2026/06/19号 3面

海からみた北極域

海からみた北極域 高倉 浩樹編 大石 侑香  本書のタイトルには、北極域というあまり馴染みのない地域概念が付されている。書評に代えて、本書でなぜこの地域概念を用いているかについて考えてみたい。まず、北極点を中心にした地図を想像してみてほしい。南極と異なり、北極の中心には北極海が広がっている。その中央には季節によって大きさを変える海氷が浮かび、周辺をユーラシア大陸と北米大陸、グリーンランドなどの島々が取り囲んでいる。この北極海と、それに面するユーラシア大陸・北米大陸の北方地域を合わせた範囲が北極域である。  この地域は高緯度で寒冷な気候を特徴とする。海氷や氷河、永久凍土などの自然環境を調査・研究するための枠組みとして北極域等地域概念が構想されてきた。本書が強調するのは、この概念が自然環境の区分というよりも、むしろ政治的に区画化されたものだという点である。なぜなら北極域という概念は、20世紀末の冷戦崩壊にともなう大きな地政学的変化のなかで登場したからだ。1987年に当時のゴルバチョフ大統領の演説において、北極海周辺の環境問題を解決するための国際協力が提唱された。これを契機に、1990年代には「北極評議会」や「国際北極科学委員会」といった国際組織が相次いで設立される(p.17-18)。つまり、北極域における自然科学の環境研究もこうした国際関係の動向と並行して推進されてきた。  本書もそうした潮流に位置づけることができる。本書は、2020~2024年度にかけて実施された文部科学省補助事業「北極域研究加速プロジェクト(ArCSII)」の社会文化課題における成果の一部を編んだものだ。このプロジェクトでは北極の気候変動とその社会的影響について学際的な共同研究が行われた。社会文化課題が対象としたのは、陸域の環境変化、エネルギー資源開発と経済、そして先住民社会である。そのなかでも本書は先住民社会と商業漁業に焦点をあて、気候変動とグローバル政治経済がいかなる影響を及ぼしているかを論じている。  先住民社会に焦点を当てる理由は、彼らは自然に左右される生業を営んでいることが多く、公共サービスやインフラが行き届かない僻地に暮らしているため、生活基盤が気候変動の影響を受けやすいと考えられているからだ。本書には、先住民の健康、食の安全保障、伝承文化、環境保全、政治運動など、多岐にわたる現代的課題を扱った論文が収められている。しかし、そこで明らかになったのは、意外にも気候変動による環境変化より、政治経済の動向の方が北極先住民に大きな影響を与えているという事実だ。北極先住民は植民地化の歴史のなかで社会・文化要素を著しく損なってきたが、彼らの幸福や安心感は、独特な形で生業や食と深く結びついている。  上述の比較的新しい政治的区画に加え、この地域は15世紀以降の欧州・北欧による北極海探検と開発の歴史によっても特徴づけられる。彼らは世界商品であったクジラ、アザラシ、タラなどの海洋資源や毛皮動物を求め、航路を開拓しながら北極海へと進出した。この海域での探検において先住民との接触はなかったと考えられているが、北極先住民の諸課題を総合的に把握するためには、こうした歴史的な視座から北極域の商業漁業を捉え直す必要がある。  そして、これらの課題は日本社会とも無関係ではない。北極の気候変動が日本の気象の極端現象を引き起こすことはよく知られているが、それだけでない。本書の事例からは、グローバル化や政治経済の波が、北極域と日本を繫いでいることが見えてくる。例えば、中国における北欧産サーモン消費増大と日本食のグローバル化との関係や、アラスカのツンドラ地帯のダンプサイトに日本の工業製品が放置され、現地住民の健康を脅かしている現状などだ。本書は日本とのつながりという視点からも深く考えさせられる、北極域研究の入門書として最適な一冊である。〔執筆=岸上伸啓・野口泰弥・立川陽人・石井花織・是澤櫻子・中野久美子・永山ゆかり・吉田睦・川口幸大・赤嶺淳・デイビッド・アンダーソン・日引聡〕(おおいし・ゆか=神戸大学大学院国際文化学研究科准教授・文化人類学)  ★たかくら・ひろき=東北大学東北アジア研究センター教授・社会人類学・シベリア民族誌。

書籍

書籍名 海からみた北極域
ISBN13 9784787725066
ISBN10 4787725068