文芸 <10月>
松田樹
「文学者はプールがお好き」(『文學界』)という謎(?)の特集が面白い。長嶋有のプールをめぐる群像小説『七、八月のストローク』刊行とデビュー二五周年を祝した企画。長嶋のインタビューも収められている。が、とくに目を見張ったのが、巻頭に収められた九段理江と伊舎堂仁による対談「プールは時間を歪ませる」。村上春樹「プールサイド」、庄野潤三「プールサイド小景」、小川洋子「バックストローク」等のプールを舞台にした名作を挙げつつ、その空間が文学の中でいかなる機能を有してきたのかを読み巧者の二人が分析する。九段はそれらの作品がプール→回想→プールという構造で共通しているとし、静謐な水のイメージは「時間をゆがませる装置」だと指摘。伊舎堂は茫漠とした印象を与える海に対して、「箱型で仕切られた人工物の極地」プールは短い分量で読者を没入させやすいとする。「こういう本の読み方があるんだ」と話し手の二人も口吻を漏らしているように、確かに他には類を見ない新鮮な読書体験を促す。泳いだ後の身体と同じく、読了後にはこちらの認識がぐにゃりと歪む。
ここに「特集 批評、考察、その先へ──」(『新潮』)から大島育宙「ゴムマスク狂想曲──『VIVANT』、考察、陰謀論」を繫いでみよう。大島は昨今の「考察ブーム」を批評と対極に位置するものと見なし、その特徴を「「謎」に熱中するあまり、作品それ自体の価値にはほとんど興味がない」と概括する。「「説」と「確かに!」が掛け声のように交わされる、お祭りのようなコミュニケーション」。こう言ってよければ、考察とは「プール」なのだ。人工的な空間で一時期の没入を担保し、コースや規則が定められた安全な遊び場。実際、春樹や庄野といったプール小説の名手は作中に黙接法を頻用し、考察を誘発させる書き手であった。翻って、批評は作品を「海」としてそこへの没入を迫り、時には自身の位置取りやゲームの規則さえ分からなくなってしまう危険な遊泳を寿ぐ。例えば、特集にも寄稿している蓮實重彥は、まさに典型的な海派である。蓮實の論考はこう締め括られる。「「批評」とは、意識の放棄につながりかねない禍々しい言葉の揺蕩いとでもいうべきものにほかならず、敢えていうなら、「魅了」されつくした主体がそのつど漏らすいわば自己否定への、自堕落さを欠いた慎ましい心の傾斜そのものなのである」。もちろん、たゆたいの果てに海の向こうへと遭難したとしても、それを扇動してきた批評家が責任を取ってくれるわけではない。近年、海水浴客は八〇年代のピーク時に比べて九割減であるそうだが、八〇年代は批評が最も活性化した時期でもある。「海離れ」の潮流が批評の盛衰と重なっているのは偶然だろうか。
いずれにせよ、私たちはつねに没入する先を探している。プールでも海でもどこかにたゆたっていなければ、退屈と孤独を持て余してやりきれない。鴻池留衣「A Deeper Understanding」(『文學界』)と沼田真佑「葡萄畑」(『文學界』)はそうした私たちの自画像として読むべきだ。前者は「特集 鴻池留衣とは誰か?」に寄せられた新作短篇。「私」は一〇年間付き合っている「マナブくん」から別れのメッセージを受け取る。耳障りなJアラートの警告音とともに。直接会った彼は別れを切り出すかと思いきや、片思いの女性を殺害しミサイルが墜落した「夢」を繰り返し聞かせる。彼の苦悩の正体は中年に差し掛かった人生のループ感にあり、交際解消の衝動も破局的な夢も退屈な日々からの脱出願望であることを「私」は次第に理解してゆく。結末、太平洋に「ぽちゃん」と落ちたミサイルが次はこちらに向かうのを祈念するかのように、二人は黙ったまま多摩川の河川敷で水を眺める。後者は匿名・流動型犯罪グループ、通称「トクリュウ」に材を取り、鎌倉周辺にたむろする不良らの強盗傷害事件を描く。リーダーは不在の中心として描かれ、二人の青年と犯行現場の隣に住む老婆に視点が置かれる。注目すべきは、どの人物のパートでも「雨」「ヘドロ臭い汚水」「ションベン」「深海魚」とじわじわと迫る死の危険が水のイメージで表される点。対照的に、水から免れているのは「境界知能」と心配され、「挑戦意欲が低い」老婆の孫・世津良。「前に潮干狩りに行って渚で転んでからというもの水場に近づこうとしない」。
水に近づき過ぎると危うい。今月の力作井戸川射子「純粋な二」(『群像』)もそう告げる。題名の通り、作品は双数で満たされている。ジュン母さんとノリ母さんという二人の母、「私」が作る物語の登場人物、それを聞いてくれる友人Sと「私」。「Sとはいつも、二人でいられるギリギリまで粘って一緒にいて、たまらず喧嘩で別れる感じ」。この危なっかしく快楽に満ちたペア関係もまた水のイメージで描かれる。表面張力が決壊するかのようにジュン母さんは修道院に入る。「修道院の敷地内に海辺もないから、手紙を海に浮かべて届けば良いなとかもできないよ」。こうしてみんなバラバラの「一」になる。ギリギリにまで没入するところに快楽がある。けれども、あなたが身を浸すのは、一時期の気晴らしのための人工的な水槽か、それとも際限なくたゆたう茫漠とした外洋か――。(まつだ・いつき=文学研究・批評・愛知淑徳大学創作表現専攻講師)
