2026/10/09号 5面

こんなにも多くの人が、マリアナ

こんなにも多くの人が、マリアナ マリア・ジュディッテ・デ・カルヴァーリョ著 矢澤 美佐紀  この度初めて、カルヴァーリョ文学の日本語訳が出版された。訳者の木下眞穂の筆致は端正で読みやすい。「ポルトガル文学界の慎ましい花」と称されながら、死後ほとんどが絶版となっていたマリア・ジュディッテ・デ・カルヴァーリョ(一九二一―一九九八)の作品は、近年の全集刊行を機に世界的な評価が高まっているという(「訳者あとがき」)。木下は、一九五九年に出版された第一短編集『こんなにも多くの人が、マリアナ』(八篇収録)に、一九六六年の中編「空の戸棚」を加えて一冊とした。稀有な作家カルヴァーリョの、緻密で繊細な心理劇をたっぷりと味わうことができる。  カルヴァーリョは、一九五〇年代から六〇年代の独裁政権下で虐げられた人々、とりわけカトリック信仰と結びついた家父長制に抑圧された女たちの救いがたい孤独の内実を、思慮深く、かつ息苦しいほどに炙り出す。語られる女たちの多くは、過酷な差別意識に晒されながら出口のない暗闇のなかで死んでいく。その概念さえ存在しなかった時代に、DV、ジェンダー、毒親、モラル・ハラスメント、共依存などを文学的な課題として先取りし、それらがいかに普遍的で、人間が人間らしく生きる上でどれほど重要な問題であるかを提示してみせた。女たちのやりきれないため息に触れるうちに、馴染みのなかったかつてのポルトガルが、日本の現在に重ねられていく。  表題作の視点人物マリアナは、身寄りのない貧しい女だ。多くを望まず実直に生きてきたが、夫は彼女を捨て、別の女と教会が介在する、より正式な結婚をしてしまう。夫との間に身ごもった息子も喪い、死病を得た制度外の女を社会は不可視の存在として追いやっていく。苦境にあっても自己を冷笑するかのように見つめ、「同じ公人(プブリコ)という言葉を使っても、男だと公人、女だと、娼婦になる。結局、このふたつの言葉には何か関連があるのでは?」とうそぶく彼女の知性に、誰ひとり気づくこともないのである。家父長制度内の貞淑な妻/母であったはずの祖母の、祖父の死にまつわる意外な秘密が暴かれる「カンディダおばあちゃま」や、題名から想像される物語を裏切って、男の非情なエゴイズムが辛辣に語られる「母親」などはミステリー仕立てとなっており、作者の技法の豊かさに驚く。「空の戸棚」の語り手「私」は、「未亡人」である友人の自分を押し殺した寡黙な日常を淡々と語る。「彼女」は、自由にものを言う利発で奔放な娘と亡夫の自己中心的な母親という三世代の女の紐帯のみを頼りに生きていた。しかし、ある時姑から夫の秘密が明かされるとアイデンティティの危機に陥ってしまう。そこから脱するように成熟した女への変貌を見せ始めるが、「私」の同棲相手である軽薄な金持ち男の気まぐれから物語は予期せぬ方向へと進んでいく。読者の期待をずらしていく巧妙な語りは、黙る「彼女」の内側にある込み入った言葉を引き出し、抑圧の実相を前景化させる。一方、男性に視点を当てた作品もある。「人生と夢」や「日曜日の散歩」は、妻を自分の世界に接続させない男の身勝手を描きながらも、体制内の労働現場から疎外される彼らの虚無をありありと映し出している。  『こんなにも多くの人が、マリアナ』という謎めいた奇妙なタイトルは、全篇に通底する悲しみや憤りと共振している。「こんなにも多くの人が、マリアナ」のように生きている? 「マリアナ」を「多くの人」が見捨てた? 通読して答えが得られたような気がしたとたん、そのことが自分に照らし返される。カルヴァーリョの作品を、もっともっと読みたくなる。(木下眞穂訳)(やざわ・みさき=早稲田大学他非常勤講師・日本近現代文学)  ★マリア・ジュディッテ・デ・カルヴァーリョ(一九二一―一九九八)=リスボン生まれの作家。夫は作家のウルバノ・タヴァレス・ロドリゲス。「ディアリオ・デ・リスボア」紙などの新聞社にて編集者として働く傍ら短編や中編、エッセイなどを執筆。数々の文学賞を受賞した。

書籍

書籍名 こんなにも多くの人が、マリアナ
ISBN13 9784087735383
ISBN10 4087735389