス・ラヴェル『ラヴェル著述選集』(笠羽映子編訳、法政大学出版局)。一時期評論活動を行っていた作曲家は、藝術的な創造の原理は直観もしくは感性によって作られると明言する。日本オリジナル編集で貴重な写真も収録されている。(えがわ・じゅんいち=宗教史学) 松永 正訓  松永K三蔵の『カメオ』は最高におもしろかったが、今年もノンフィクションから収穫の三点を選んでみる。今年は医療系作品の当たり年であった。堀川惠子『透析を止めた日』(講談社)。説明不要だろう。一冊の本のインパクトが現実の医療制度を変えた。ノンフィクション文学が到達しうる最高点にまで行っている。タイトルもいい。高梨ゆき子『「もう一度歩ける」に挑む 救命救急センター「チーム井口」の覚悟』(講談社)。頸髄損傷に対して超早期手術に挑む井口医師を中心とした、関係者たちの群像ドラマ。取材が非常に深く、医師でない著者がよくここまで現場を表現できるなと感嘆する。リーダビリティーにも優れている。杉田俊介『鬱病日記』(晶文社)。鬱病である著者が自分の内面を綴った日記文学。同様の作品は多数あるが、ここまで自己を表現できるとは。重い鬱状態で書けること自体に驚く。希死念慮がどういうものか大変よく分かった。ほかにも傑作がいくつもあり、三点に絞るのは難しかった。(まつなが・ただし=小児外科医・ノンフィクション作家) 豊﨑 由美  読みながら頭上に数多の「?」が浮かぶ奇妙な小説に収穫の多い、喜ばしい1年だったと思う。  ヘルベルト・ローゼンドルファーの『廃墟建築家』(垂野創一郎訳、国書刊行会)。時間と人物と物語が入れ子のように仕込まれており、たくさんの異なる位相のエピソードが交わりに交わる。完璧に理解するのは不可能で、読めば末代まで自慢できる1冊だ。  訳者が自慢していい逸品がエヴァン・ダーラの『失われたスクラップブック』(木原善彦訳、幻戯書房)。というのもこの小説、数え切れないほどの人物が登場する群像劇なのだが、その主語が原文ではすべて「I」なのだ。それを「私」「俺」「ぼく」などと訳しわけてくれているから、日本の読者は、一見関係のなさそうな話者とエピソードが次から次へと出てくるこの小説世界で迷子にならずにすむ。  2025年がその木原善彦の年であることを決定づけたのが、チャーリー・カウフマンの『アントカインド』(河出書房新社)。ダメ男小説であり、奇想てんこ盛り小説であり、トランプ風刺小説であり、などなど奇天烈中の奇天烈というべきメガノベルだ。買って(1万5400円!)読んで自慢しましょう。(とよざき・ゆみ=書評家) 真木 由紹  下平尾直『版元番外地』(コトニ社)。著者一人、どんな想いで版元を立ち上げることになったか。〈それまで〉と〈それから〉の来し方が正直に語られる。頻出する周回遅れという著者による自嘲が次第に輝きを増すから不思議だ。自嘲する、けれど拗ねたり投げたりはしない。この粘りのうちに〝ロマン〟が巻き起こるのではなかろうか。不意に挿入される『罪と罰』考も随分と面白い。ドス再読を促された。  倉本知明『フォルモサ南方奇譚』(春秋社)。台湾に関する書籍の中で〝手に取り易さ〟の範疇から漏れず、それでいて他と重ならない内容と筆致だった。まさに台湾南方を勉強させて頂いた一冊だ。何より著者はスクーターや健脚を使って見聞している。そこが明らかに違った。とりわけ高雄の民家の稠密、その生活に紛れている外国人の墓石が印象深い。  岡本謙次郎著、千石英世・鈴木重雄編『運慶・ルオー・ブレイク 岡本謙次郎美術批評集成』(水声社)。表題の三人に関する論考はもちろんのこと、小島信夫とのやりとりを巡るエッセイ等、短めの文章群も濃密で面白い。個人的に「ユーモアについて」に出会えて良かった。今後の護符に成りえる気がする。本日も読むつもりです。