2026/03/13号 3面

岐路に立つドイツの「過去の克服」

岐路に立つドイツの「過去の克服」 浅田 進史・板橋 拓己・香月 恵里編著 鈴木 楠緒子  ドイツ連邦共和国は、加害の歴史であるホロコーストを中心に据えた「想起の文化」を根付かせてきたことにより、「過去の克服」の優等生と見られてきた。  しかし、そのイメージは、今や大きく揺らいでいる。ホロコーストの過去を反省し「反ユダヤ主義」に反対することが、ドイツの「国是」Staats-räsonとされ、イスラエルの現政権に対する批判をはじめ、「反ユダヤ主義」撲滅の名の下に言論が制限される傾向が強まっている。こうした状況を皮肉った論考を、オーストラリア出身の研究者モーゼスが二〇二一年に発表すると(第4章「ドイツ人の教理問答」)、一九八六年~一九八七年にかけての「歴史家論争」を彷彿とさせる大論争が起こる。この新しい論争は過去の論争との対比で「歴史家論争二・〇」と呼ばれるようになる。  本書は、この「歴史家論争二・〇」を手がかりに、二〇二三年一〇月に始まったガザ危機へのドイツ政府の対応も踏まえ、ホロコーストの過去を反省するとは何であったのかに迫った論文集である。序章を除く九本の論文から構成され、「歴史家論争二・〇」の基本論文として知られるモーゼスとロスバーグ(第3章「比較を比較する――「歴史家論争」からムベンベ事件へ」)の論考の全訳を含む。  執筆者の専門分野や立場は様々だが、本書を通読することにより、ホロコーストを中心に据えた「想起の文化」が欧米でどのようにして形成されてきたか、そして、これがドイツに根付くにあたって、歴史家たちの論争がどのように関わっていたのかについて、見取り図が得られる構成になっており、「ナチによるホロコーストの過去があるから、ドイツはイスラエルを批判できない」とは単純にはならないことに気づかせてくれる。  加害の過去をめぐってドイツ連邦共和国で長年展開されてきた論争は、日本でも同時代から積極的に紹介されてきた。しかし、その紹介のされ方には、若干偏りがあったように思われる。加害の過去を相対化しようとする右派の側からの試みに対して、ホロコーストの「比較不能性」「唯一性」を唱えた左派の主張の勝利が歓迎される傾向が強かった。その直後に冷戦が終結し、東西ドイツが統一したこともあって、以後ホロコーストに代表されるナチズムの過去を反省し、関係国との和解を進めてきたからこそ、ドイツの再統一もEUの中での主導的な地位もあるといったストーリーが、概ね共有されてきたように思われる。他方で、本来それらの論争の背後にあったはずの、ドイツ連邦共和国がイスラエル建国をめぐって激動する中東情勢にどのように関わってきたのかといった問題については、ドイツ史研究者の間ではあまり問われてこなかったと言わざるを得ない。その意味で、ドイツの対イスラエル外交を扱った論文(第2章)や、ドイツがヨーロッパ最大のパレスチナ人コミュニティを擁していることを意識させる論考(第6章)が収められていることは、有益である。  また、「過去の克服」の取り組みが日本で紹介される際には、ドイツ連邦共和国が「多文化社会」であることに対する視点も弱かった。冷戦後については、ドイツ連邦共和国が、国内の少数者やかつてのドイツ植民地の人々など、ホロコースト以外の犠牲者への対応に迫られていることが紹介されてきてはいるが、「多文化社会」の進展が「想起の文化」をめぐる議論にどのような影響を及ぼすのかについては、あまり論じられてこなかったと思われる。この点、メディアだけでなく学術研究でも登場した、ポストコロニアリズムと「反ユダヤ主義」を結びつける議論について考察した第5章は新鮮である。確かに欧米の歴史につきまとってきた植民地主義に対して批判的なポストコロニアリズムの問題意識には、ホロコーストの「比較不能性」「唯一性」を軸にした「想起の文化」の依って立つ基盤を揺るがしかねない側面があることは、容易に推測できる。だが、こうした問題意識まで「反ユダヤ主義」反対に抵触するとなると、イスラエル批判をするイスラム教徒の移民などに向けられた排外的な活動までもが、「反ユダヤ主義」への反対の名の下で正当化されかねない。実際にはドイツの「反ユダヤ主義」的な犯罪行為の大多数は右翼によるものであるにもかかわらず、批判されるのは中東出身者やイスラム教徒ばかりという指摘には驚かされる。  本書はドイツの事例に限らず「想起の文化」の未来について幅広く考えるための基本文献の一つとなるであろう。(すずき・なおこ=文部科学省初等中等教育局教科書調査官・ドイツ近現代史)  ★あさだ・しんじ=駒澤大学教授・ドイツ近現代経済史。著書に『ドイツ統治下の青島』など。  ★いたばし・たくみ=東京大学教授・国際政治史。著書に『分断の克服1989―1990』『黒いヨーロッパ』など。  ★かつき・えり=岡山商科大学教授・ドイツ現代文学・ドイツ文化史。訳書に『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』など。

書籍

書籍名 岐路に立つドイツの「過去の克服」
ISBN13 9784272510214
ISBN10 4272510215