2026/08/21号 5面

中上健次

中上健次 渡邊 英理著 河野 真太郎  文学は、書かれただけでは完成せず、常なる新時代において読み直されてこそ完成する。いや、完成するというのは間違いだろう。それはいかなる時代においても、その時代との未完の相互作用のうちに仮設的に姿を現す。そのようなダイナミクスが眼の前で展開されるのを目撃した。それが渡邊英理『中上健次 路地のビジョン』である。  読み直しとは、新たな歴史的条件をあてはめて(「アップデート」して)作品を読むことではない。そうではなく、作品と連続した歴史の地盤の上からふり返り、その地盤ともども作品を問い直すことである。中上の路地の文学を(再)開発文学として読むという、渡邊の前著『中上健次論』(インスクリプト)からひきつがれた本書の最も太い柱は、まさにそのような視点を与えてくれる。一九六〇年代末にデビューし、七六年に「岬」で芥川賞を受賞した中上は、高度経済成長が一段落し、資本主義が爛熟へと向かった日本の作家だった。だがそのような資本主義の表街道の陰には、中央に対する周辺としての紀州、そしてその紀州の内部に存在する部落(=路地)という、抹消されつつ近代の資本主義発展を下支えした存在があった。中上の小説は、そのような存在をめぐるものであった。その文脈においてこそ「路地」は副題にある「ビジョン」となる。それは近代の表街道を異化し、それに抵抗し、「別様の世界を希求する」ための「思想的なビジョン」(v)となるのだ。  近代の表街道と裏街道の対照を、中上と同郷の佐藤春夫の『わんぱく時代』と、それが抑圧した路地=部落を描きこむ中上の実質的デビュー作「一番はじめの出来事」との比較によって鋭利に示すことで、本書は語り起こされる。  続いて見事な手つきで示されていくのは、中上が小説という高度に近代的なジャンル的形式の因習にいかに対峙しつつ、「路地」が複数の局面において「近代」の生産を下支えしてきたこと──評者なりの用語法を導入すれば、さまざまな「収奪」に現代の資本主義が依存していること──をいかに示したかということだ。  その局面の一つはジェンダーである。それは何も「新しい」フェミニズム理論で中上を読むというようなことではない。家族物語としての小説が、近代的な家族関係=性関係の規範を前提としつつ生成してきたなら、その小説に対峙する中上が同時に性関係を問い直したというのは必然なのである。「岬」が上記の(再)開発文学でありつつ近代ブルジョワジーの家族物語に抗する物語でもあるという読解、また渡邊が重視する『熊野集』(この重視については評者も賛同する)を中心に描かれる、「生殖を脱中心化した路地の親族関係」(80)、またはクィア家族についての読解は、資本主義、家族のイデオロギーと文学形式が交差する瞬間を射貫く。  「秋幸三部作」の完結編『地の果て至上の時』を論じる第五章は、後期資本主義がまさに共有地の収奪に存することを示す。この作品では林業に携わる秋幸は、同級生の友永の友永林業と、国有林の解釈において対立する。友永が国有林を「公」のものであるがゆえに個人の利用に開かれていないと考えるのと反対に、秋幸は「公」であるがゆえにあらゆる人の利用に開かれていると考える、という示唆的な読解(113)は本書の白眉の一つだろう。  そのような資本主義の収奪への批判的眼差しは、(この言葉は本書では一度しか使われないが)交差的な連帯と想像力へと向かっていく。女性を主人公とした一連の「女物語」における挫折もする女同士の連帯、そして遺作『異族』に現れる、「早すぎる晩年様式」による「アジア的想像力」(195)である。  これらの後期作品を論じるにあたって、渡邊はいたずらに中上を完成された作家として扱うことをしない。その限界を指摘しつつも、それを生産的な「臨界点」として読み替えていく。これは、作品の価値を切り下げるどころか、その歴史的な意義を最大限に評価する態度だと言える。  同じことが本書そのものについて言えるだろう。私たちはこれを決定版の「中上論」として捉えてはならない──評者もそう言いたくなる欲望を抑えられないのではあるが。渡邊が中上作品を「仮設的」なものとして読むのと同程度に、私たちは渡邊の批評を仮設的なものとして──中上作品と同じ歴史的地平に開かれたものとして──読むべきだ。そうしてこそ、本書の達成は正確に理解されるはずである。(こうの・しんたろう=専修大学教授・英文学・カルチュラル・スタディーズ・ジェンダー学)  ★わたなべ・えり=大阪大学大学院教授・日本語文学・批評・思想文学論。著書に『中上健次論』(表象文化論学会賞)など。

書籍

書籍名 中上健次
ISBN13 9784004321170
ISBN10 4004321174