(まき・よしつぐ=作家) 宮田 徹也  エド・ヨン『動物には何が見え、聞こえ、感じられるのか』(久保尚子訳、柏書房)。人間中心主義どころか自己崇拝権威主義に落とし込められている今日にこそ、動物の視点から自らを見直すべきではないだろうか。生き物は単独では生活できない。多角な視点に、運命は拓かれる。  ジャスティン・ジェスティ『戦後初期日本のアートとエンゲージメント』(山本浩貴訳、水声社)。敗戦後芸術を読み直すことによって、現代の我々が為すべきことを示唆してくれる。我々は単独ではなく、関係性の中に生きている。そのようなことをもう一度、思い起こすべきである。  山本萌翁『正面に衣裳を眺めれば』(能登印刷出版部)。暗黒舞踏は過去の遺物ではなく今日でも息を吐き続け、それは未来にも続く。マイナーな分野にこそ、真実が隠されているのだ。検証は、新たな解釈を生み出す。様々な解釈こそ、未知を切り拓く機運が齎される。(みやた・てつや=日本近代美術思想史研究) 枡野 浩一  YO―KING(真心ブラザーズ)と穂村弘が帯文を寄せた『ソーリーソーリー』(短歌研究社)は、phaと枡野浩一が帯文を寄せた第一短歌集『ラストイヤー』(短歌研究社)に続く、脇川飛鳥の第二短歌集。拙著『かんたん短歌の作り方』(ちくま文庫)のスター的存在だった投稿歌人が、26年くらいの歳月を経て、ようやく単行本デビューした。《松たか子さん抱きしめてほしい松たか子さんにもありますか許せないこと》。私は字足らず字余りに厳しい歌人なのだが脇川作品は大好き。字余りにもセンスが必要ということが二冊を読むとよくわかる。  昨年春から爆笑問題さんの事務所「タイタン」に所属している。太田光代社長による『社長問題!私のお笑い繁盛記』(文藝春秋)を読むと、自分がタイタンに心ひかれた理由がよくわかる。  秋山千佳『沈黙を破る「男子の性被害」の告発者たち』(文藝春秋)に関しては、「労働新聞」に書評を執筆した。今年一番衝撃を受けた一冊。(ますの・こういち=歌人) 吉川 浩満  師田史子『日々賭けをする人々 フィリピン闘鶏と数字くじの意味世界』(慶應義塾大学出版会)  フィリピン賭博の文化人類学研究。マニアックなテーマだが、蓋を開けてみれば、これ以上に普遍的なテーマはないのではないかと思えてくる。賭博を通して世界と人生の意味が浮かび上がる。  團康晃『休み時間の過ごし方 地方公立中学校における文化とアイデンティティをめぐるエスノグラフィー』(烽火書房)  風変わりだが嬉しい驚きに満ちた研究書。著者が「休み時間」という捉えどころのない対象を記述するための適切な方法を見出していく過程が、さながらビルドゥングスロマンのように描かれる。  益田肇『人びとの社会戦争 日本はなぜ戦争への道を歩んだのか』(岩波書店)  日本の戦争への道とは、一般の人びとの間の社会的な役割や価値観をめぐる衝突(社会戦争)を、戦時体制の論理を利用して解決しようとする過程にほかならなかった。通説をくつがえす名著。(よしかわ・ひろみつ=文筆家・編集者・配信者) 越川 芳明  今福龍太著、石川直樹写真『仮面考』(亜紀書房)。仮面とは何か?素顔とは何か?著者は、「あらゆる深い精神は仮面を必要とする」というニーチェの言葉を引用する。世界各地に残る仮面の数々、そして写真や壁画や絵画など、多ジャンルにおいて表現された「深い精神」と仮面とのかかわりについて独自の文体で語る。死を畏怖する人間の本質にスリリングに迫る渾身の一冊。  ハチュマク、デビッド・L・キャロル『目に見えない世界の旅』(北村京子訳、作品社)。物質的なモノに支配された「文明社会」が忘れかけている、自然とのつながりや、人間の根源的な精神性(スピリチュアリティ)について、深く問いかける良書。