わが点鬼簿
四方田犬彦
第2回 福崎裕子(一九五五―二〇二五)
福崎裕子と最後に遇ったのは2010年の10月だった。アンヌ・ヴィアゼムスキーが自著のパブリシティのために来日するというので、わたしが相手役になって、東京の日仏学院で対談することになった。そのとき通訳を担当したのが福崎だったのである。なあーんだ、誰が訳すのかなと思ってたらきみだったのだと、わたし。そうよ、悪かったわねと福崎裕子。高等師範学校のときも、パリ・ディドロのときも、いつだってわたしが通訳してあげてたじゃない。そうだった。てっきりいつもパリにいるのだと思ってた。いつ東京に戻ってたわけと、わたしは答えた。
福崎裕子ともっとも頻繁に会っていたのは1970年代の前半である。わたしは東京大学の学部二年生で、後に悪魔的な師匠と判明する由良君美助教授のゼミに参加していた。神話原型論の理論的なテクストを読みながら、自分の好きな文学作品に適用して発表するというゼミで、科学哲学の大学院生やら、インド哲学の学部生やら、さまざまな学生が参加していた。そのなかにただ一人、大学一年生の女子がいて、マックス・フリッシュについて堂々と発表をした。それが福崎裕子だった。
その年のクリスマス・イヴだったと記憶しているが、吉祥寺のわたしの家でクラスメートたち3、4人と、男だけの無粋な宴会を開いていると、彼女が突然やって来た。予告もなく、いきなりにだ。しかも一升瓶を一本抱えて。
どうして家がわかったのだろうと尋ねてみたが、ウフフというだけで黙っている。これには居合わせていた男子連中がびっくりした。いい根性してるなあと一人がいった。高知の女はこんなの当たり前よと、彼女が答えた。高校のときはドイツ文学が好きで、何でもかんでも翻訳を読んでいたのだけれど、今はフランスが大好きで、フランスのことしか頭にない。一刻も早くパリに留学したいのと、彼女はいった。
70年代の終わりごろ、わたしは突然ソウルに行くことにした。出発の直前、福崎裕子とどこかでばったり遭ってしまい、夜遅くまでいっしょに呑んだことがあった。新宿である。酔いつぶれた彼女をタクシーに乗せると、西荻窪のアパートまで送って行った。福崎裕子は妹といっしょに住んでいた。わたしは妹さんに挨拶だけして、すぐに隣駅にある自宅へと戻った。ただひとつだけ印象に残っているのは、本棚に日夏耿之介訳のバートン版『千夜一夜物語』が三冊並んでいたことだ。これはわたしの一番大好きな本なのよという彼女の言葉を、わたしは今でも憶えている。
その後はパリだ。福崎裕子はあちらで学位を取得すると、高等師範学校でずっと日本語を教えてきた。十年くらいいたのだと思う。その間にロシア語も学び、相当に遠いところまで行った。それから東京に戻って来て神楽坂のあたりの大学で教えだした。
パリではね、女の子が男の子を部屋に誘うときには、洗面所に髭剃りを置いたり、男物の靴下をさりげなく床に散らばらしてみたりして、最初はいかにも彼氏がいるように振舞うのがエチケットなのよ。ひさしぶりに会う福崎裕子は、そんな話ばかりしていた。本当かどうか、わたしにはわからない。
福崎裕子の死を知ったのは昨年の終わりだった。大新聞が「今年逝去した映画人」として、彼女の名を挙げているのを読んで驚いた。わたしの知るかぎり、彼女は論文も翻訳も、ほとんど何も書き物を残さなかった。ただひたすら日仏間の通訳に徹し、若い通訳者の養成に努めた。言葉は口にされた次の瞬間に消えてしまう。わたしはこれから彼女のことを、どのように思い出せばいいのだろう。(よもた・いぬひこ=映画誌・比較文学研究家)
