2026/03/27号 3面

ジル・ドゥルーズ講義録 絵画について

ジル・ドゥルーズ講義録 絵画について ジル・ドゥルーズ著 黒木 秀房  ドゥルーズ生誕一〇〇年の節目を迎えた二〇二五年、待望の講義録が邦訳された。フランス語では録音も文字起こしもインターネット上で参照可能であったとはいえ、全八回の講義(一九八一年三月―六月)が一冊の書物として編まれた意義は小さくない。というのも、ダヴィッド・ラプジャードの編集は、単なる再録ではなく、読みを妨げるノイズを丹念に取り除きつつ、思考の息づかいと講義の現場の空気をテクストの密度へと圧縮してみせるからである。くわえて注が随所に配され、著作では前景化されにくかった参照関係や知的背景が具体化されている。たとえば、クレメント・グリーンバーグやマイケル・フリードといったアメリカの美術批評家たちの受容や、リヨン大学時代の同僚アンリ・マルディネの影響の強さなどを著作以上に伺い知ることができる。  原書の刊行からわずか二年でこの成果を日本語で読めることになった事実自体が一つの事件であろう。講義の声をテクストへと定着させたラプジャードの編集と、それを日本語の思考へと受肉させる宇野邦一の翻訳によって誕生した本書は、もはや資料としての講義録にとどまらず、使徒たちによる「福音書」と呼びたくなるものである。だが重要なのは、権威としての正典に据えることではなく、どのような読みを開始するかである。もっとも、講義録である以上、ときに彼自身が「私たちは行き詰まっているようです」(五三頁)と述べるように、反復や横道は避けられず、冗長さが立ち現れる局面がある。しかしそれは、読者が結論を引き出そうとするときには障害となりうる一方、生成を読み取ろうとするときには手助けとなる。  本書を著作の答え合わせのための補助具、あるいは著作理解のための注釈として読むだけならば、その射程を矮小化してしまうことになりかねない。ドゥルーズ自身が講義を重要な哲学的機会として位置づけ、その中心的内容がのちに書物へと昇華されたとしても、ここに保存されているのは結論ではない。思考が分岐し、寄り道を重ね、ときに加速し、ときに躓きながらも、なお前へ進もうとする運動そのものが刻印されているのである。したがって本書を読むことは、概念の定義に先立って、どこで切り替わり、何を断ち、何を接続するか、その手つきが露わになる瞬間に立ち会うことである。  このことは、ドゥルーズ唯一の絵画論である『感覚の論理学』と照らし合わせるだけでも明らかであり、講義の射程が別の広がりをもつことが分かる。たとえば、クプカ、ルイス、エルバン等、著作ではあまり展開が見られない固有名もその手がかりになる。だがそれ以上に肝心なのは、著作の材料が加わることよりも、むしろ圧縮され整形されてしまう前の概念の手触りや温度が残っている点である。たとえば、明暗主義と色彩主義の交接点としての「灰色」、ギリシア的空間の転回としての「ビザンティン芸術」、色彩の体制をめぐって平塗りと対照される「点描」などへの反復的な言及を具体例として挙げることができる。これらはいずれも、イメージを物語や意味へと性急に回収してしまう表象の体制から、より光学的な、さらには触感的な体制へと移行する、一つの臨界点として機能している。  ここから見えてくるのは、散見される断片的な説明や言い換え、未整理の区別を、ただちに捨てられた道具と見なすことの誤りである。たしかにそれらは整った体系には見えない。しかし、それはけっして欠点などではなく、むしろ思考の過程が見て取れる証拠である。それらの断片を一つずつ検証していけば、書誌学的な理解にとどまらず、新しい概念が立ち上がりうる条件を読み取ることができる。それを名指すのが、この講義の通奏低音をなす「ダイアグラム」であろう。ダイアグラムとは、イメージを意味へ回収する回路をいったん断ち切り、別の現前の入口を作る操作にほかならない。灰色、ビザンティン芸術、点描などが一度切りではなく、繰り返し取り上げられるのも、この入口が開かれる手前の緊張を講義が保持しているからだ。  この構造は絵画における制作にも似ている。制作は真っ白なキャンバスに自由に描き出すことから始まるのではない。すでにそこには紋切り型、すなわち既成の図像、陳腐な構図、手癖が先回りして待ち構えている。ドゥルーズが「描く前のこの幽霊たちとの戦い」(五七頁)と呼ぶように、画家の闘いは筆を握る前から始まっており、まずそれらを崩したり、ずらしたりすることで、キャンバスを新しい現前が出現しうる場へ変えねばならない。講義も同様で、概念は最初から純粋に与えられるのではなく、常套句や固定観念の圧力をはねのけながら、その場で用いられ、試され、変奏されることで立ち上がる。  本書をこのように読むならば、絵画史や美学的言説への異様なまでの接近が目につく。だが肝心なのは、言及の多さそれ自体ではない。作品や美学的言説は単なる装飾ではなく、概念を作動させるための選別と配置として現れる。哲学に何をもたらすかという観点から取捨選択された作品群と美学的言説の束ね方を追うだけでも、そこには一つの美学を構築しうる骨格が浮かび上がるだろう。  そしてこの操作は、映画についてドゥルーズが行った仕事とも響き合う。彼は講義という実験場で、映画作品と映画史的布置を足場にしながら、イメージと記号の分類学を立ち上げ、『シネマ』という浩瀚な二巻本の映画論へ結晶させたからだ。だが、ここで指摘したいのは単純な類比ではない。映画講義が多様な作品群を参照しつつ展開するのに対し、絵画講義はフランシス・ベーコンという一点へ選別を伴って収斂する。両者を対照すれば、ドゥルーズが辿った反復、切断、接続の回路がまた異なるかたちで見えてくる。  フランスでは本書にくわえてスピノザ講義ほか『千のプラトー』につながる二冊の講義録もすでに刊行されているが、そのほかの講義の書籍化、さらにはその翻訳も待たれる。それは資料の補塡のためだけでない。講義という形式が、ドゥルーズの概念生成の現場をはっきり露呈させるからである。本書は、ドゥルーズの著作に慣れ親しんだ読者にとっては理解を揺さぶる異物として、はじめて手に取る方にとっては思考のライブとして、概念が生まれる瞬間を突きつけ、新たな入口を開くことだろう。(ダヴィッド・ラプジャード編・宇野邦一訳)(くろき・ひでふさ=東京都立大学助教・フランス現代思想)  ★ジル・ドゥルーズ(一九二五―一九九五)=フランスの哲学者。著書に『差異と反復』『意味の論理学』『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』『襞』『シネマ』、フェリックス・ガタリとの共著に『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』など。

書籍

書籍名 ジル・ドゥルーズ講義録 絵画について
ISBN13 9784309229799
ISBN10 4309229794