アマゾン奥地のシャーマン自身の言葉を通して、精霊たちが息づき、植物が語りかけ、夢が現実を形作る世界へと私たちを誘い、私たちの価値観の変革をうながす。  金原ひとみ『YABUNONAKA ヤブノナカ』(文藝春秋)。単純な二極化を加速させるSNS時代の風潮を背景に、多様な登場人物たちの複雑な内面を掘り下げる。匿名で拡散される「声」が、いかに個人の根源的な欲望と精神を歪めていくか。急速に変容する「ジェンダー」や「セクシュアリティ」の意識に戸惑い混乱する人々をめぐる緻密な描写と、この作家が長年追求してきた「性愛」のテーマが見事に融合。面白く、かつ読み応えのある、今年一推しの長編小説。(こしかわ・よしあき=明治大学名誉教授・アメリカ文学) 青木 亮人  田中道雄『安永天明俳諧の研究』(和泉書院)。長年の江戸俳諧研究を収めた学術書。『俳諧古選』に見る唐詩選や性霊説の影響、心学と蕉風俳諧の関係、近江商人と行脚俳人の重なりや蕪村の絵入俳書の読解等に加え、蕉風復興運動を担った蝶夢が浄土宗信徒だった機微を論じた緒論が素晴らしい。  大塚凱『或』(ふらんす堂)。第一句集。〈雪ふりつむ夢にいつものすべりだい〉等の不穏な空気感を察知する感性に加え、〈夜桜やうるほふ肉のわたしたち〉〈死後あたたか郵便受けにあふれる紙〉〈寺かつて藤ごと燃えて街の名に〉等、メタ認知に近い思念を経た構造的な抽象把握と質感に言葉を嵌めゆく手続きの見事さは、まさに言葉遊びの達人。現在の俳句を代表する句集。  池田瑠那『境目に立つ、異界に坐す』(文學の森)。俳人でもある著者の第一評論集。室生犀星、加藤楸邨、上野泰の論の他、俳句関連の随筆等を収める。自説に見合った句や俳人像のみ強調せず、各俳人や作品の特質を見極めようとする論は誠実で、多くの示唆に富む。(あおき・まこと=俳句研究者) 江南 亜美子  「分断」をめぐる印象的な三冊を選んだ。  ベン・ラーナー『トピーカ・スクール』(川野太郎訳、明庭社)は、競技討論を得意とする高校生が「論破」的論法の限界を知る過程を、複数の時代と視点をスイッチして語る小説だ。トランプ時代のアメリカで、真のコミュニケーションの可能性を提示する批評性が効いている。新興のひとり出版社からの刊行も応援したい。  『7』などの小説も書くトリスタン・ガルシアの『〈私たち〉とは何か』(関大聡・伊藤琢麻・福島亮訳、法政大学出版局)は、「私たち」と「彼ら」を線引きし白黒の理屈をつける政治的ふるまいを、さまざまな観点から検分する哲学的エッセイ。共感の問題を考える際にもヒントになる。  金原ひとみ『YABUNONAKA ヤブノナカ』(文藝春秋)は、ひとつのありふれたパワハラ・セクハラ事件を契機に、取り巻く多様な人物たちの立場と意見の違いをヴィヴィッドに描き分けて、読者に問いを投げ返してみせた意欲的な小説作品だ。(えなみ・あみこ=書評家) 西野 智紀  藤井一至『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』(講談社ブルーバックス)は、生物学者でも地質学者でもない「土の研究者」が、普遍的かつ複雑で高度な物質「土」を語り尽くす一冊。一センチメートルの土の生成に百年から千年かかるという途方もない時間スケールに驚嘆する。  上岡伸雄『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』(ハヤカワ新書)は、東京大空襲の米軍指揮官カーティス・ルメイの生涯とその思想基盤に肉薄した評伝。家族や部下に慕われる一方、徹底した実際家で十万人を殺戮したルメイを正確に捉えようと苦心する筆致に、戦争とは何かという根源的な問いが想起させられる。  増田隆一『ヒトとヒグマ 狩猟からクマ送り儀礼まで』(岩波新書)は、北海道の地を中心に、ヒグマとヒトとの運命的な文化的交わりを綴った一冊。