ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 457
実験映画と映画芸術
JD 最初期の映画作家は、映画が生まれつつある場に立ち会っていました。そこでは映画的空間の発見があり、それを用いてどんなふうにして奥行きを生み出すのか、試行錯誤が行われていました。または、その画面の空間外をどのようにして考えるのか。あるいは、どんなふうにして物語を語るのか。本当に多くのことを、少しずつ手探りで「発明」していく必要があったのです。絵画から映像の構図、小説から物語叙述法、舞台演劇から役者の演技など、あらゆる芸術を吸収しながら映画は生み出されていきました。その過程において、映画固有の表現も発見されていきます。それは、モンタージュです。最初期の偉大な映画作家の映画を見れば、グリフィス、エイゼンシュテインなどは、モンタージュの映画作家であることがわかるはずです。彼らは、モンタージュという表現方法を用いて、映画固有の空間と時間を生み出しています。
しかし、そうした表現方法は、ある時期に頭打ちになります。実際には、今日でもまだ考えるべきことはありますが、最も激しい時代は終わりを迎えています。つまり、トーキーの到来によって、モンタージュの芸術としての映画は完全に一度終わりを迎えています。その際に何が大きく変わったか。映画は断絶としての芸術から、連続性の芸術へと大きく転換していきました。映像の一つ一つが、映画全体の構成要素の一単位ではなくなり、映像そのものの内部に価値を生み出すようになったのです。そして、シークエンスを生み出すものとしての映像が重要になっていった。それが、グリフィスやエイゼンシュテインの時代の映画と、その後の映画の大きな違いです。
HK ムルナウなどの映画は、すでに連続性の芸術の領域にあったのではないでしょうか?
JD その通りです。ムルナウは、その後の映画の基礎を作り上げた映画作家だった。つまり、彼の映画は無声映画の完成系であると同時に、トーキーを先取りしていたとも言えるからです。字幕に頼ることなく、映像の組み合わせだけで映画を作ることに関心があった。彼の映画は、空間内の配置、空間の連なり、時間の流れなど、映画を形作る要素が、映像によって考えられています。
HK それが「映画とは何か」を考えているということなのでしょうか。つまり映画を形式面から考えている。
JD はい。しかし、ムルナウの映画を見ればすぐわかりますが、グリフィスやエイゼンシュテインのものとは根本から異なります。グリフィスが様々な出来事を同時に語ることに関心があったこと。エイゼンシュテインが一つの出来事を様々な視点から語ることに関心があったこと。それらとは全く異なる考えに基づき映画を作っている。
つまり、「映画とは何か」という問いに対する答えは複数あり――これから先もあり続けるものでもあり――、それぞれの映画作家が探求していくものなのです。
HK その答えは、モンタージュなどの「形式」の探求という話に繫がっていくことなのでしょうか。今日の映画では、おそらく初期の映画のような探求は難しくなっています。それはニコラス・レイやサミュエル・フラーの時代でも同様であったはずです。
JD なぜなら「映画とは何か」という問いは、単なる「形式」の問題ではないからです。当然のことながら、何を撮影するのか、何を取り上げるのかといった問題にも関わってきます。映画の形式だけを考えていても、面白い映画は生み出せません。それは、自分のヘソを見ては満足するような行いだからです。観客も知的に関心を持つだけです。そうした映画は、実験映画と言われるものになりますが、私たちの好きな映画芸術とは異なります。それは、映写機、カメラ、フィルムを用いた現代美術に近いものです。しかし、そうした分野は、非常に早い段階で頭打ちになっています。なぜなら、実験のために実験をするような映画であり、その実験は探求され尽くしてしまっているからです。
私たちの好きな映画は決してそのような知的な行いのみに基づくものではなく、感性に基づくものです。つまり、映画作家として、形式については当然考えなければいけない。なぜなら、モンタージュのちょっとしたリズム、映像の持続時間、映像内部の空間の在り方、映像の外の空間、映像と音の関わり、さらには役者の表情のあり方や些細な動作、物語叙述法など、あらゆる要素が一本の作品を形作るからです。 〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
