滅びゆく惑星で 第3回
増田俊也
元スポーツ選手たちの動画サイト
YouTubeなどの動画サイトを見ているとかつて球場を沸かせたプロ野球選手や、光を浴びたプロボクサーなどが次々と自分のチャンネルを起こし、自らの現役時代を振り返っている。あの試合の裏側はこうだった、あの一球にはこんな意図があった――。これまで知らなかった話ばかりだから、ファンには確かに面白い。だが少し引いて眺めれば過去を食い潰しているだけで、何も産み出さない。
珍しいうちはよかった。一人や二人が口を開くなら、それは貴重な証言である。しかし今は誰も彼もが同じことをやっている。引退した名選手の数だけチャンネルがあり、そのどれもが似たような構図で過去を切り売りしている。「あのときはね」「あの試合ではね」と横並びになった瞬間、それは異様な光景に変わる。
考えてみれば奇妙な話だ。彼らがかつて魅せたものは、グラウンドの上の、リングの上の、その瞬間にしか存在しない再現不能のものだった。観客は息を呑み、勝者にも敗者にも物語を見出した。沈黙のうちに伝わるものこそが、彼らの仕事の核心だったはずである。ところが今、その核心の周りにあった余白を、本人たちが「お喋り」で埋め尽くしにかかっている。活字文化で評伝として残されるものは文学であった。しかし自分たちで「お喋り」を切り売り始めるとただの井戸端会議である。しかもネット上で喋っているリアルタイムの彼らの身体は残酷に痩せ、髪は薄くなり、顔には大きな皺が何十本と寄っている。
聞こえはいい。貴重な証言、ファンサービス。だが本質は自分たちで自分たちのプライバシーを暴露するスキャンダリズムである。かつてはマスコミが暴き、本人が否定するという緊張関係のなかにあったものまでも、今は本人が率先して差し出している。差し出せば再生数になり収益になる。回転は速い。そして、すべてを曝した後には何も残らない。余白も、想像の余地も、一度「お喋り」にされてしまえば二度と戻ってはこない。
これは創造ではなく、過去を削っては売る行為だ。掘り尽くせばその土地は死ぬ。有名人の動画サイトの正体は、自分の人生という鉱脈の最後の鉱石を、一日いくらで切り売りする労働である。
そして見ている者も、多くがその発信者と同じ年代の人びとだ。別の世代は別の場所で彼らの世代の発信者のものを見ている。ここにあるのは、同じ時代を生きた者同士が、同じ思い出を確かめ合う閉じた円環である。発信者と受信者は、同じ船に乗って同じ川を下っていく同朋だ。
川の先には巨大な滝がある。船はいつかその滝を落ちる。乗っている人びとは、自分たちの過去を最後の欠片まで売り切ったあとに、一緒になって滝を落ちていく。文化でも芸術でもない、ただの消尽がそこにある。(ますだ・としなり=小説家)