ヒグマへの「畏れ」が「恐れ」へと変貌した今、関係性の変遷を振り返るには最適の書だ。  以上、不朽のロングセラーとなり得る話題の新書三選である。(にしの・ともき=書評家) 山本 貴光  浜口稔『ホモ・ロクエンス 言葉とメディアを介して事物世界を編む』(明石書店)  ヒトが言葉を発するための解剖学的条件から出発して、言語の特徴、文字の発明と印刷術の発展、書物や事物やネットを通じた知の共有のあり方まで、記号や事物をくみあわせてものを作るヒトの姿に光を当てる好著。  ユージニア・チェン『世界は圏論でできている』(川辺治之訳、森北出版)  「数学の数学」とも呼ばれる圏論は、日常でも物事を関係でとらえる私たちのものの見方に通じる魅力的な領域だ。本書は、数学嫌いをなくす活動も展開しているという著者による、かゆいところに手が届く入門書。  新編西周全集編纂委員会編『新編 西周全集 第三巻 言語・教育編』(国書刊行会)  幕末から明治にかけて、西洋学術の移入に大いに尽力した西周は、啓蒙知識人と呼んで済まされることも多いが、本書に集められた文章を読めば、現代に続く日本語と教育の基礎を築いた人である次第も見えてくるはず。(やまもと・たかみつ=文筆家・ゲーム作家・東京科学大学教授) 人見 佐知子  ①吉見義明『日本軍慰安婦』(岩波新書)  前著『従軍慰安婦』(岩波新書)から三〇年。この間新たに発見された史料や証言、研究成果を反映し、日本軍「慰安婦」制度が軍主導の性奴隷制であったことが一層明らかとなった。問題解決のために植民地主義と買春容認文化の克服が課題であるという指摘も重要。  ②林博史『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書)  第一人者による「沖縄戦」研究の集大成。人々に死を強いた組織(日本軍・政府・行政・教育・社会など)とその仕組みを史料にもとづいて詳細に検証し、「沖縄戦」の全体像を描き出した。かつ、組織を動かしてきた人々の責任を戦後日本社会が免罪してきたことの問題を鋭く指摘。敗戦から八〇年の今年、相次いだ政治家による「沖縄戦」の実相を歪める発言の原因もそこにある。  ③塩出浩之『琉球処分「沖縄問題」の原点』(中公新書)  「尚家文書」を用い、「された側」である琉球・沖縄からみた「琉球処分」の過程を丹念に明らかにした。その背景にあった、大和人による沖縄人への差別や蔑視は、「沖縄戦」や米軍基地問題につながる。②とあわせて読みたい。(ひとみ・さちこ=近畿大学教員・日本近現代女性史) 宮崎 智之  鳥山まこと『時の家』(講談社)。小説としての完成度が高く、言葉で世界をつくる文学の魅力を遺憾なく発揮している。スケッチ風に描かれた描写が印象的で、ストーリーはもちろんだが、その描写自体が物語る時間や記憶が、読後も深く心に残る現代文学の最高峰。  生湯葉シホ『音を立ててゆで卵を割れなかった』(アノニマ・スタジオ)は、今年最高のエッセイ集だった。「食べられなかった/食べなかった」ものについて語られていく著者の世界観は共感型エッセイの体裁をとりながらも、巧みに「わからなさ」のあわいに誘う精妙な筆致で描かれ、独自の表現を築いた。  杉森仁香『死期か、これが』は、やまなし文学賞受賞の著者による自主制作短編集。ひとつのシーンを形成している独立書店を中心に売り切れが続出し、話題となった。死期を感じ取る人の話を聞きに行ったルポルタージュ風の小説で、ブレイク必至の著者による鋭い感受性が光る。(みやざき・ともゆき=文芸評論家・エッセイスト) 重信 幸彦  鈴木裕貴『落とされなかった原爆――投下候補地の戦後史』(中央公論新社) 原爆の投下候補だった小倉、新潟、横浜そして京都。