文芸 7月
松田樹
ある日のキャンパス。教室のドアを開けると静まり返っている。全員がスマホを見下ろしているからだ。が、授業が始まりグループ活動に入ると議論は徐々に熱を帯び、教員の介入なしで話は進む。時間ギリギリまで続き、駆け足で解散となる。話し足りないような雰囲気が充満する。しかし、翌週来てみると、また一様にスマホに目を落としている。空き時間に自主的に議論が生まれる様子は少ない。もちろん、学生に限った話ではない。教室に反映されているのは、コロナ禍以降、より顕著となった私たちの社会における放談の困難さだ。
「特集 SNSが好きで嫌いで」(『すばる』)にて戸谷洋志「SNS時代における社交」も似た時代観測を記しながら、そこに「社交」の「マナー」の変質を見て取っている。今年春に亡くなった思想家のハーバーマスは、近代社会においてカフェという空間が異なる職種・階層の人々が対話する「社交の様式」を生み出したと説く。戸谷はしかし現代人はSNSで常に不特定多数と繫がりつつも――繫がっているからこそ――、その外で他者と向き合う様式を見失っていると言う。授業に限って話が活発になるのも、教員の介入によって場の性格が担保され、他者と言葉を交わす上での「マナー」がようやく明確になるからである。そんな安全設計がなければ、私たちはもう見知らぬ他人と何の気なく言葉を交わすことさえできない。常に場外乱闘のリスクがチラついてしまう。
こうした困難は、今月公開の映画『急に具合が悪くなる』にも描かれる。二誌が取り上げているので、少し紹介した上で読解に入ろう。『新潮』は監督濱口竜介と原作者の磯野真穂との、『文學界』は國分功一郎との対談を掲載する。「どうして濱口さんはこんなにワークショップが好きなんだろう」と問う國分への返答が印象的。「ワークショップのような特殊なルールが設定された場でないと、見知らぬ人間同士が触れ合うことって、特に日本ではそうそうない」と濱口は言う。つまり、舞台となるパリ郊外の介護施設「自由の庭」とは他者と向き合えない現代人の避難所なのであり、その制度設計があって初めて――認知症患者のケア技術「ユマニチュード」も他者と繫がる「応用可能な技法」とされる――「自由」を考えることができるのだ。その意味で、「自由の庭」は閉鎖空間から生み出される映画なるものの隠喩でもある。作中ではスマホは登場するが、二人の主人公が交わす書簡のようなメッセージ機能だけで、SNSは徹底して画面から排除されている。「自由」の試みに対置する形で、ここでもやはり現れるのは「リスク」という言葉である。
こんな話題の下で、石田夏穂「お疲れのところはございますか?」(『群像』)を取り上げたい。足ツボマッサージ店で働く「劉」こと鈴木は、「足裏って皮膚なのだけれど、何というか、粘膜よりの皮膚だ」と言う。足裏の粘膜的な交流にのみ他者との繫がりを見出す彼女は、そこに臓器の疲れを読み取る「反射区」という「物語」を拒絶する。が、そもそも彼女が「劉」を名乗るのも「本場感を出すため」であり、彼女はマッサージを巡って今の社会に氾濫する「物語」に絡み取られて身動きができない。今月刊行された石田の単行本『わたしを庇わないで』もSNS上のルッキズムをめぐる言説の渦の中で引き裂かれる身体のあり方を描いていた。批評性が光る。
対して、SF的な角度から現状を相対化するのは、先の『すばる』特集に寄せられた村田沙耶香「喪失」、小砂川チト「犬たちの頭痛」。村田作では導入の四行でいきなり「コラボカフェ以外の人類」が滅亡し二〇年が経過する。池袋のカフェを「集落」にして暮らし始めた三一人のオタクたちは、かつて存在したインターネットの概念をそれぞれの仕方で演じようと試みる。「ひたひたと、生ぬるい温度の足湯に浸る感じ」、「人間の筒が並んでいる。もしくは、人間が筒になって並んでいる」。最終場面の描写が群を抜いている。小砂川作は遭難事件を機に、山小屋の老人高野と老犬マクがネットの喧騒に巻き込まれる様子を描く。高野とマクの老いが事件の原因と報道されるや否や、周囲は罵詈雑言や擁護の声で二転三転。そんなある日、犬型山岳救助ロボット「オチャッピイ号」が運び込まれてくる。「オチャッピイは左右に首を傾げていっそうクルクルと笑った」。ロボット犬はマクと同じく何も知らないようで、巨大プラットフォームの下で全てを把握しているようでもある。非人間の飄々とした描写は、小砂川のお家芸だ。
最後に、こんな窮状を勇気付ける言葉を。エトガル・ケレット「混乱を讃えて」(秋元孝文訳、『新潮』「特集 今あえて、イスラエル人作家エトガル・ケレットと考える」)。「物語を書くことは、瓶に詰めてメッセージを送ることにちょっと似ている。(…)正直に言おう、それだって、きみのスクリーンでチカチカするインスタのリールよりはずっとリアルだ」。三〇年ほど前、ネットには投瓶のコスパの悪さを乗り越えることが期待された。が、今やそこには数の力が蔓延るばかり。かえって投瓶通信の泥臭さにこそ、戦時と日常、あちらとこちらの線引きを超え、僅かに声が届く可能性が宿るかもしれない。そうケレットは言う。このイスラエルからの切実な投瓶が、SNSとは違う回路で――出版社、翻訳者、雑誌、そして本紙を介して――読者のあなたに届くことを願って、筆を置く。(まつだ・いつき=文学研究・批評・愛知淑徳大学創作表現専攻講師)
