2025/11/28号 6面

境界で息をする

境界で息をする 蔡 芢錫著 林 幸史  人生にはいくつかの段階があり、各段階では解決すべき心理的な課題がある。それらは人生の危機と呼ばれ、それを乗り越えることで、人は成長を遂げる。中年期の課題は、これまでの人生を振り返り、その意味を問い直し、今後の生き方を定めることにある。本書は、中年期後期の男性大学教授の自己変容の物語である。タイトルにある「境界」には、以前の状態からは離れたが、未だ新しい状態には達していない「過渡」の意味がある。長い旅に出ることで、これまでの自分と離れ、自身の歩みを振り返り、これからの生き方を模索することで、新しい自分に生まれ変わる。著者は、長年夢見続けて実現させたバックパッカーとしての経験を自己エスノグラフィーという研究手法でまとめ上げる過程で、「傲慢な研究者」から「謙虚な研究者」へと変貌を遂げた。  著者の蔡芢錫氏は、軍事独裁政権から民主化へと移行する1980年代の韓国で青春時代を過ごした。1993年に国費留学生として日本の大学院に入学し、1999年に現所属の大学に入職する。これまで30年以上、経営学の組織行動論を専門として研究を続けて来た。その研究手法は、数値データを統計的に分析する量的研究であった。客観性と中立性を重んじ、主観と個人的な経験を徹底的に排除することをこれまで頑なに貫いてきた。しかし、長年行ってきた量的研究に対する意味の喪失を経験し、量的研究に空虚感を覚えるようになる。まさにミドルエイジクライシス、中年の危機である。  そのような人物が、研究者として生き続けるために、これまで主観的で非科学的だと馬鹿にしていた質的研究(インタビューや参与観察で集めた文字データから現象を記述、解釈し、意味を読み取る研究)の中でも、研究者自身の主観や個人的経験を重視する自己エスノグラフィーと呼ばれる手法を採用した。例えるなら、楽譜通り正確に弾くことにこだわり続けたクラシックのピアニストが、その場の空気を感じ即興で演奏するジャズピアニストに転身するといったところか。自分を変えるプロセスには、これまでの自分の信念や価値観が揺さぶられる出来事があり、葛藤を経験することが必要である。自己エスノグラフィーとの邂逅が著者にとってのそれに当たる。「研究者としての私」が、性格や価値観、好き嫌いや趣味から成り立つ「生身の私」と、1年間世界を転々とした「バックパッカーとしての私」を研究対象とする形で自らの半生が描き出される。バックパッカーとして出会った、異国の地で自らの人生を切り拓こうとする若者たちを通して、「過去の私」を思い起こし、自らを見つめ直した。  本書のねらいは、自分の人生をさらけ出すことで、読み手の心に共鳴・共感を引き起こすことであった。その意味で、評者の私にとって本書の目的は十二分に達成されている。それは、評者の私が、中年期の大学教授であり、かつての著者と同様に、量的研究者であり、「出世した研究者」「目立つ研究者」になりたいという欲もあるため、最も共鳴しやすい立場の人間であるからかも知れない。そして、何よりかつてバックパッカーとしての長い旅を経験した身であるため、旅を通した自己変容の物語を批判的に捉えることが難しいことも正直に告白しておく。ただ、著者がこれまで3度も取得した長期研究休暇は未だ夢のままである私からすれば、大規模大学で学部長まで務めた著者は大学教授の成功例としか見えない。そのような著者が、やりたいことが出来ない息苦しさや、しがらみを感じていた理由は何だったのだろうか。また、物議をかもす自己エスノグラフィーという手法を採用し、すべてをさらけ出すほどの覚悟を持ってしても描けなかったことは何なのだろうか。  今も変わらず著者の心は、日本と韓国、研究者としての自分と生身の自分、理想の自分と現実の自分、過去の自分と現在の自分といった境界で揺れ動いているだろう。2つの間で揺れ動き、不安、悩み、戸惑いを感じながら葛藤することは、青年期の若者に限ったことではない。中年期の大人の心も確立された堅固なものなどではなく、成長を望んでいる。本書からは、そのことが伝わってくる。(はやし・よしふみ=大阪国際大学人間科学部教授・観光心理学)  ★チェ・インソク=専修大学経営学部教授・経営学・組織行動論。大学に進学してから修士課程までをソウルで学び、その後、来日して博士学位を取得。共著に『マネジメントの航海図 個人と組織の複眼的な経営管理』など。一九六五年、韓国の小さな田舎町に生まれる。

書籍

書籍名 境界で息をする
ISBN13 9784788518971
ISBN10 478851897X