小倉には、八月九日朝に原爆を搭載したB29が飛来した。原爆を免れた都市が、原爆を我が事として想起してきた過程を「実証的な想像力」として問題化し、戦争体験者無き時代の記憶・記録の伝承にむけた問いの説得力ある筋道を提起する。  原田小鈴/アリ・ビーザー『「キノコ雲」の上と下の物語 孫たちの葛藤と軌跡』(黒住奏訳、朝日新聞出版) 広島と長崎で二度被爆した男性の孫と、広島と長崎、双方に原爆を搭載して飛んだ唯一の搭乗員の孫。キノコ雲の上で語られる「正義」と下で語られる「悲惨」を越えた二人の出会いが、新たな言葉の地平を拓く。  梶原康久『関門北九州の戦争と平和 米国戦略爆撃調査団資料の分析』(花乱社) 爆撃の効果と日本人の戦意の測定を目的とした、戦略爆撃調査団によるインタビュー調査のデータ。それを逆なでに読み込み、八〇年前の〈声〉を聴き取り、地域史に刻まれた総力戦の経験を鮮烈に再現した迫力ある仕事。(しげのぶ・ゆきひこ=北九州市平和のまちミュージアム・民俗学) 若林 踏  今年はミステリジャンル以外の小説でベスト3を選ぶ。  ①小池真理子『ウロボロスの環』(集英社)は、ある夫婦の間に出来る小さな噓の積み重ねが不穏な読み心地を与える小説。作者本人は同作を「ヨーロッパの心理小説の流れにあるようなもの」として書いたとのことだが、閉じた日常の中に流れ込んでくる不安を描くサスペンスや終盤近くに待つサプライズの演出などは、これまで著者がミステリと分類される作品で培ってきた技法が活かされていると言って良いだろう。  ②鈴木結生『携帯遺産』(朝日新聞出版)はファンタジー小説の書き手である主人公が自叙傳を書こうとする過程を描く小説。作中に頻出する言葉の遊びの数々が楽しく、ミステリ小説ファンが喜びそうな仕掛けもある。  ③夏川草介『エピクロスの処方箋』(水鈴社)は哲学的な思索を込めた医療小説シリーズ第二作。主人公の医師が知性によって患者や医療に従事する人々の心へと分け入る姿が印象的だ。(わかばやし・ふみ=書評家) 高橋 勅徳  藏本龍介『仏教を「経営」する 実験寺院のフィールドワーク』(NHK出版)はミャンマーで出家した著者が、檀家制度とは異なる寺院経営を目指すエスノグラフィーである。仏教的善行の基盤として、共同体を組織する経営感覚を見出す著者のまなざしが新鮮であった。  アン・ジョーダン『ビジネス人類学の教科書』(伊藤泰信・河野憲嗣・中畑充弘・八巻惠子訳、ナカニシヤ出版)は我が国ではまだ存在が知られていない経営人類学の重厚なガイドブックであり、その魅力を伝えてくれる。同書の発売を機に、我が国でも経営人類学を手掛ける学徒が増えることに期待したい。  ベンジャミン・ウォレス『サトシ・ナカモトはだれだ? 世界を変えたビットコイン発明者の正体に迫る』(小林啓倫 訳、河出書房新社)は、ビットコインの出現という今世紀最大の金融事件の中心人物を追い求めるルポルタージュを通じて、アカデミズムとテクノロジーがアンダーグラウンドとつながったときに生じる凶悪な影響力を考えさせられた一冊だった。(たかはし・みさのり=東京都立大学准教授・経営学) 小野 俊太郎 「ナショナルなもの」に関して考えさせられた三冊を。竹村はるみ『シェイクスピアと宝塚』(大修館書店)では、外来の演劇を摂取したプロセスが浮かび上がる。文化の目録はこのように増えていくのを忘れるべきではない。中島岳志『縄文 革命とナショナリズム』(太田出版)からは、過去をどのように評価し接続するのかに関して、縄文右派と縄文左派とが都合の良い過去像を奪い合う状況に気づかされた。越智萌『だれが戦争の後片付けをするのか』(筑摩書房)から、「戦争後の法」の観点を教わった。後片付けをきちんと引き受けないままに「ナショナリズム」が暴走するというのは、今まさに日本で起き