空海
安藤 礼二著
橋爪 大三郎
『群像』に連載された原稿が単行本になった。五五八頁もある。序章、即身から始まって、仮名/虚空/華厳/真言/曼荼羅/不空/最澄/平城/高野/天籟、の全十一章。空海の生涯を順に追うように話は進む。
空海は日本の仏教を世界レヴェルに高めた異能の僧だ。山岳で修行し、身体能力に優れ,書も巧みで、漢語や梵語も堪能だ。最澄と遣唐使船で中国に渡り、恵可から密教の奥義を授かって帰朝した。密教を完全に咀嚼し真言宗に成型した。
昔、陳舜臣『曼陀羅の人 空海求法伝』という小説があった。空海の生涯と人物がくっきり浮かび上がる快作である。
本書も小説っぽいところがある。たとえば第二章虚空は、こんなふうに始まる。《そこはただ、空と海が広がっているだけだった。/太陽は海から昇り、また海へと没する。…青年は、…世界の果てであるこの場所から、今度は世界の中心に向けて旅立ってゆく。青年は、そのときにはじめて「空海」という名前を得る。》(90頁)
でも本書は、小説ではない。淡々と、空海の研究書や解説書を再構成していく。たとえば第一章仮名は、武内孝善、阿部龍一、加地伸行、堀池春峰の仕事にもとづくとある。他の章もそれぞれさまざまな参照文献の二次加工。どこからどこまでが著者のオリジナルな貢献なのか。アカデミアならこのやり方はルール違反の困りものである。
その昔、小林秀雄『本居宣長』が似たやり方だった。研究書や解説書の紹介と自分の考察が癒着している。これが自分のオリジナルだ、文句あるか、で押し通した。
本書は空海の仕事を、ユーラシアの広大な空間のなかで、世界史的なスケールで描こうとする野心作だ。その意図は壮大でよい。だが、典拠に即して語るので議論が窮屈で、筋道が追いづらい。評者なりにポイントを整理してみよう。
第一。空海は若いころ山岳で修行した。第二、二四歳で『三教指帰』を書いた。第三、漢語をマスターし中国に渡った。第四、恵可から真言密教の奥義を授けられて帰国した。第五、真言宗の教理を完成して、高野山に拠点を築いた。
結果からみれば、空海は真言宗の開祖である。でも実際には、マルチタレントのベンチャー起業家ではないか。真言宗どころか、そもそも仏教の枠にも収まらない。
『三教指帰』とは、儒学も道教も仏教も、帰するところは一つの意味。空海はともかくまず、これらを学んだ。空海自身と思われる「仮名乞児」が登場して、仏教の立場から儒学や道教を論駁する。空海は、仏典ばかり読んでいたわけではないのだ。そして山岳信仰。当時、山林原野を遊行する集団がいた。山伏や修験道の元祖のようで、ノーマルな仏教と違ったグループだったろう。日本の自然は神々の棲みか、仏教の外郭にあった。その関係を自分ごととして考えたのが空海だ。ヒンドゥー教もそれを踏まえた密教も、神々と仏の関係を統合しようとする。空海が密教に惹かれたのは当然ではないか。
密教の経典は大日経。そして金剛頂経である。大日経と金剛頂経は世界観(曼荼羅)が異なる。だが空海は、密教の真理はただひとつのはずで、両者は同一だとする。それを凝縮するのが真言(陀羅尼=呪文)だ。
密教はなぜ、仏教全体を包摂できるのか。それは仏教が、もともと矛盾を抱えているからだ。
仏教は(ヒンドゥー教も)、「この世界はすでに完成している」(A)と考える。永遠の昔から完全なのだ。不変の因果律(=真理=ダルマ)がこの世界に行き渡っている。人間はこの真理を認識できるのか。認識できるひともいる。クシャトリア出身の釈尊が思い立って出家し、真理を覚ってブッダとなった、とするのが仏教だ。ならば人間(衆生)はみな仏弟子となり、覚りを目指すべきではないか。
すると「意志する→修行する→覚る」(B)という過程が存在することになる。釈尊はその意志がかたちになったもの。ただ人間は、世界の因果律の一部である(A)。因果律だけなら、意志など存在できるのか。
(B)が可能かどうかをめぐって、仏教は右往左往した。覚りまでの期間が長くなった(歴劫成仏)。かと思えば、如来蔵や仏性が考えられた。その果てに現れたのが密教だ。世界(A)の実体は法身毘盧遮那仏。つまり覚りである。だから衆生は、意志しなくてももう覚っている。修行は必要ない。「自分がもう覚っている」ことを理解すればよいのだ。
密教は、仏教の根本をひっくり返し、ほとんどヒンドゥー教にしてしまう。なぜ平安朝は、密教を必要としたのか。仏教の原則を破って、日本の神々と和解する必要があったからではないか。
空海の偉業は、インドの神々と仏教の関係を見極め、中国の漢訳仏教の思想をわがものとし、日本の山岳信仰の精神を捨てなかったことだ。この空海をまるごと批評しようとすれば、けっこう壮絶な格闘になる。
だから著者が本書に注いだエネルギーは並々でない。空海と四つに組む覚悟にも敬服する。
あえて不満をのべるなら、空海を語るのに漢語に頼っていること。空海の紡いだ漢語、研究書や解説書が当たり前のように用いる漢語。もしも空海の世界的な普遍性を語りたいのなら、空海の駆使する漢語とは独立の普遍語を持ち合わせなければならない。空海が自身について語った言葉が、かえって空海をみえなくする。漢語を普遍語に置き換えれば、本書はもっと短く収まるだろう。
姉崎正治も大川周明も井筒俊彦も鈴木大拙も中村元も、アジアの宗教を世界的文脈に置こうとした先達は、普遍語で語ろうとした。だから英語にもなった。いまの漢語ベースのやり方では、それができない。
ではどうする。ヒントは本書に書いてあると思う。たとえば真言。言葉はブッダや神々をはみ出している、この世界の実在の一部である。だから真言に、この世界の本質が凝縮されうるのだと。真言密教の秘密だ。ここを基点に、空海の秘密を解き明かすことができないか。そういうないものねだりをしたくなるほどの力作が、本書なのだ。(はしづめ・だいさぶろう=大学院大学至善館特命教授・社会学)
★あんどう・れいじ=文芸評論家・多摩美術大学教授。著書に『神々の闘争』『光の曼陀羅』『折口信夫』『大拙』『列島祝祭論』『熊楠』『縄文論』『縄文論』『井筒俊彦』『死者たちへの捧げもの』など。一九六七年生。